鎌倉時代から現在まである地名
一部当て字や厳密な表記が異なるものもありますが、下画像は『吾妻鏡』に登場する地名で、なおかつ現代にて町名として活用されているものを表しています。
Google map 鎌倉 ①二階堂 ②西御門 ③雪下 ④山内 ⑤佐介 ⑥佐々目 ⑦常葉 ⑧極楽寺 ⑨稲村 ⑩小坪 ⑪大町 ⑫小町 |
二階堂
地図画像①の「二階堂」は、永福寺の本堂を二階堂と云っていたので、この地を二階堂と呼ぶようになりました。『吾妻鏡』建久三年(1192)8月24日条には「二階堂に池を掘った」、建久三年(1192)8月27日条には「頼朝が二階堂に訪れた」などの記述がみられます。
永福寺CG再現図 現地案内板より |
西御門
②「西御門」は、頼朝亭(大倉幕府)の西門があったことからそう呼ばれています。吾妻鏡ではその他「東御門」「北御門」「南御門」の記述がみられます。つまり、頼朝亭(大倉幕府)には、南北東西四方向全てに門が設置されていたことがうかがえます。
大倉幕府に関する遺跡発掘現場 |
雪下
③「雪ノ下」は、雪を貯蔵しておく雪屋があったことから付いた名だと云われています。新宮から二十五坊の辺りを指しますが、現在は若宮大路西側の広大な地域を雪ノ下と云います。『吾妻鏡』宝治二年(1248)10月6日条に「将軍家頼嗣が鶴岡八幡宮筆頭法印隆弁の雪ノ下の宿舎へ出かけた」とあります。
雪ノ下二十五坊跡 |
山内
④「山ノ内」は、山ノ内俊通が山ノ内荘として開発したから付いた名だと云われています。鎌倉時代では、北鎌倉から横浜市栄区や戸塚区におよぶ広大な地域を山ノ内と云っていました。吾妻鏡での記述はもちろん、後深草院二条の『とはずがたり』にも「山ノ内」という記述がみられます。『吾妻鏡』治承四年(1180)7月10日条に登場する山ノ内経俊は、山ノ内俊通の子です。また執権北条貞時の妻で執権高時の母である覚海円成尼が山内禅尼と呼ばれていました。
佐介
⑤銭洗弁天や佐助神社があることで知られる「佐介」の名の由来には2つあります。かくれ里の稲荷と名乗る老人が源頼朝の夢枕に立ち、平家討伐の挙兵を促したという伝承から佐殿(頼朝)を助けたので佐助と呼ばれるようになったという説。もう一つは、ここに上総介・千葉介・常陸介の三介の邸があったので三介ヶ谷と呼ばれるようになったという説があります。『吾妻鏡』寛元五年(1247)1月30日条に「北条時盛の佐介亭の裏山に光る物が飛んでいた」などとあります。現在では「佐助」と表記します。
佐助ヶ谷といえば銭洗弁天 |
佐々目
⑥「佐々目」における吾妻鏡での記述はこちら、寛元四年(1246)4月2日条に「執権経時を佐々目山麓に葬った」とあります。現在は「笹目」という当て字が用いられています。佐助ヶ谷の南側にある地域を笹目と云います。
常葉
⑦「常葉」は、現在「常盤」と表記します。『吾妻鏡』康元元年(1256)8月20日に、北条政村の「常葉別業」が登場します。その他、弘長三年(1263)2月8日条には、「常葉御亭」で和歌会が行われていた様子が記されています。この「常葉別業」と「常葉御亭」は同じ場所を指します。また「別業」とは本邸ではない、つまり現代風に言えば別荘と表現できます。
常盤亭跡 まさに常緑の常葉 |
極楽寺
⑧「極楽寺」はお寺の極楽寺に因む名です。吾妻鏡には、弘長元年(1261)4月に「極楽寺」が登場します。北条重時が将軍家を極楽寺山荘に招き、笠懸などを行っている様子が記されています。
極楽寺坂から |
稲村崎
⑨鎌倉の史跡に興味のない人にも知られている有名な稲村ヶ崎は、『吾妻鏡』建久二年(1191)9月21日などに「稲村崎」と登場します。この日の記事では、頼朝さまが稲村崎にお出かけされたとありました。
小坪
⑩海岸・漁港が目の前にある「小坪」は、源頼朝が伊豆から呼び寄せた妾の亀姫がいたことから吾妻鏡に度々記されています。その他、中原小中太光家の邸があったこと、将軍頼家が御家人を連れて小坪遊覧をしている様子などが吾妻鏡に記されています。朝比奈三郎義秀が海に潜ってサメを三匹捕まえてきたともあります。現在小坪は逗子市に取り込まれています。
小坪 |
大町
⑪「大町」は、『吾妻鏡』承久二年(1220)2月16日の記事などでその名を確認することができます。主に庶民が住む商業エリアだったようで、近世の頃までは、大町の中でもさらに米町・魚町・傘町などの小字名が伝えられています。
小町
⑫「小町」に関しては、『吾妻鏡』寛喜二年(1230)12月7日条に「小町大路」、弘長三年(1263)6月29日条に「小町亭」「小町御亭」などととして「小町」の名が記されてるのを確認できます。「小町亭」と言えば、北条義時のいた邸跡(現在の宝戒寺)を真先に思い浮かべるかもしれませんが、弘長三年の「小町亭」とは、北条政村邸を指します。政村邸は政子邸を受け継いだものなので、後に宝戒寺となった小町亭とは異なります。ややこしいですね。
左京兆小町亭跡宝戒寺 |
町名として採用されなかった地名
次は、鎌倉時代にあった地名ながらも、惜しくも現代にて町名として用いられなかったものを下画像にて表しました。私はここで初めて「名越」という町名がないことを知り、とても驚きました。鎌倉を歩いていると、駐車場やお店の名前に「名越」と付くものを何度か見かけていたので、てっきり名越という住所があるものだとばっかり思っていました。
Google map 鎌倉 ①亀谷 ②甘縄 ③名越 ④大倉 |
亀谷
①『吾妻鏡』における「亀谷」の名は、治承四年(1180)10月7日条にある「源義朝の亀谷旧跡」、治承五年(1181)3月1日条にある「土屋二郎義清の亀谷堂」などなど、かなり早い段階で確認することができます。また「源義朝の亀谷旧跡」「土屋二郎義清の亀谷堂」共々寿福寺の地を指すものなので、亀ヶ谷とはその辺りを指すものと思われます。
甘縄
②「甘縄」は、鎌倉市教育委員会の調査報告書によれば、往時では「無量寺ヶ谷から長谷観音前交差点付近にいたる鎌倉旧市街地西南部の広大な地域」を指すとありました。『吾妻鏡』において甘縄の地名は度々登場します。例えば養和二年(1182)1月3日条に「安達藤九郎盛長の甘縄の家」とあるように、特に安達氏の邸があったことで知られています。甘縄の語源は「海女縄」から転訛したものと云われています。
甘縄の無量寺跡 |
名越
③そしてまさかの住居表示として用いられていない「名越」ですが、語源としては古くは「難越」(なごし)と呼ばれていたことに由来すると云われています。つまりその名からも名越坂の辺りを指すものと思われます。しかも難越という名称からは、名越坂がとても険しい峠道だったことが伝わってきます。『吾妻鏡』天福元年(1233)8月18日条に「名越坂」、承元元年(1219)9月22日条に「名越山」、建永元年(1204)2月4日条に「名越山辺」などと記されています。
名越坂 |
大倉
④「大倉」は、大倉幕府(頼朝亭)のあった場所を指します。北条義時邸や時房の妻の邸などの存在が吾妻鏡には記されています。また将軍実朝が建立した大慈寺を「大倉新御堂」とも表現しているので、大倉郷とは、大倉幕府のある辺りから十二所辺りまでを指す広大なエリアだったようです。
吾妻鏡にはない地名
最後に、吾妻鏡でその名を確認できない地名を下画像にて表しました。つまり鎌倉時代にはなかった可能性の高い地名となります。がしかし、吾妻鏡は文永三年(1266)までの記録なので、鎌倉時代にはなかったとは一概には言い切れません。特に「坂ノ下」や「材木座」などは、当時からあってもおかしくない雰囲気ですが、調べた限りでは、吾妻鏡には載せられていないようでした。
Google map 鎌倉 ①扇ガ谷 ②御成町 ③長谷 ④坂下 ⑤材木座 ⑥浄明寺 ⑦十二所 |
扇ガ谷
①亀ヶ谷の地がいつからか「扇ガ谷」と呼ばれるようになりました。明応三年(1494)に没した上杉定正が扇谷殿と呼ばれていたので、扇谷の名が浸透したのはその頃からかもしれません。名の由来については、地形が扇のようになっているから、もしくは扇の井があったからなど、諸説あります。
Google map 扇ガ谷 扇と言われれば確かに扇型 |
御成町
②一見して古そうな名前にも思える「御成町」ですが、現在の御成町小学校から市役所にかけて御用邸があったことにその名が因みます。昭和40年に付けられたとても新しい地名です。
長谷
③長谷寺の付近を「長谷」と云います。長谷寺がそのまま語源になったと考えられています。長谷寺は頼朝の鎌倉入り以前からあった古刹なので、その地名もまた古いように思えますが、しかし、吾妻鏡にはその名を確認することができません。吾妻鏡では長谷の辺りを「前浜」と呼称しています。
長谷寺から見た長谷 |
坂下
④「坂下」の名の由来は、極楽寺坂の下にある地域なので「坂ノ下」になったと云われています。吾妻鏡に「化粧坂下」という表現がみられるので、こちら極楽寺坂の「坂下」も鎌倉時代からあった地名だと個人的に思っていましたが、吾妻鏡にその名を見つけることはできませんでした。
坂ノ下 |
材木座
⑤「材木座」の名の由来は、材木の集積地であり、尚且つ材木を取り扱う商人の座が結成されていたことによると云われています。和賀江嶋が近くにあったため、当時は貢納物などを納める「高御蔵」「浜御蔵」といった施設が建ち並ぶ商業エリアでした。『吾妻鏡』建長五年(1253)に、幕府が和賀江嶋の材木が不揃いなので寸法を定めたという記事がみられます。
また当時は「和賀江嶋」もしくは「西浜」「飯島」などとこの辺りを呼称しています。鎌倉市教育委員会の調査報告書によれば、鎌倉・材木座に伝わる古謡「天王謡」の歌詞に「材木座」がみられるとありました。この古謡の起源は中世に遡ると云われています。材木座が鎌倉時代からあった地名なのかどうかははっきりとわかりませんが、材木商人の座は鎌倉時代後期から室町時代に作られたと云われています。
稲村ヶ崎から見た材木座の辺り 光明寺・和賀江嶋・住吉城跡が見える |
浄明寺
⑥「浄明寺」の名の由来は、鎌倉五山五位の「浄妙寺」に因みます。住所の「浄明寺」がお寺の「浄妙寺」と一字違いなのは、お寺の浄妙寺に遠慮したためだとか、明治の廃仏毀釈によって寺の名を避けたなどという説があります。
浄妙寺 |
十二所
⑦「十二所」の名の由来は、昔は12軒の村だったから、もしくは十二所神社に因むと云われています。12軒の村だったという地名の由来からは、どこか寂しい土地柄のように思えてきますが、逆に、だからこそ現在でも自然が多く残されているエリアなのかもしれません。今もあの十二所の山奥に未だ見つかっていない遺跡があるように思えてなりません。
鎌倉の地名関連地図
参考資料
『現代語訳吾妻鏡』(吉川弘文館)
『かまくら子ども風土記』
『鎌倉廃寺事典』
0 件のコメント:
コメントを投稿