〈弁ヶ谷〉北条時政邸跡
鎌倉の材木座にある丘陵部周辺を弁ヶ谷と云います。谷戸内には最宝寺・崇寿寺・新善光寺という源頼朝や北条氏に関連する寺院があったと考えられていますが、現在の弁ヶ谷は跡形もなく宅地化されてしまっているので、寺院跡の痕跡もやぐらも何も残されていません。
しかし、断片的に残された文献・資料から、どうやらこの谷戸には北条時政が関係しているのではないかと思われます。したがってこれといった確証はありませんが、弁ヶ谷内にある旧跡をそれぞれご紹介していきたいと思います。
基本情報
名称:弁ヶ谷住所:神奈川県鎌倉市材木座6−9−23
現状:住宅地
弁ヶ谷寺院跡
下画像は弁ヶ谷及び周辺です。鎌倉らしく谷戸の形状に沿ってそれぞれ寺院があったと考えられています。新編鎌倉志や鎌倉廃寺事典、それから鎌倉市教育委員会の調査報告書などで専門家の見解がだいたい一致しているので、これら寺院名と位置は全くの想像という訳ではなくある程度信憑性が高いようです。
Google map ①最宝寺跡 ②崇寿寺跡 ③新善光寺跡 ④やぐら跡 ⑤長勝寺 ⑥光明寺 |
最宝寺跡
横須賀市野比にある最宝寺は、鎌倉の弁ヶ谷から移転してきたと伝えられています。『鎌倉廃寺事典』によれば、「風土記稿に五明山高御蔵と号す。浄土真宗、京西六条本願寺末と云い、源頼朝がはじめ鎌倉扇ヶ谷に創建し、明光を招いて開山とする」などとあります。
そして建久六年(1195)に弁ヶ谷に寺を移し、さらに寺伝によれば、小田原北条氏が真宗を弾圧していた時に逃れて移った先が現在の寺地(横須賀野比)であるとされています。
また応永十一年(1404)の『関東管領上杉朝宗奉書』にある「野比村薬師堂免田参段 畠二段事」という記述から最宝寺領が野比にあったことがわかっています。ですから野比の最宝寺が鎌倉の弁ヶ谷にあった最宝寺を継承しているのは確かなようです。
光明寺を正面に左の細道を進むと最宝寺の小谷戸となる |
最宝寺のあった小谷戸 |
高御蔵
最宝寺は興味深いことに「五明山高御蔵」と号すとあります。明徳四年(1393)の古文書に「鎌倉高御蔵敷地内 太子堂ニ立事~」などともあり、最宝寺のあった辺りを「高御蔵」と云ったようです。
高御蔵は船から荷揚げした荷物を保管する機能を持ち合わせており「浜御所」とも呼ばれています。『吾妻鏡』には北条時政邸を「高御蔵」の他「浜御所」「名越山荘」などと記されています。これらが同一の建物なのか、違うものなのかはっきりとしませんが、少なくとも時政の高御蔵がこの辺りにあったと考えても間違いではなさそうです。
最宝寺があった小谷戸 |
鎌倉廃寺事典に「伯爵の大木遠吉の別荘が材木座828にありこの邸の場所を高御倉と称する。アキバ山に登る口にあたっている。」とあります。
「材木座828」は現在の住居表示ではないようなので定かではありませんが、「アキバ山に登る口」という条件に当てはまるのがこちら下画像の邸宅跡。いかにも当時のモダン建築といった西洋風の門構えです。たぶんここが大木遠吉伯爵邸跡と思われます。アキバ山とは光明時裏山にある秋葉社のことです。
推定大木遠吉伯爵邸跡 光明寺から近く秋葉社の麓にある |
崇寿寺跡
最宝寺跡からさらに谷戸を奥へ行った先にあったのが崇寿寺(すうじゅじ)と云われています。崇寿寺は鎌倉廃寺事典によれば、元亨元年(1321)北条高時の開創で開山は南山士雲、山号を金剛山と号し、禅宗寺院だったとあります。円覚寺正続院との書状のやりとりから少なくとも応永三十一年(1424)まで存在していたことがわかっています。
崇寿寺があった小谷戸 |
崇寿寺があった辺りまで谷戸を入ると切岸とちょっとしたスペースが残されています。そしてなんと、信じられないことに、ここに牧場があったそうです。たぶん戦前の話だと思います。
鎌倉の発掘現場でよくビンが発見されることが多いそうなのですが、それがこの牧場で製造されていた牛乳ビンなんだそうです。
弁ヶ谷東やぐら群
崇寿寺からさらに奥へ行くとあるのが弁ヶ谷やぐら群です。崇寿寺から少し登るように進みます。往時では崇寿寺の裏山部分に相当するのかもしれません。ここでは7基ものやぐらが発見されましたが、現在は丘陵部崩落防止のための工事によって全て失われています。
弁ヶ谷やぐら群があった場所 |
弁ヶ谷やぐら群があった場所 |
弁ヶ谷やぐら群があった場所 |
ここにあったやぐらの特筆すべきは、高さ3m、幅6.1m、奥行き5.8mもの大型で、切石で蓋がされた甕が地中から発見され、火葬されていない人骨が入っていたことです。葬られたのはある程度身分の高い人物だったと考えられています。
弁ヶ谷やぐら群があったことを説明する板 |
壁面に祀られている石塔 |
新善光寺跡
崇寿寺の対面にあったのが新善光寺跡です。北条泰時が死去した際、新善光寺智導上人が念仏を勤めたと『北条九代記』にあると鎌倉廃寺事典にありました。「風土記稿に新善光寺跡、名越にあり、新善光寺屋敷と唱う」とあり、土地の呼び名が残っていたそうです。 またその新善光寺は現在葉山町に移転しています。
新善光寺跡 |
新善光寺跡 |
新善光寺にあった名越山荘
『吾妻鏡』正嘉二年(1258)5月の記事に、尾張前司の名越山荘が新善光寺の辺りにあると記されています。尾張前司とは名越北条氏の時章のことなので、この「尾張前司の名越山荘」と時政の「名越山荘」が同一である可能性は高いと思われます。
『よみがえる中世』によれば、北条一族の中心人物であれば、本邸・別業(別荘)・山荘の豪華三点セットを所有していたとありました。
時政が過ごした鎌倉草創期にこの三点セットの概念があったのかわかりませんが、弁ヶ谷には「名越山荘」「高御蔵」と、時政に関する建物が複数あったことがうかがえます。時政が弁ヶ谷に邸を構えていた可能性は十分に考えられるのではないでしょうか。そして個人的には北条時政の名越山荘はここ弁ヶ谷にあったと確信しています。
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