2014年11月25日火曜日

建長寺回春院と地獄谷


回春院のある辺りは、地獄谷と呼ばれた処刑場でした。建長寺が創建された建長五年(1253)より古い歴史を持つ魅惑のエリアです。

Google map 建長寺
①中心伽藍 ②西来庵 ③その他塔頭エリア ④雲外庵跡 ⑤旧道エリア ⑥勝上獄・半僧坊 
⑦十王跡 ⑧回春院 ⑨第六天

建長寺中心伽藍を抜け、半僧坊へ向わず右に曲がって回春院を目指します。あれほど多くの人たちで賑わっていたはずの中心伽藍から急に人がいなくなります。このギャップがたまりません。広大な敷地を有する建長寺ならではの魅力です。

回春院方面へ向う道

一渓庵跡


回春院に行く途中に「いかにも」といった地形がみられます。墓地として利用されているので、一般拝観者が立ち入ってはいけないのはわかりますが、『建長寺伝延宝図』(以下延宝図)からもここが塔頭跡なのがわかるので、ほんのちょっとだけ見学させてもらうことにしました。延宝図から察するに、この平場にあった塔頭は、一渓庵と云って、応永十年(1403)に没した心源希徹の塔所です。

一渓庵跡

平場には寺院跡の痕跡を伝えるような怪しい地形がみえます。さらに、なんと、鎌倉寺社らしく裏山に登っていける道筋が確認できるじゃぁないですか。ちょっとだけ見させてもらうはずでしたが、もう少しだけ奥に行かせてもらうことに。

裏山への道筋

墓場として利用されている平場から道を登って行きます。中腹にまた平場が存在し、さらに登ると、きました。かなり風化していましたが、やぐらがありました。

左下に墓地となっている平場 右が中腹にある平場
やぐら

山を登った高い位置にあるこのやぐら、典型的な鎌倉寺社のパターンからは、開山が祀られるような場所ではないでしょうか。もしかしたら建長寺70世の心源希徹の無縫塔が置かれていたのかもしれません。それにしてもこれら平場・ひな段状地形・やぐらと、典型的な鎌倉寺社の様相がそのまま残されていることに感動を隠せません。

やぐら位置から眺めた地上部の平場

心源和尚は、月山希一に師事した大覚派です。また、市史には「明応頃に香林徳聞がいた(一渓庵に)」とありましたが、特筆するからには余程の人なのかと思いましたが、詳しい資料を見つけられませんでした。誰なんでしょう。

回春院


興奮覚めやらぬ一渓庵跡から奥へと進み回春院に向かいます。回春院は、建武元年(1334)に没した建長寺21世の玉山徳璇の塔所です。玉山徳璇の勅諱号を仏覚禅師と云います。仏覚禅師は、信州の人で若い頃より蘭渓道隆(大覚禅師)に師事した後、建長寺住持となりました。ですから門派はもちろん大覚派です。そして回春院の山号を幽谷山と云いますが、まさに地獄谷と呼ばれた建長寺の奥地を表したかのような山号です。

回春院

他の建長寺塔頭と同じく回春院も非公開ですが、池周りを散策できます。回春院にあるその池を大覚池と云います。その昔大きな亀が住んでいたというので、亀池とも云うそうです。ちなみに『かまくら子ども風土記』の亀ヶ谷坂の伝承に、亀が頂上まで行くことができずに引き返してきたことから「亀返坂」と云われるようになり、それがいつのことから「亀ヶ谷坂」になったという話が記されていますが、その亀がこの大覚池の亀なんだそうです。

大覚池

大覚池から奥へ行くと、田んぼとなっていて随分と建長寺中心部とは異なる雰囲気になります。どこかとんでもない田舎に来たような感覚に陥ります。実際私が来たときには、カルガモが何羽もいました。鎌倉時代のお寺もこんな風に自給自足で田んぼを耕していたのかもしれないと思わせる風景です。でもお坊さんは土いじりをしてはいけないんですよね、確か。畑でも耕して万が一でも土の中にいる生き物を殺したりでもしたら穢れてしまうからだったと思います。

池の奥は田んぼ

さらに奥へ行くと、大々的な掘割状地形が確認できます。以前に地元の土建屋さんに教えてもらいましたが、これは山から大覚池に水を伝える水路なんだそうです。現在はそんな都合よく水が流れてこないので、色々と工夫しているようです。

大覚池に水を伝える掘割状

回春庵跡?


延宝図に描かれている回春院及び周辺を見てみましょう。まず下絵図②④⑤の辺りの地形が現在でも確認できます。②の一渓庵跡は先ほど紹介した場所で、④は回春院手前にある平場だと思われます。

①正受庵跡 ②一渓庵跡 ③原田地蔵跡 ④平場 ⑤回春庵 ⑥地獄谷 ⑦回春庵跡

そして特筆すべきは、絵図⑦の回春庵跡です。なんと昔の回春院はもっと奥にあったようです。しかもこの絵図から判断するに、この平場ってもしかしたら鎌倉市教育委員会の調査報告書が「回春院奥平場」と呼称する場所ではないでしょうか。あの辺りでこれほど明確に平場として描かれている地形といえば、回春院奥平場しか思いつきません。もしそうだとしたら、あの回春院奥平場を囲むようにあったやぐら群、そしてあの不思議な雰囲気、寺院跡なのであれば納得です。

回春院奥平場 旧回春院跡か?

ちなみに回春院奥平場には、大きくて垂直な切岸があります。実はこれ、源氏山周辺に所在する寿福寺海蔵寺銭洗弁天などにもこのような造作がみられます。周辺地形からは源氏山も回春院奥平場も石切り場として利用されていたようなので、石切りの行程における造作かもしれませんが、寺院に関連する可能性も十分に考えられます。つまりですからこのことからも、ここ回春院奥平場が少なからず寺院跡である可能性も有り得ると私は言いたい訳です。

切岸

地獄谷と斉田地蔵の伝承


延宝図には、回春院と旧回春院跡の間に「地獄谷」「地獄谷埋残」と記されています。「埋残」って・・どういう意味なんでしょうね。伝延宝図を描いた近世の頃でも人骨などがそこら辺に落ちていたような、そんな生々しい雰囲気が伝わってくるような表現です。

回春院と回春院奥平場の間 なんか左側におかしな地形がみえます

地獄谷では、建長寺が建立される前に心平寺というお寺がありました。また、その地獄谷で、斉田左衛門という者が無実の罪で斬首されようとしたとき、髻におさめていた地蔵像が身代わりとなり、討手が何度刀を振り下ろしても斉田の首を斬れなかったという伝承が残されています。斉田はその小像を心平寺の地蔵の頭中に納めたと云われています。この伝承からも、地獄谷が処刑場であったこと、また地獄谷にその心平寺があったことがわかります。

仏殿本尊

その斉田が持っていた小像(斉田地蔵)は、現在は別に保管されていて、風入のときに展示されるそうです。仏殿本尊の胎内には、天保三年(1832)に制作された斉田地蔵のレプリカが納められています。

原田地蔵跡


延宝図にある原田地蔵跡は、何故か市史や風土記では取り上げていません。『新編鎌倉志』には、原田次郎種直が、父の遺骨と戦死者の骨を粉にして地蔵を作ったといった旨が記されています。原田地蔵跡はその地蔵を埋めた場所となるようです。一説にはその地蔵を埋めた場所(地蔵堂)が心平寺とも云われています。

北御門ハイキングコース沿いにあるお気に入りの樹

延宝図に描かれた原田地蔵跡平場を探してみたところ、地理的には『北御門ハイキングコース 後編』で紹介した尾根道から回り込むと行けるのではないかと思い再び向ってみました。回春院を眺められる尾根先端などの地形まではたどり着けましたが、絵図に描かれているような大々的な平場は見つけることができませんでした。藪に隠れているのかもしれませんし、あてがはずれていたのかもしれません。

下方に回春院と大覚池が見える位置

処刑場から建長寺境内となったこの辺りは、現在でも旧態地形として残されているだけに、当時からそれほど地形が変わっていないのかもしれないと、期待を込めて想像してしまいます。がしかし、周辺では石切り跡がみられるため、少し微妙かもしれません。但しそこはその人の考え方次第で「きっと何かが残されている」とポジティブにとらえれば、いつか何かが見つかるかもしれません。原田地蔵跡平場はまたいつか機会があれば探してみたいと思います。



探索期間 2012年10月 2014年10月
記事作成 2014年11月25日

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