建長寺中心伽藍を抜け半僧坊に向う途中の参道に竹林があります。往時では建長寺塔頭の雲外庵があったと伝わっています。
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Google map 建長寺
①中心伽藍 ②西来庵 ③その他塔頭エリア ④雲外庵跡 ⑤旧道エリア ⑥勝上獄・半僧坊
⑦十王跡 ⑧回春院 ⑨第六天エリア |
雲外庵
雲外庵は、文和三年(1354)に没した建長寺30世の枢翁妙環の塔所です。下画像の『
建長寺伝延宝図』(以下延宝図)に、その雲外庵が描かれていますが、現在の半僧坊への参道部分に所在していたことがわかります。
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建長寺伝延宝図 雲外庵部分 |
雲外庵がいつ廃絶したのかというと、『建長寺正統庵領鶴見寺尾郷図考』(以下建長寺図考)によれば、「天保12年から明治5年までの31年の間、すなわち江戸時代末期から明治初期」の間だと推測しています。また、寛永十年(1633)『建長寺本末帳』には雲外庵の末寺が16も記されていたそうです。
仏寿禅師
建長寺発行『建長寺』の住持位次によれば、枢翁妙環は、建長寺の第30代住持で、勅諱号を仏寿禅師と云います。正統庵の高峰顕日に師事し仏光という門派に属していました。また、鶴見区仏教会のHPに仏寿禅師の名が載せられていました。どうやら鶴見区にある松蔭寺の開山がこの仏寿禅師と伝わっているそうです。仏寿禅師(1273~1354)は、動乱の鎌倉時代末期から新時代を体験した和尚さんでした。
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建長寺塔頭で高峰顕日の塔所正統庵 |
雲外庵跡
上記したように雲外庵跡は半僧坊に向う参道部分の一部です。建長寺中心伽藍を抜けると、半僧坊権現の像や石碑が現れますがその辺りになります。竹林となっているのでわかりやすいかと思われます。
現在の半僧坊へ向う参道は新道です。以前は河村瑞賢の墓がある丘陵尾根道を通って勝上獄へと向っていました。延宝図には、雲外庵の敷地奥に横穴らしき造作が描かれています。少なくとも現在のように、そのまま突っ切れるような造りではなかったことがわかります。
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雲外庵跡 |
竹林がどことなく寺院跡の様相を伝えているように思えます。とても素敵です。跡地に残された造形物などが雲外庵の痕跡なのかは定かではありませんが、その他にやぐらがいくつも確認できます。
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跡地にある造形物 |
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なんだろう? |
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竹やぶの向こうにやぐら |
仏寿禅師の墓塔は
こらら跡地にある造形物はそれほど古いものではなさそうです。ですからこれらが雲外庵の痕跡だとすれば、やはり雲外庵は明治初期ぐらいまで存続していたのではないかと思われます。また、丘陵部にいくつもみられるやぐらの中には仏寿禅師の無縫塔があったと云われているそうです。但し現在でも特定できていない、もしくは見当たらないそうです。
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雲外庵跡にあるやぐらのひとつ 無縫塔があるけど・・ |
参道を挟んだ対面に立ち入れないやぐらと隋道があります。これも雲外庵の痕跡なのかもしれません。立ち入れないやぐらには石塔類が置かれているようだったので、もしやこれが仏寿禅師の・・と思いましたが、中世のものでしかも誰の墓塔なのか判明している貴重な石塔をこのような場所に置いておくことはないと思うので、仏寿禅師のものではないでしょう。やはり仏寿禅師の無縫塔は見つかってないのかもしれません。
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立ち入れない怪しいやぐら |
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回春院方面に向かえる隋道 寿福寺みたい |
参道に残るその他塔頭の痕跡
そのまま半僧坊への参道は続きますが、延宝図を見ると、雲外庵の先には梅岑庵跡、さらにその先にはちょっと名前が読み取れませんが、とにかくお寺があったようです。辺りは参道として整備されてしまっていますが、丘陵部寄りには、やぐらやどこか怪しい地形が確認できます。ちなみに梅岑菴は、永享十年(1438)、もしくはその頃に没した建長寺140世の仁菴賈賢の塔所です。仁菴和尚は仏寿禅師と同じく仏光派です。
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よくわからないけど意図的な造作がみられる壁面 |
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往時では上から水が流れてきていたのではないかと思われるような造作 |
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やぐららしき横穴 |
こうした視点で辺りを観察しながら歩いていれば、半僧坊までの長い道のりもあっという間ですね。
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半僧坊への参道 |
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