桟敷尼とぼたもち寺
腰越の法源寺と名越の常栄寺の別名をぼたもち寺いいます。どうしてどちらもぼたもち寺と呼ばれるのでしょうか、そしてぼたもち寺の縁起に登場する桟敷尼とはどういう人物なのでしょうか。ちょっと調べてみました。
法源寺 |
ぼたもち寺の由来
文永八年(1271)9月12日、幕府に捕らわれた日蓮が龍ノ口に連行されていくとき、桟敷(さじき)の尼がゴマのぼたもちを作って「仏のご加護がありますように」と日蓮に渡しました。
その後、龍ノ口で日蓮が処刑を免れたことから「首つぎのぼたもち」といわれるようになります。腰越にある法源寺と名越の常栄寺に同じ伝承が残されており、どちらも「ぼたもち寺」と呼ばれています。
龍ノ口法難ぼたもち供養ご絵伝 |
法源寺
腰越の法源寺は、龍口寺を正面に見て右側にある細い路地を入っていき石碑がある坂道を登った先に所在しています。
法源寺へ向かう坂道 石切りの名残りが少しだけ見える |
経一殿という額を掲げる稲荷堂と本堂があります。裏側が墓地となっていてそこから海が見渡せました。位置的にも小動岬が見えていると思われます。ちょっとした丘の上のお寺といった感じです。残念ながら境内・墓地には中世のものらしき石塔類は特に見当たりませんでした。
法源寺 左が稲荷堂 右が本堂 |
法源寺から見える景色 左の山は小動岬 |
法源寺縁起
法源寺は文保二年(1318)に日行が開いたと云われています。「この寺はもと腰越字中山460番地にあった」と『鎌倉市史 社寺編』(以下市史)にありましたが、現在の住居表示と違うようなのでよくわかりませんでした。
しかし『かまくら子ども風土記』(以下風土記)に「勧行寺と本龍寺の間」にあったと記されています。風土記は市史の記述を模しているので、両者は同じ位置を指しているかと思われます。ですから法源寺は腰越駅からも近い龍口寺輪番八ヵ寺の5つが集中するエリアにあったようです。移転した時期は市史・風土記ともに不明だとあります。
Google map 腰越 ①龍口寺 ②法源寺 ③本龍寺 ④東漸寺 ⑤妙典寺 ⑥勧行寺 ⑦本成寺 ⑧腰越駅 ⑨満福寺 ⑩小動神社 |
現在の法源寺の辺りは龍ノ口(龍口寺の辺り)で処刑した死骸を捨てたところと伝えられていて、その霊を慰めるために八ヵ寺のうち一つをここへ移し、一木二体の祖師像を龍口寺及び法源寺に分奉したとあります。
常立寺も同じく「処刑された死体を埋葬して塚を築き供養した」場であったので、龍口寺を中心とした丘陵部一帯が処刑場に関連する土地だったようです。
実際にも法源寺では、境内から刀傷がある人骨が出土したとあります。境内に中世の石塔は見当たらなかったと言いましたが、この土地自体が中世からある意味「霊場」だったんですね。
春の法源寺 |
常栄寺
それではもう一つのぼたもち寺である名越の常栄寺です。裏山はかつて源頼朝が由比ヶ浜の放生会を見物するために、展望台のような桟敷を設けた所だったとあります。桟敷の尼はそこに住んでいたので、桟敷の尼と呼ばれるようになりました。
兵衛左衛門尉なる人物の妻、もしくは常栄寺の寺伝によれば、印東次郎左衛門尉祐信の妻とも云われています。『吾妻鏡』をざっと見た限り、安貞二年(1228)と嘉禎二年(1236)に印東八郎、寛元三年(1245)に印東次郎という名が見えます。両者は時系列的にも親子でしょうか。
また、安貞二年(1228)の記事にある印東八郎なる人物は、文面からはどうやら将軍頼経の近侍のように見受けられます。
常栄寺 |
常栄寺では、毎年9月12日にぼたもち供養が行われます。常栄寺がいつもこのように花でいっぱいの境内になっているのかわかりませんが、訪れたちょうどこのとき、ぼたもち供養のある9月には境内がちょっとしたお花畑になっていました。まるでぼたもち供養の時期に合わせたように境内が整備されているようでした。
常栄寺 |
桟敷の尼は比企一族?
法源寺に話を戻しますが、市史に、法源寺総代である金子氏の先祖が桟敷尼と伝えられているとありました。こちらでは「日蓮におむすびを供養した」と言い伝えがあるそうです。風土記でも桟敷尼の実家が腰越にあったと記されています。
また、一説では桟敷尼は比企能本夫人の姉と伝えられています。ここで繋がってくるのが、輪番八ヵ寺の一つで腰越にある本龍寺が比企能本の邸跡と伝えられていることです。
上記したように法源寺は本龍寺の隣に元々あったと云い、また名越の常栄寺は比企一族を弔う妙本寺に隣接しています。ひとつひとつの伝承は不確かで頼りないものですが、こうして伝承と伝承が合わさるとそれぞれがリンクしてきます。意外にそのまま真実だったりするのかもしれません。
本龍寺 |
ぼたもち寺の由来と鎌倉時代のぼたもち
ぼたもち寺というお寺がどうして2つもあるのだろうと思っていましたが、こうして調べてみると、どちらもそれなりの由縁があることがわかりました。腰越の法源寺は桟敷尼の実家、名越の常栄寺は桟敷尼の嫁ぎ先だったようです。
個人的には鎌倉時代に既にぼたもちがあったことに驚きます。現在のように甘味料もそんなになかったでしょう、どんな味だったのだろうと考えたとき、私の叔母が作る甘さ控えめにも程があるだろうとツッコミたくなるあのお世辞にも美味いとは言えないぼたもちを思い出しました。
常栄寺の萩の花 |
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