2016年1月2日土曜日

大楽寺跡


山号寺号 胡桃山千秋大楽寺
建立   文保元年(1317)
開山   公珍
開基   -


鎌倉市内でも屈指の人気エリアとなる浄妙寺と報国寺のある浄明寺地区の胡桃ヶ谷に大楽寺というお寺がありました。跡地周辺は宅地化されていますが、大楽寺のものと思われるやぐら群が現在も残されています。

Google map 鎌倉
①胡桃ヶ谷大楽寺跡 ②明王院 ③報国寺 ④浄妙寺 ⑤永安寺跡 ⑥瑞泉寺 
⑦薬師堂ヶ谷大楽寺跡 ⑧永福寺跡

胡桃ヶ谷


浄妙寺(上地図画像④)の東隣にある谷戸を胡桃ヶ谷と云います。北側で紅葉ヶ谷と隣接しているので、瑞泉寺(上地図画像⑥)の裏山を登ると、この谷戸を見渡すことができます(下画像)。往時ではこの谷戸に大楽寺というお寺があったと伝わっています。その他、明王院(上地図画像②)の裏山ともなる大江広元の層塔がある辺りからも胡桃ヶ谷を見渡せます。

瑞泉寺裏山から見た胡桃ヶ谷

大楽寺やぐら群


大楽寺跡は、市街地中心部から六浦道を下り、浄妙寺を過ぎ、足利公方邸旧跡の碑より奥に入って行くのが一番わかりやすいルートかもしれません。立地的には浄妙寺と鎌倉御所の中間やや奥に位置しています。

足利公方邸石碑

住宅街の奥に入って行くと大きめなやぐらが数基あります。完全な住宅街となった跡地周辺にあって、このやぐらが大楽寺の唯一の痕跡と言えるのかもしれません。羨道のないシンプルな形状ですが、ホントに大きいです。

大楽寺跡にあるやぐら

さらに天園ハイキングコースから明王院で下山しようとした際、運良く藪が薄れていた時期があり、こちら胡桃ヶ谷側に進めたときがありました。なんとビックリ、急峻な崖面にやぐらが大よそ20基ほどありました。位置的にも大楽寺跡の裏側となり、お寺があったと思われる位置に向って横穴が開口していることからも、大楽寺に関連したやぐらだと思われます。



大楽寺の堀切か・・


ハイキングコースから奥に進み、山腹のやぐら群に遭遇する前に、そういえば堀切がありました。堀切といっても城郭として本格的に敵の侵入を阻むものではなく、鎌倉の山でよく見かける目印的な小さい造作です。鎌倉の堀切は隣接する寺院の境界線としての役割を果たす場合があります。今思うと、山中で私が見かけたあの堀切は、明王院と大楽寺の境界線だったのかもしれないと思いました。

明王院裏山で見た堀切

大楽寺縁起


『鎌倉廃寺事典』によると、厚木市中依知というところにある浅間神社に大楽寺の梵鐘が残されているとありました。その銘文には、文保元年(1317)に伽藍が興隆されたと刻まれています。また『新編鎌倉志』からの引用を用い、開山は公珍、本尊は鉄不動、他に薬師如来・愛染明王等が伝えられています。

地上部にあるやぐら

水戸光圀が見たのは薬師堂ヶ谷の大楽寺


『新編鎌倉志』に「胡桃谷ハ、浄妙寺ノ東ノ谷他、昔、薬師堂有リ、今ハ亡テ礎石ノミアリ、本尊は今大楽寺ニアリ」とあります。つまり水戸光圀が鎌倉に訪れたとき、既に胡桃ヶ谷に大楽寺はなく、薬師堂ヶ谷(上地図画像⑦)に移転していたことがわかります。永享元年(1429)に永安寺(上地図画像⑤)が焼失した際、山を越えて類焼したため、大楽寺は伽藍を失い、このとき覚園寺のある薬師堂ヶ谷に移り、明治四年(1872)に廃されるまで存続していました。

薬師堂ヶ谷大楽寺跡

バス停鎌倉宮から覚園寺を目指すと右手にハイキングコース入口が現れ、その左手に駐車場として活用されている空地があります。鎌倉市教育委員会の調査報告書によれば、ここが薬師堂ヶ谷にあった大楽寺跡だとありました。入っていくと一瞬やぐらかと思う造作が壁面にみられますが、ややこしいことに横穴に見える石切り跡のようです。奥地は興味深いことに土地が盛り上がり、ちょっとした地形の段差が確認できます。

大楽寺跡地にある壁面造作

伝承と合致する発掘調査の結果


鎌倉市教育委員会が行った胡桃ヶ谷での発掘調査の結果、年代のわかる最も古い地層が13世紀後半に属することが判明しました。それ以前の層からは遺物が一点も出土していません。ですから検出された遺跡の存続年代は13世紀後半から15世紀前半とみられ、開山の公珍が活動した鎌倉時代後期、そして伽藍が焼けてしまったのが15世紀前半という伝承と見事に合致する調査結果が得られています。

新清涼寺ヶ谷

特筆すべきは、新清涼寺跡でしか発見されていない長手積の石組溝がここ大楽寺跡でも確認されていることです。新清涼寺といえば律宗。優れた石工職人を擁していた律宗がここ大楽寺にも携わっていたのであれば、発掘調査で見つかった石組溝やこれだけのやぐら群があることも納得できます。『鎌倉廃寺事典』に大楽寺が律宗だという旨が既に記されていましたが、発掘調査の結果からも、大楽寺が律宗寺院だったことが証明されたと言えるのかもしれません。

願行上人と鉄不動


大楽寺のご本尊を鉄不動と云います。『鎌倉廃寺事典』に「鉄不動は試みの不動と呼ばれ、大山の本尊不動を鋳るに際し、願行上人憲静が試しに鋳たものと伝えられている」とありました。一方で『かまくら子ども風土記』には、文永(1264~1275)の初めごろ、将軍が高野山の意教の徳望を聞いて鎌倉への来訪を依頼。意教に師事していた願行が共に鎌倉入りし、鑪ヶ谷に鋳造所を築いてこの鉄不動を鋳造したとあります。さらに願行が大楽寺・理智光寺・長楽寺を開いたとも記されています。公珍ではなく願行が大楽寺の開山として記されています。ちなみに公珍は京都泉涌寺六世願行上人憲静の高弟と『新編鎌倉志』で紹介されているので、少なくともこの二人には関係性がみられます。また『かまくら子ども風土記』では願行上人が鉄不動を鋳た地を十二所の鑪ヶ谷としていますが、『新編鎌倉志』では「西の方」と記されています。

胡桃ヶ谷

願行上人がどこで鉄不動を鋳たのか興味深いところですが、『新編鎌倉志』が云う「西の方」(大楽寺の)には、浄妙寺の鎌足稲荷神社があります。稲荷社は鋳物師に崇敬されている一面を持つので、もしかしたら浄妙寺の近くに鋳造所があったのかもしれませんね。

浄妙寺の鎌足稲荷神社

願行上人憲静


ネット上に高橋秀栄さんという方が記した『鎌倉下向僧の研究ー願行憲静の事跡ー』と題された論文が落ちていました。この高橋さんの論文によれば、願行上人が鎌倉に下向したのは間違いないようで、「憲静の下向は叡尊帰洛後の欠を補うべく、幕府の上層から要請されたものであったかもしれない」とありました。また北条実時と親交があったこと、その他にも時頼・時宗・貞時・二階堂氏らの絶大な外護と支援があったことなどが記されています。そして二階堂上人・永福寺真言院上人とも呼ばれていたとあったので、鎌倉下向中は永福寺周辺のどこかに住んでいたのかもしれません。

二階堂永福寺跡

神奈川県の公文書館刊行物『紀要 第6号(8)古記録からみた大山信仰の諸相』によれば、文永の頃(1264~1275年)、鎌倉に下向した願行は、異国(蒙古)降伏の秘法を修する目的で大山に登り、百日間の難行苦行に入ったとありました。やはりこのことからも、願行上人の鎌倉下向は幕府からの要請だったのでしょう。ちなみに、願行上人が鋳た鉄不動がある大山寺は、天平勝宝7年(755年)創建の古刹で、頼朝や実朝から寺領寄進を受けるほどの高い寺格を有していました。その後衰退したところを願行上人が中興したようです。

大磯から見た大山



カテゴリー 探索記事(エリア別 浄明寺
記事作成  2016年1月2日

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