天秀尼の墓
この記事では、縁切寺として知られる東慶寺の二十世住持・天秀尼の墓と東慶寺歴代住持墓所について詳しく記してみました。
天秀尼の墓 |
天秀尼
俗名 :不詳生年 :慶長十四年(1609)
没年 :正保二年(1645)
父 :豊臣秀頼
母 :成田五兵衛助直の娘
養母 :千手院殿千姫
元和元年(1615)に大阪の陣で豊臣家が滅亡したことにより、豊臣秀頼の娘である天秀尼は徳川方に身柄を引き渡されてしまいます。しかしこのとき徳川家康の娘の千姫が養母になったことから、東慶寺への入山を条件に助命されたと伝えられています。
千姫の後ろ盾を得た彼女は、寛永十九年(1642)に東慶寺第二十世住持に就任、開山以来の寺法を護り縁切寺としての東慶寺を再興させました。しかし正保二年(1645)に37歳という若さでこの世を去ってしまいます。
基本情報
名称 :天秀尼の墓所在地 :松岡山東慶総持禅寺
住所 :神奈川県鎌倉市山ノ内1367
拝観時間 :8時30分~16時30分(4月~9月)・8時30分~16時(10月~3月)
拝観料 :大人200円 ・小・中学生:100円
公共交通機関:JR「北鎌倉」駅より徒歩4分
天秀尼の墓
鎌倉には歴史上の人物の墓とされるものが多くありますが、確実に本人の墓だとわかっているのは片手で数えるほどしかありません。天秀尼の墓はその一つです。東慶寺の境内を奥に進み一段高くなった平場へ登ると天秀尼と歴代住持の墓塔が安置されています。
天秀尼の墓 |
天秀尼の墓は無縫塔もしくは卵塔と呼ばれるもので、元は禅宗(臨済宗)の僧侶が鎌倉時代頃から墓塔として用いてきました。のちに近世頃から他の宗派でもこの無縫塔を墓塔とするようになり、現在では宗旨関係なくお寺に行けばだいたいこの形状の石塔を目にすることができると思います。
特筆すべきは我々素人でもわかるほど刻まれた文字が明確に読み取れることです。まずは正面に「当山二十世天秀泰和尚」と刻まれているのがわかります。
天秀尼の墓正面 |
天秀尼の墓裏面 |
そして裏面はというと、漢字ばかりで頭が痛くなりそうですが、以下のように刻まれています。ちなみに□は何という字なのかよくわからなかった部分です。
当山天秀和尚者豊国神君之的子
正二位右□相秀頼公之息女他由
来開以東入松岡山東慶寺室幼薙髪
而著僧迦梨加之□黄梅古帆禅師玄
門透過那辺再興総持禅師遺風頓示
滅於二月花旦夫与老釈示寂月
釈氏余縁熾哉
小阿子法堯造立旃
正保二年乙酉二月七日
正二位右□相秀頼公之息女他由
来開以東入松岡山東慶寺室幼薙髪
而著僧迦梨加之□黄梅古帆禅師玄
門透過那辺再興総持禅師遺風頓示
滅於二月花旦夫与老釈示寂月
釈氏余縁熾哉
小阿子法堯造立旃
正保二年乙酉二月七日
東慶寺に入山し、黄梅院の古帆に参禅し、総持禅寺の遺風を再興し、正保二年(1645)に寂したなどと刻まれています。このように墓塔は本人のものであるという希少価値に加え、読んで楽しめるという付加価値が付いてきます。
新緑の季節の天秀尼さま |
紅葉時期の天秀尼さま |
それでは、せっかくなので東慶寺墓所内にある天秀尼以外の墓もみてみましょう。
天秀尼に仕えた女性の墓
天秀尼の墓の左側に宝篋印塔が置かれています。大阪城落城以来天秀尼に付き添って仕えたとされる女性の墓で、塔身の四方に「台月院殿明王宗鑑大姉、天秀和尚御局、正保二年九月二十三日」と刻銘され、天秀尼の命日も刻まれています。彼女の詳しい素性はあまりわかっていないようです。
天秀尼に仕えた女性の墓 |
永山法栄尼の墓
こちらは天秀尼の次の住持、二十一世の永山法栄尼の墓です。天秀尼の墓の並びにあります。天秀尼が寂した10年後の明暦元年(1655)に喜連川家から17歳で入山しました。喜連川家は、太平寺(廃寺)住持の青岳尼の弟・足利頼純が興した家です。
永山法栄尼の墓 |
東慶寺墓所の謎
東慶寺は代々足利家の女性が住持を務めてきました。そして興味深いことに、上記した二十一世住持の永山法栄尼の墓は残されていますが、天秀尼以前の歴代住持の墓が東慶寺には存在しません。青岳尼の妹の十七世旭山尼の墓もありません。一体何があったのでしょう。
東慶寺歴代住持墓所 |
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