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三浦氏の登場
三浦氏は、康平六年(1063)に前九年合戦の功績として、平為通が三浦郡を獲得し、衣笠城を築き三浦氏を称したのが始まりとされています。三浦氏系図には諸説あるものの、『新横須賀市史』によれば、良文ー忠道ー忠通ー為通ー為継ー義継ー義明という系譜が各諸系図で最も共通している説とされています。さらに掘り下げると、為継ー義継ー義明の三代より以前は虚偽の可能性も指摘されており、それ以前は一族の先祖を桓武平氏と結びつけるための意図的な系譜操作ではないかと考えられています。
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衣笠城跡にある御霊社 |
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三浦氏系図
系図はスペースの関係で主な人物だけを記しています。和田義盛の系譜だけが充実しているのは、以前に和田合戦の記事で色々と調べた経緯があるからです。他の系譜も本来であればこのようにたくさんの子孫がいるはずです。嫡流は義継ー義明ー義澄ー義村ー泰村のラインとなります。
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三浦氏系図 『相模三浦一族』参照 |
三浦氏宗家と三浦大介義明
三浦氏宗家の本拠地は衣笠城のある矢部(現在の大矢部)となります。『大矢部地区』の記事でも記しましたが、往時の矢部は鎌倉と同じく馬蹄形地形を成しており、衣笠城を中心に囲むよう城跡・砦跡が多数確認されています。また満昌寺・清雲寺・薬王寺跡など、往時を偲ばせる宗家の史跡が現在もひっそりと残されています。その他、半島の南端となる金田・三崎周辺もその地の史跡が持つ歴史から宗家の領地だったことがうかがえます。
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Google map 三浦半島 |
三浦大介義明は、畠山重忠・河越重頼・江戸重長らの平家方と争った衣笠合戦において、子孫ら一族に生きて勲功をあげるよう諭し房総半島に向わせました。その後自ら捨石となり城に残って最期を迎えたとされています。彼の犠牲がその後の幕府における三浦一族の地位を厚遇させたのは言うまでもありません。大矢部にある満昌寺は義明の追善供養のために建立された寺院であり、また衣笠城にある大善寺が一族にとっての聖域であったからこそ義明が詰の城として衣笠城を選んだのではないかと考えられています。
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Google map 横須賀 三浦一族の本拠地矢部(大矢部)周辺 |
一説では、三浦為通が衣笠城を構える以前は、浦郷(追浜)に拠を構えていたとも云われています。
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和田義盛
京の貴族から「三浦の長者」と呼ばれた一族内の実力者、和田義盛は三浦大介義明の孫にあたり、幕府開幕当初から侍所別当の要職に就いています。三浦半島では初声和田の辺りが彼の所領だったと伝わっていますが、房総半島にも多くの所領を持っていたようで、畔蒜庄(あびるのしょう)・伊北庄(夷隅郡大多喜町)・天羽庄和田谷(富津市吉野郷)飯富庄(袖ヶ浦飯富・木更津袋野周辺)・幾与宇庄・佐是郡池和田(市原)などで義盛の痕跡が現在までに確認されています。きっと房総半島が気に入っていたのでしょう、『吾妻鏡』には夷隅郡大多喜町にある上総伊北館から鎌倉に出向いている様子や、上総介を所望している様子が記されています。北条義時と覇権を争った和田合戦(1213年)にて命を落としました。義盛は浄楽寺をはじめ三浦郡内で7つの阿弥陀寺を開創したと云われています。
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三浦半島から見た房総半島 若き日の義盛も見ていたかもしれない景色 |
義盛の子の胤長が荏柄天神付近に邸を構えていたことが吾妻鏡に記されています。また義盛本人の鎌倉屋敷は、若宮大路沿いで現在ホテル・シャングリラがある辺りだったと云われています。
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三浦義村
宗家の三浦義村は娘(矢部禅尼)を北条泰時に嫁がせるなど政治的な手腕を行使して三浦一族の全盛期を築いた人物です。系図を見る限り和田義盛とは従兄弟関係にあたり年齢は義村の方が20ばかり年下となります。『吾妻鏡』健保六年(1218)7月8日条に、将軍実朝の直衣始めの際、官位が下である長江明義を年上だからと左の上座を譲っている場面が記されています。仕事がデキる男ほど他人を気遣いますよね。彼の敏腕政治家としての片鱗がうかがえる一幕です。
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南向院跡にある三浦義村の墓と伝わる石塔 |
義村は和田合戦(1213年)の際、北条方に与しています。『相模三浦一族とその周辺史』に「惣家義村は、侍所別当義盛の左衛門尉より下位の兵衛尉であり、御家人を統率する庶家義盛の下位に置かれていた。惣領制下にあって、このような矛盾した関係が反目を生じさせたといえよう。」とありました。つまり宗家義村にとって、和田義盛は目の上のたんこぶだったのでしょう。「三浦の犬は友をも喰らう」と千葉胤綱に暴言を吐かれたりもしましたが、裏切るもなにも、そもそも義村にとって和田合戦とは、和田義盛を失脚させる絶好の機会だと最初からとらえていたのかもしれません。ちなみに義村の鎌倉屋敷は、八幡宮に隣接する横浜国立大付属小中学校の辺りでした。
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佐原氏と矢部禅尼
佐原氏は、紀伊(和歌山県)・和泉(大阪府)両国の守護であり、また遠江国城飼郡笠原荘(静岡県掛川市)の惣地頭兼預所でした。したがって駿河・紀伊・和泉の三国を領し、遠州灘に面した海陸交通の要衝・笠原荘を押さえ、本拠三浦半島を海路で結ぶネットワークを有していました。佐原義連は、一ノ谷合戦であの有名なひよどり越えの崖を真先に駆け降りて活躍したことでも知られており、また頼朝のお気に入りであったことが『吾妻鏡』に記されています。こうした義連の活躍が佐原家を宗家や和田義盛にも引けをとらない家柄に押し上げたのでしょう。
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佐原氏の菩提寺 満願寺 |
三浦氏宗家が滅びた宝治合戦(1247年)では、佐原氏は北条方に与しています。この事実だけをみると、一族単位で考えれば裏切り行為のようにもみえますが、これにはどうやら義村の娘の矢部禅尼が関係しているようです。三浦氏版尼将軍ともいえる矢部禅尼は、北条泰時の妻であり時頼の祖母にあたります。泰時と離別した後、佐原盛連と再婚し光盛・時盛・時連を産んでいます。北条氏と縁深い彼女の立場が宝治合戦にて3人の息子(実際は盛連の前妻の子を含めた6人)を執権時頼の下に向わせたのかもしれません。そして三浦氏宗家が滅ぼされた後、三浦介を継いだのがこの佐原氏です。
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岡崎義実
岡崎義実は三浦大介義明の弟です。彼と彼の一族だけ三浦半島に痕跡がありません。義実は現在の平塚市や伊勢原市を領していたと云われています。子の佐奈田義忠は、石橋山合戦で頼朝の身代わりとなり討死にしたため頼朝をはじめとする源氏一族から手厚く供養されています。一方でもう一人の子の土屋義清は和田合戦での奮闘が『吾妻鏡』で讃えられています。義実本人も悪四郎と呼ばれていたほどなので、一家揃って武芸に優れていたのかもしれません。しかし晩年には生活に困窮するほど落ちぶれていた様子が『吾妻鏡』に記されています。義実を祀る證菩提寺は、はじめ無量寺という寺号でしたが、義実の死後、これを大日堂に祀り岡崎堂と呼んで次第に寺の中心となったので、義実の法名「證菩提」を寺号とするようになりました。
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證菩提寺にある義実の墓所 |
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朝比奈三郎義秀
勇猛果敢な三浦一族にあって、その中でも更に武勇の誉れ高い人物といえば、和田義盛の三男となる朝比奈三郎義秀でしょうか。三浦一族内というより、鎌倉時代というカテゴリーで最強の人類だったかもしれません。海に潜って素手でサメを三匹捕らえたり、朝比奈峠を一夜で切り開いたという逸話が残されています。北条氏に都合の良い編集を心がける『吾妻鏡』において、これほど敵が褒め称えられた場面があったでしょうか。和田合戦における彼の戦いぶりは「神のよう」と絶賛されています。
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三郎が一夜で切り開いたと伝わる朝比奈切通 |
朝比奈三郎義秀の邸は、田谷の洞窟がある定泉寺だと云われていますが、ソースが不明で信憑性に欠けます。御霊神社が付近にあるので、あの辺りに桓武平氏の一族がいたことは確かなようですが。
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大多和氏
大多和義久は三浦大介義明の三男です。三浦半島の入口となる鐙摺に義久が邸を構えていたことが『吾妻鏡』に記されています。大多和氏はそもそも小坪坂をおさえていたので、小坪から鐙摺に連なる海岸線沿いが大多和氏の所領だったのかもしれません。また衣笠城の西方に大多和城跡と呼ばれる場所があります。
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鐙摺城跡から眺めた堀内(葉山) |
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多々良氏
三浦大介義明の四男、多々良義春はその苗字からもわかるように横須賀市にある多々良を領していました。その他、伊豆江川庄にも所領があったとされています。義春の子の重春が小坪合戦(由比ヶ浜合戦)で命を落としています。材木座の来迎寺に大介義明と共に祀られています。
材木座来迎寺にある三浦重春の墓 |
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長井氏
三浦大介義明の五男となる長井五郎義季の邸が長井にあったと云われています。ですから長井城跡も義季のものかと思いきや、三浦義澄の城とも伝わっています。彼に関してはあまり情報がないようです。ちなみに荒崎公園として整備された長井城跡は、海蝕洞などがたくさんある素敵な岩浜となっています。
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長井城跡荒崎公園 |
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杜戸氏
森戸海岸の辺りを堀内と云います。三浦大介義明の六男で杜戸六郎重行が堀内長徳寺の辺りに邸を構えていたと云われていますが、具体的な記録は確認できていないようです。『相模三浦一族とその周辺史』(以下周辺史)よれば、三浦大介の六男重行は、摂津国杠峰にて杠姓を称し、守護職に補任したと記されています。「杜戸」「杜」「杠」など、重行の苗字が資料によって異なります。
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葉山堀内といえば森戸神社 |
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山口氏
葉山の上山口・下山口の辺りは近世まで山口郷でした。宗家義澄の子で義村の弟にあたる山口有綱の所領だったと考えられています。上山口にある大昌寺近辺がその有綱の邸跡と伝わっており、付近には山口有綱一族関係者のものとも考えられる立派な五輪塔が残されています。
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上山口にある五輪塔 |
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津久井氏
津久井義行は大介義明の弟にあたります。京急津久井浜駅辺りを拠点としたことから津久井氏を名乗ったと云われています。その津久井には、義行が中興した東光寺や峯屋敷と呼称される義行の館跡などが現在も残されています。津久井氏は、義行・高行・義道・高重と四代に渡って津久井に居住し、四代目の高重が承久の乱で京側に与したためそこで滅びたとされています。
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津久井東光寺 |
関連記事:「津久井」
芦名氏
三浦大介義明の弟となる芦名為清の拠点は、佐島にある芦名城跡と伝えられています。城跡と言っても確認できるものはなく、わずかながらの旧態地形とそれらしい地名が付近に残されているだけでした。その他芦名城の鎮護として創建された十二所神社などが現在も残されています。
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十二所神社から見た佐島の海岸線 |
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三浦泰村
泰村は義村の子で三浦氏宗家を滅亡させてしまった人物です。『吾妻鏡』には、笠懸で佐々木重綱に弓矢を向け斬り合い寸前となったことや、将軍頼経との対面の席で、筑後知定が上座にあるのを不服として口論に及んだことなどが記されています。年上だからと下位の者に上座を譲った父義村には遠く及ばない人間性だったことがこれらの記事からうかがえますが、あくまでも吾妻鏡の記述は、北条氏側からの視点だということも忘れてはいけません。宝治合戦(1247年)にて一族を含めた500余名と共に頼朝法華堂にて自刃しました。
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頼朝法華堂跡の丘陵にある三浦氏を供養する横穴 |
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三浦義同と相模三浦一族の終焉
上の系図からはかなり時代が下りますが、三浦義同は最後の相模三浦一族当主としてその名が知られています。伊勢宗瑞の相模国侵攻によって、永正十三年(1516)7月11日、新井城での3年間の篭城の後、義同は自刃によってこの世を去ります。三浦一族は、佐原氏の一部が紀伊や会津などへ、和田義盛の二男義氏が伊勢国小浜郷に、また不確かな伝承ですが、三男の朝比奈三郎義秀が紀伊の太地に住み着いたと云われています。その後、近世にて紀州藩家老三浦長門守為積が三浦半島各地で先祖の史跡を整備し、その姿を現在まで伝えています。
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荒井浜 |
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その他
その他、佐原氏から派生した横須賀氏、宗家義澄の子の三戸氏などが著書・資料でその名を確認できます。また衣笠合戦にも参加した金田太夫は三浦大介義明の婿養子で上総の出身です。それ以外にも外戚として、長坂古戦場の辺りを領していた大友氏、長柄の長江氏などがいました。
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長柄にある義景大明神 |
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カテゴリー 鎌倉遺構探索事典
記事作成 2016年1月1日