東慶寺 縁切寺
この記事では、中世にて鎌倉尼五山の第二位に列した東慶寺の歴史と、縁切寺と呼ばれる由縁について調べてみました。
東慶寺 |
東慶寺
山号寺号 :松岡山東慶総持禅寺建立 :弘安八年(1285)
開山 :潮音院殿覚山志道尼
開基 :北条貞時
住所 :神奈川県鎌倉市山ノ内1367
拝観時間 :8時30分~16時30分(4月~9月)・8時30分~16時(10月~3月)
拝観料 :大人200円 ・小・中学生:100円
公共交通機関:JR「北鎌倉」駅より徒歩4分
東慶寺縁起
東慶寺は、臨済宗円覚寺派で、古くは松岡御所、俗に駈入寺、駈込寺・縁切寺・鎌倉比丘尼所などと呼ばれており、室町時代には鎌倉尼寺五山第二位に列せられています。寺伝によると、弘安八年(1285)の開創で、開山は潮音院殿覚山志道尼、開基は北条貞時といわれています。文献・資料からは、寺勢が衰えた様子が伝わらず、実際にも後北条氏からは、鎌倉三ヶ寺の一つに数えられており、また江戸時代にて最も隆盛するという鎌倉寺社にしては比較的珍しい歴史を歩んでいます。
東慶寺山門 |
東慶寺 |
覚山志道尼
開山の覚山志道尼(かくさんしどうに)は、北条時宗の妻で、出家前は堀内殿と呼ばれていました。秋田城介(安達)義景の娘で、九代執権北条貞時の母です。
弘安七年(1284)、北条時宗が元寇における激務のためか、34歳の若さで亡くなります。堀内殿は出家し、覚山志道と安名されました。このとき堀内殿に続き、一族従者34人が後を追って出家しました。不幸は続くもので、翌年の弘安八年(1285)、兄である安達泰盛が、平頼綱との政争によって一族もろとも滅ぼされるという霜月騒動が起こります。
覚山志道尼の墓 |
縁切寺法
別名「縁切寺」として有名な東慶寺ですが、いつからそんな寺法ができたのかというと、『松ヶ岡東慶寺誌』(以下、東慶寺誌)によれば、覚山志道尼が不法な夫に虐待され自殺まで考えるあわれな女性を救済し、三年間当寺に入れて、縁切して身軽自由になれる寺法を、貞時から勅許を仰いで公認されたとありました。
このように開山以来特別な寺法があったようですが、東慶寺誌の著者である井上禅定老師は、「確かな資料もなく確証はない」としながらも、室町末期に成立したとされる創作物語『唐糸草子』に、唐糸が頼朝を暗殺しようとして松ヶ丘殿へ預けられるという一幕を引用して、少なくとも室町期では女人救済の寺法が確立していたのではないかと推測しています。
つまり、この『唐糸草子』が創作上の物語だとしても、女性が松ヶ丘に預けられるというワンシーンが描かれているということは、既に当時から駈込寺としてのシステムが構築されていたということになるということです。
東慶寺 |
東慶寺 |
歴代尼僧墓所
境内奥は東慶寺の墓苑となっていて、歴代尼僧の墓塔が安置されています。開山の覚山志道尼と、用堂尼の墓塔がやぐらに収められています。
第五世住持の用堂尼(ようどうに)は、後醍醐天皇息女で、護良親王の姉でもあり、護良親王の菩提を弔うために入山したと云われています。この時より松岡御所と称されたようで、その後、松岡(松ヶ岡)と言えば、それは東慶寺を指すものと周知されるようになりました。
その他、中興祖と云われる豊臣秀頼の息女で第二十世住持の天秀尼、関東足利の末裔で喜連川家の息女である第二十一世住持の永山法栄尼の墓などがあります。
天秀尼の墓 |
松岡御所役所 御用宿
東慶寺に入る女性を駈入女と云います。その駈入女の身元調査などを行う東慶寺付属の寺役所が当時にはあって、これを松岡御所役所、略して松岡役所といいます。
そして駈入女が身元調査の間、宿泊する宿を御用宿といい、これら柏屋、仙台屋、松本屋といった宿が役所の裏や街道を隔てた寺役所の前などに建っていたそうです。松岡役所は表門の左にあったと記されています。その他、番所・物見があったとのことですが、下画像の街道沿いに描かれた建物が、そのどれかでしょうか。
新編鎌倉志 東慶寺項挿絵下部 |
東慶寺入山までの流れ
近現代以前、どうしようもない男性と結婚してしまった場合、女性が離婚したくとも、男性が許可しなければ、離婚ができませんでした。そこで、東慶寺に入り、24ヶ月の寺勤めをすれば、離縁証文が発行され、離婚が成立するという仕組みになっています。もちろんその後は、親元へ帰れますし、新しい男性とも再婚できます。上の縁切寺法の項で、3年の寺勤めと記しましたが、それは覚山志道尼の時代で、その後に用堂尼が2年に短縮したと云われています。
一連の流れとして、まず、東慶寺の門を叩くと、身元調査をされ、御用宿に預けられます。そして上述した松岡役所が呼出状を以って親と夫を呼び出します。夫が詫びた時は復縁、それでも離婚したい女性は、そのまま24ヶ月の寺勤め、そして夫が離縁状を出せば、その場で離縁が成立するという仕組みになっています。
面白いのは、「駈入女があと一歩で追手に捕まりそうな時は、下駄でも櫛でも何でもいいので、自分の所持品を門内に投げ込めばセーフだった」とありました。このルールからも、そんな緊迫した事例があったのかもしれません。必死な本人達には失礼ですが、想像するとちょっと可笑しくなりました。だって寺役所の前の門番が、セーフ!とかアウト!とか判定していたのでしょうか。
東慶寺 |
明治6年、裁判所に訴え出れば、女性からでも離婚の請求ができるようになりました。東慶寺は、女人救済の尼寺としての役割を終え、現在に至ります。
東慶寺 |
0 件のコメント:
コメントを投稿