2014年8月25日月曜日

弁ヶ谷 北条時政邸跡


鎌倉の材木座にある丘陵部辺りを弁ヶ谷と云います。光明寺が近くに所在しています。谷戸内には最宝寺・崇寿寺・新善光寺という頼朝や北条氏に関連する寺院があったと考えられていますが、現在の弁ヶ谷は跡形もなく宅地化されてしまっているので、寺院跡の痕跡もやぐらも何も残されていません。しかし、断片的に残された文献・資料から、どうやらこの谷戸には北条時政が関係しているのではないかと思われます。

Google map 鎌倉市

弁ヶ谷寺院跡


下画像は弁ヶ谷及び周辺です。鎌倉らしく谷戸の形状に沿ってそれぞれ寺院があったと考えられています。新編鎌倉志や廃寺事典、それから鎌倉市教育委員会の調査報告書など専門家の見解がだいたい一致しているので、これら寺院名と位置は全くの想像という訳ではなくある程度信憑性が高いようです。

弁ヶ谷周辺
①最宝寺跡 ②崇寿寺跡 ③やぐら跡 ④新善光寺跡 ⑤長勝寺墓地 ⑥感応寺跡 ⑦九品寺 ⑧光明寺

最宝寺跡


私は未だ行ってませんが、横須賀の野比にある最宝寺は、鎌倉の弁ヶ谷から移転してきたと云われています。『鎌倉廃寺事典』(以下廃寺事典)によれば、「風土記稿に五明山高御蔵と号す。浄土真宗、京西六条本願寺末と云い、源頼朝がはじめ鎌倉扇ヶ谷に創建し、明光を招いて開山とする」などとあります。建久六年(1195)に弁ヶ谷に寺を移し、さらに寺伝によれば、小田原北条氏が真宗を弾圧していた時に逃れて移った先が現在の寺地(横須賀野比)であると伝わっています。応永十一年(1404)の『関東管領上杉朝宗奉書』には「野比村薬師堂免田参段 畠二段事」という記述から最宝寺領が野比にあったことがわかっています。ですから野比の最宝寺が鎌倉の弁ヶ谷にあった最宝寺を継承しているのは確かなようです。

光明寺を正面に左奥の住宅街に行くと最宝寺跡の小谷戸となる
最宝寺があった小谷戸

高御蔵


最宝寺は興味深いことに「五明山高御蔵」と号すとあります。明徳四年(1393)の古文書に「鎌倉高御蔵敷地内 太子堂ニ立事~」などともあり、最宝寺のあった辺りを「高御蔵」と云ったそうです。高御蔵は船から荷揚げした荷物を保管する機能を持ち合わせており「浜御所」とも呼ばれています。『吾妻鏡』には北条時政邸を「高御蔵」の他「浜御所」「名越山荘」などと記されています。これらが同一の建物なのか、違うものなのかはっきりとしませんが、少なくとも時政の高御蔵がこの辺りにあったと考えてもよさそうですね。

最宝寺があった小谷戸

廃寺事典に「伯爵の大木遠吉の別荘が材木座828にありこの邸の場所を高御倉と称する。アキバ山に登る口にあたっている。」とあります。「材木座828」は現在の住居表示ではないようなので定かではありませんが、「アキバ山に登る口」という条件に当てはまるのがこちら下画像の邸宅跡。いかにも当時のモダン建築といった西洋風の門構えです。たぶんここが大木遠吉伯爵邸跡と思われます。アキバ山とは光明時裏山にある秋葉社のことです。

推定大木遠吉伯爵邸跡 光明寺から近く秋葉社の麓にある

崇寿寺跡


最宝寺跡からさらに谷戸を奥へ行った先にあったのが崇寿寺(すうじゅじ)と云われています。崇寿寺は同じく廃寺事典によれば、元亨元年(1321)北条高時の開創で開山は南山士雲、山号を金剛と号し、禅宗寺院だったとあります。円覚寺正続院との書状のやりとりから少なくとも応永三十一年(1424)まで存在していたことがわかっています。

小谷戸入口にある弁ヶ谷碑
切岸

崇寿寺があった辺りまで谷戸を入ると切岸とちょっとしたスペースが残されています。そしてなんと、信じられないことに、ここに牧場があったそうです。たぶん戦前の話だと思います。鎌倉の発掘現場でよくビンが発見されることが多いそうなんですが、それがこの牧場で製造されていた牛乳ビンなんだそうです。また、横穴が遠目からも確認できましたが民有地なので近づけません。なんでしょう。

横穴

弁ヶ谷東やぐら群


崇寿寺からさらに奥へ行くとあるのが弁ヶ谷やぐら群です。崇寿寺から少し登るように進みます。往時では崇寿寺の裏山部分に相当するのかもしれません。ここでは7基ものやぐらが発見されましたが、現在は丘陵部崩落防止のための工事によって全て失われています。

弁ヶ谷東やぐら群のあった場所

ここにあったやぐらの特筆すべきは、高さ3m、幅6.1m、奥行き5.8mもの大型で、切石で蓋がされた甕が地中から発見され、火葬されていない人骨が入っていたことです。葬られたのはある程度身分の高い人物だったと考えられています。

やぐらのあった崖面に何か祀られている
なんだろうコレ?・・

新善光寺跡


崇寿寺の対面にあったのが新善光寺跡です。宗旨など未詳ですが、北条泰時が死去した際、新善光寺智導上人が念仏を勤めたと『北条九代記』にあると廃寺事典にありました。「風土記稿に新善光寺跡、名越にあり、新善光寺屋敷と唱う」とあり、土地の呼び名が残っているそうです。

崇寿寺跡から見た新善光寺跡 
坂道を登ると少し開けるがここが跡地かどうかは微妙

弁ヶ谷にあった?北条時政邸


『吾妻鏡』正嘉二年(1258)5月の記事に、尾張前司の名越山荘が新善光寺の辺りにあると記されています。尾張前司とは名越流北条氏の時章のことなので、この「尾張前司の名越山荘」と時政の「名越山荘」が同一である可能性は高いと思われます。そして『よみがえる中世』によると、北条一族の中心人物であれば、本邸・別業(別荘)・山荘の豪華三点セットを所有していたとありました。時政が過ごした鎌倉草創期にこの三点セットの概念があったのかは微妙なところですが、弁ヶ谷には「名越山荘」「高御蔵」と、時政に関する建物が複数あったことがうかがえます。時政が弁ヶ谷に邸を構えていた可能性は十分に考えられるのではないでしょうか。少なくとも北条時政所有の建物があったことは確かでしょう。

伊豆の願成就院にある北条時政墓



より大きな地図で 材木座 を表示

探索期間 2013年5月~2014年7月
記事作成 2014年8月25日

あわせて読みたい弁ヶ谷関連記事


新善光寺

戦火を逃れ名越の弁ヶ谷から葉山へと移転したお寺

光明寺

鎌倉寺社を代表する禅宗寺院とは一味違う海と富士山が見える浄土宗のお寺

和賀江嶋

日本最古の港湾遺跡

北条氏邸跡 御所ノ内エリア

北条氏邸を中心に御所ノ内エリアを検証(伊豆)

願成就院

北条時政が奥州征伐の戦勝祈願のために建立したお寺(伊豆)

あわせて読みたい小坪・飯島エリア関連記事


小坪・飯島エリア記事一覧


鎌倉遺構探索リンク