白山道
白山道の歴史と経緯
鎌倉から釜利谷に至る道を白山道と云います。元仁元年(1224)に六浦を領した北条実泰の邸が釜利谷にあったことからも、鎌倉時代には既に存在した道筋だと考えられています。その後、実泰の子の実時が六浦庄の拠点を称名寺に移します。これによって実泰邸もしくは白山寺の辺りから金沢方面に道が敷かれ、嘉元三年(1305)に金沢貞顕が瀬戸橋を竣工させるまでは、この道が鎌倉~金沢間を往来する幹線道路であったと考えられています。
Google map 六浦
①谷津浅間神社 ②正法院 ③手子神社 ④六郎橋 ⑤東光寺 ⑥白山寺跡
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白山道は、白山寺からその名が因むと考えられていますが、実際のところ定かではありません。また文献・資料での「白山道」の初見は近世となるそうです。そして、この道がいつから白山道と呼ばれていたのかもわかっていません。瀬戸橋の竣工によって、六浦道に幹線道路としての役割を譲ったためか、伝承があまり残されていないようです。
白山道=旧六浦道
鎌倉から釜利谷を目指す旧六浦道ともいえるこのルートは、現在その経路には、関学グランド(下絵図①)、野村住宅団地②、横横③、相武隋道④、鎌倉霊園(⑤和泉ヶ谷)が建設され、道筋のほとんどが失われています。和泉ヶ谷に関しては谷戸ごと失くなっています。また、逆にこの番号をたどっていくと、その失われた古道ルートの大よその道筋ともなるようです。朝比奈切通が整備される以前は、このようなルートで鎌倉から六浦庄に来ていたものと考えられています。そういえば『十二所地誌新稿』にもこのルートらしき記述がみられます。
Google map 釜利谷 赤のラインが白山道 白のラインが六浦道 ①関東学院大学 ②野村住宅団地 ③横浜横須賀道路 ④相武隋道 ⑤和泉ヶ谷 |
ということで、今回は、釜利谷から称名寺へと向かう釜利谷~金沢部分の白山道をたどってみました。そして今回も金沢道と同じく、金沢区発刊の『金沢の古道』を参考にしています。
谷津から赤井
称名寺までの道筋は、金沢道の記事で少し紹介しているので、この記事では、谷津浅間神社から白山寺跡を目指します。称名寺(下画像①)から君ヶ崎②を経て、③④と進むと能見堂に至ります。しかし今回は白山道なので、③の分岐点から⑤の富士坂の切通へと進み丘陵越えをします。白井崎・塗桶山と記されている浅間神社のある丘陵が当時では瀬戸ノ内海に面する岬であったため、現在のように崖下を通ることはできませんでした。ですからこのように丘陵越えの切通しを往時では通過していたようです。
中世の海岸線想定図 ①称名寺 ②君ヶ崎 ③谷津 ④六国峠入口 ⑤富士坂の切通 ⑥手子神社 ⑦六郎橋 |
浅間神社奥にある尾根道を進むと、その切通し路跡らしき痕跡を確認することができます。これを富士坂の切通と云います。
谷津浅間神社裏の尾根造作 |
浅間神社のある谷津から富士坂の切通を越えると、赤井という名の土地になります。崖の麓には五輪塔の残欠・石像仏・馬頭観音が置かれています。古道は赤井を東西に走るバス通りが大よその道筋かと思われますが、正法院や御嶽神社がこのバス通りから奥まった位置にあるため、昔とは区画が違うのかもしれません。ちなみに正法院は弘法大師の創建と伝えられているので、かなりの古刹です。
赤井を東西に貫く大通り |
大通りから見た正法院 |
この辺りに赤井温泉という施設が地図に見えます。赤井温泉のHPによれば、「鎌倉時代、傷ついた一人の武士が現在の温泉付近まできたところ、赤い色をした水溜りがあり、不思議に思い、その水で傷口を洗ったところ、見る間に快癒した」という由来が載せられています。この話が本当であれば、正法院といい赤井温泉といい、この辺りの歴史はかなり古いことになります。鎌倉時代以前から白山道の原型があった可能性も考えられますね。
赤井温泉 |
面白そうなので、この赤井温泉に寄ってみたいと思いましたが、万葉倶楽部のように、アメニティ・グッズが完備されている訳ではないようなので、タオルやソープ類など、事前に用意しておかなければいけません。観光客が気軽に思いつきで立ち寄れる場所ではなさそうです。
幻の赤坂からの保土ヶ谷道
『金沢の古道』に、赤井村の赤坂から能見堂を経ず直接保土ヶ谷道に通じる道があったとありました。現在この辺りの住所表記が釜利谷になっているため、定かではありませんが、下画像の赤○の辺りに「メゾン赤坂」という建物が地図上に見えたので、赤井村の赤坂とはその辺りではないかと思われます。
Google map 釜利谷 |
地図を見てのとおり、現在は宅地化されているので、保土ヶ谷道へと繋がっていたというその旧道も既に失われているようです。しかもこの道は、鼻欠地蔵から連なる道だとありました。
手子神社
赤井・赤坂から南下して笹下釜利谷道路を越えると手子神社となります。手子神社は、横浜金沢観光協会によれば、延宝七年(1679)に宮ヶ谷から移転してきたとあったので、それほど古い歴史を持つ神社ではなさそうです。庚申塔がいくつも並べられていました。旧道沿いだったことを偲ばせます。
宮川と手子神社 |
宮下橋から六郎橋
手子神社から宮川に沿って進み、宮下橋を渡ります。そしてまたこの宮川を渡る橋があるのでそこを左折、もしくは南下します。
Google map 釜利谷 |
ちなみに金沢道は、現在の商業立地を行くので、当時の道筋が住宅地に隠されていたりしましたが、こちら白山道はほぼ住宅街のため、それほど改変されておらず、まず迷うことはないでしょう。金沢道では、「この路地を入っていくの?」という「探検感」を味わえたりしましたが、そういった意味では、白山道の探索は、ちょっと順当すぎるかもしれません。
ただの住宅街ながらも道がクネっとしている場所 旧道の名残りだろうか |
六郎橋と六郎ヶ谷
しばらくして六郎橋となります。畠山重忠の子、六郎重保にその名が因むと伝えられています。またここからも近い白山トンネルの辺りを六郎ヶ谷と云い、六郎重保の墓と伝わる石塔が丁重に安置されています。現地案内板によれば、『新編武蔵国風土記稿』に、この辺りの山中で自害した(六郎が)とあるそうです。但し五輪塔は南北朝期のもので、しかも現代にて地輪など残欠部を補修しているようです。でも確か、重保は由比ヶ浜でだまし討ちに遭ったのが定説のはすですが、何か裏があるのでしょうか。
六郎ヶ谷にある畠山重保墓 |
ちなみに六郎橋といっても、手子神社から続く宮川は既に暗渠となっているので、現在は橋としての用は足しません。
六郎橋 |
六郎橋から東光寺
六郎橋から道は狭くなります。六浦道に幹線道路としての立場を奪われたとはいえ、街道であった威厳も何も残されていないほど狭くなっています。
説明を追加 |
しばらくすると東光寺。鎌倉の二階堂から移転に次ぐ移転でここまで来たのかと、感慨深いものがあります。前面通りが狭いためか、山門辺りの窮屈間は否めません。何も記されていませんでしたが、石塔が一基丁重に供養されていたので、畠山重忠の供養塔なのかもしれません。
東光寺 |
白山寺跡
さて、ゴールの白山寺跡までもうすぐそこです。と、ここで道沿いにやぐらがありました。これも白山寺のものでしょうか。
白山道沿いにあるやぐら |
そして白山道のゴール、白山権現社を祀るやぐらと磨崖仏がある場所にたどり着きます。この辺りが白山寺跡です。磨崖仏は何度見てもその姿を見ることはできません。金沢区がでっちあげた都市伝説なんじゃないかと思えてきます。
磨崖仏があるという丘陵壁面 |
ここから先は、上記したように、近現代の建設物によって道は失われてしまいました。ということで、今回の白山道を含め、金沢道に六浦道と、これで私は往時の六浦庄をぐるっとめぐってきたことになるので、いくぶん六浦への理解が深まりました。そして瀬戸橋の重要性を体感して理解できたような気がします。
1 件のコメント:
白山道は、突き当たりの貯水池の左脇から山を上道が残されています。短いですが古道の趣が残り、登り切ったところに鎌倉時代のやぐらが残っています。そこは公園になっており公園の傍に、古道の発掘調査の結果を記す案内板があります。嘗ては公園のその先にも道が復元されていましたが、今は立ち入り禁止です。道は関東学院グランド脇を通り尾根伝いに鼻掛け地蔵脇に出るようでした。その道は50年程前には獣道のような山道で辿る事ができました。途中から夏山の方に抜ける道もありました。鼻掛け地蔵脇からの道は、朝比奈市民の森として整備されています。
釜利谷の磨崖仏も鼻掛け地蔵も登場はもっと輪郭がはっきりしていて、それとわかりました。
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