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ワメキ十王跡

2014/11/26

鎌倉市

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建長寺伝延宝図』(以下延宝図)に、その位置からも、天園ハイキングコース沿いにある十王岩付近のことを指していると思われる「ワメキ十王跡」が描かれています。この辺の事情を詳しく記す資料を見つけられませんでしたが、「ワメキ」というワードからも、やはり十王岩そのものではないでしょうか。

建長寺伝延宝図 ワメキ十王跡

十王跡と地獄谷


さて、延宝図にある「十王跡」とは何の跡でしょう。ここから既に謎なので、冒頭からつまづきます。『鎌倉市史 社寺編』(以下市史)では、「勝上獄地蔵堂・地獄谷・原田地蔵・斉田地蔵など、建長寺には、もともと地獄や地蔵にちなむものが多い」と指摘しています。平安末期頃から盛んになったと云われる十王思想に関連するお堂などの施設が、ここ地獄谷付近ににあったと考えてもそんなに的外れではないのかもしれません。延宝図作成を指示した徳川光圀が、建長寺に訪れる以前まで、十王跡と云われる付近には、何かしら信仰の対象となるものがあったと思われます。

oogle map 建長寺
①中心伽藍 ②西来庵 ③その他塔頭エリア ④雲外庵跡 ⑤旧道エリア ⑥勝上獄・半僧坊 
⑦十王跡 ⑧回春院 ⑨第六天

鎌倉のレイライン


十王岩は、若宮大路・八幡宮から連なる直線の延長線上に位置します。そしてさらに線を延長すると、なんと、弘法大師が縁起に登場する今泉不動にたどり着きます。十王岩を中心とする鎌倉のレイラインが現れます。ちなみにレイラインとは、wikipediaによると「古代の遺跡には直線的に並ぶよう建造されたものがあるという仮説のなかで、その遺跡群が描く直線を指す。レイラインが提唱されているケースには古代イギリスの巨石遺跡群などがある。」とあります。また、春分・秋分・冬至・夏至といった太陽に関するもの、そして「ご来光の道」「太陽の道」などとも考えられているとありました。若宮大路が中世において子午線として用いられていたことからも、このレイラインの定義に当てはまる感もあります。

Google map 鎌倉

まさか鎌倉の都市造りにこのような壮大なレイラインを当初から想定していたのでしょうか。そう考えるとロマンがありますが、そこはやはり、『六波羅殿御家訓』などで知られる「人前でツバを吐くな」「むやみやたらと感情に任せて人を殺すな」などといった現代の我々からは「当たり前じゃね?」とツッコミたくなるような教訓を遺書として子供に残すような鎌倉時代の為政者たちが、このような壮大で計算された都市造りが出来たのかどうかは疑問に思えてきます。

今泉不動 陰陽の滝

それにしても、十王岩がこの世とあの世の間で人を裁く十王らがいる場所なのであれば、今泉不動は、完全にあっちの世界ということになりますね。とりあえず、十王岩(十王跡)を鎌倉の都市造りにおける鎮座のような存在として営まれた施設の名残り、もしくは地獄谷処刑場に関する鎌倉草創期の宗教施設と仮定して、この不思議なレイイラン上を進んでみることにしました。

回春院奥平場から十王岩へ


回春院から西御門寄りに所在する回春院奥平場から向かいます。道なりに進むと、なんと都合の良いことに、十王岩にぶち当たります。つまりこのコースがレイライン上となります。さらに『北御門ハイキングコース 後編』で紹介した尾根道がここまでのレイライン上となります。

回春院奥平場

地獄谷は処刑場だったと云われています。そんな歴史があったのかと思いながら歩くと、そんな雰囲気にも思えてくるから不思議です。ここはあまり知られてなさそうな尾根道ですが、意外に人と会います。たぶん鎌倉の地理に詳しい人、もしくは地元の人だと思います。そして十王跡と云うからには、お堂か建つだけの平場があったのではないかと思い歩いてみましたが、これといって見つかりません。一箇所、尾根道が開ける場所がありますが、建物があったような地形の雰囲気には思えませんでした。

地獄谷尾根道

朱だるきやぐら群


そして道沿いに朱だるきやぐら群が現れます。ちなみに延宝図の「ワメキ十王跡」の文字の下に岩石のような形状のものが描かれているのがわかると思います。延宝図の他の箇所にも同じような形状のものが描かれていて、やぐらなどの横穴を表していることがわかります。ですから延宝図に描かれた横穴は位置的にも朱だるきやぐら群を指している可能性が高いと思われます。

朱だるきやぐら
朱だるきやぐら 朱塗りの跡が残る天井部

『鎌倉市史 考古編』(以下市史)に、羨道天井に丹塗のたるきを表して殿堂であることを表現しているとありました。また「20窟からなる」とあります。そして辺りをよ~く見ると、風化しまくった石塔の欠片が落ちています。それにしても十二所のお塔の窪やぐらで見たものとそっくりです。あちらは宝治二年(1248)北条時頼の銘が残されています。

朱だるきやぐら群にあった石塔の欠片

十王岩


朱だるきやぐら群から天園ハイキングコースがすぐそこです。ちょうど道標のある場所に出ます。十王の三像を刻んだと考えられる十王岩がすぐそこにあります。

十王岩
十王岩に刻まれた十王三像

何と言っても、ここから見える景色の素晴らしさといったら、ここで直接見たことのある人にしか伝わらない感動かもしれません。この景色からはやはり何か特別な意味があるのではないかと考えずにはいられません。

十王岩から見える景色

十王窟


十王岩からも近い場所に十王窟と呼ばれるやぐらが存在します。改めてよ~く見ると、やぐらは塚状地形に施されています。塚状地形にやぐらといえば、禅居院裏山(『建長寺四方鎮守 第六天エリア』)のものを想起させますが、偶然でしょうか。ここも頂部に祠でも置いてあるのかと思えば、なんと、弘法大師像がありました。

十王窟のある塚状地形
頂部にあった弘法大師像

石切り場跡


十王岩付近には大々的な石切り場跡がみられます。ビックリするほど大きいので、近世から近現代にかけたものだと思われます。但しもちろん中世からここが石切り場とされていたので、そのまま活用されていたのかもしれません。

石切り場跡

意外にもこの辺りから回春院に戻れる尾根道が存在します。それにしても色んな道筋があります。


十王跡とは


ということで、延宝図の云う「十王跡」付近に改めて行ってみましたが、結局のところ何も見つけることはできませんでした。朱だるきやぐらが十王跡と関係があるならば、やぐらの起源からは、十王跡とは13世紀後半以降に営まれた何かしらの宗教施設と考えることができると思います。また、神武寺にあった俳句を刻んだ粋な石切り場跡(『神武寺石切り場跡』)の例からは、この辺りも大々的な石切り場だったことからも、近世から近現代にかけた石切り職人さんのちょっとした遊び心が十王岩を刻んだのかもしれません。

十王岩からランドマークタワーが見える これも延長線上・・

十王岩を鎌倉の都市造りにおける鎮座のような存在として営まれた施設の名残りではないか、もしくは地獄谷処刑場に関する鎌倉草創期の宗教施設と考えましたが、現実的にはちょっとロマンが過ぎたようです。でもそう考えていた方が鎌倉にいる間楽しく過ごせるのは確かです。

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