糟屋氏と糟屋庄(伊勢原市)
糟屋氏と糟屋庄 |
この記事では糟屋庄(伊勢原市)の歴史と遺跡、そして糟屋庄に関わった人物らを調べてまとめてみました。もちろん鎌倉遺構探索なので、中世・鎌倉時代が中心です。
伊勢原駅前のいきなり鳥居がある風景 |
源氏の郎党から庄司となった糟屋氏
頼朝の御家人に列した糟屋有季の曾祖父を盛季と云い、彼は安楽寿院公文別当であった相模守藤原親弘によって皇室領荘園として成立した糟屋庄の庄司として取り立てられました。
そしてこの盛季の父となる佐伯元方は、前九年の役(1051~62)で奥州安倍氏の反乱を鎮圧した源頼義の郎党であった良方の子で、頼義と共に関東に下向した良方が相模国在国中に生まれたと云われています。また有季の父盛久は相模権守として国衙在庁官人となっていましたが、頼朝の旗上げには従わず平家方に加わっています。
糟屋氏系図 |
有季の兄弟が糟屋庄の地名を名字とし分家しています。四宮・新開(池端)・白根・伊木(沼目)・城所・櫛椅(串橋)・善波など、伊勢原市周辺にある現在の地名に比定することができます。またこれら有季兄弟の子孫から大山・朝岡(富岡)・大竹などが派生し、その他『吾妻鏡』に「三宮次郎」「たかへの左近」(高部屋)など糟屋一族らしき名を確認することができます。
Google map 糟屋庄の主な史跡 ①伊勢原駅 ②高部屋神社(丸山城跡) ③比々多神社 ④浄業寺跡 ⑤扇谷上杉家糟屋館跡 ⑥極楽寺跡 ⑦大山寺 ⑧阿夫利神社 ⑨浄発願寺奥の院 ⑩日向薬師 |
美男だけど不運な糟屋氏嫡流
糟屋氏嫡流で頼朝の御家人に列した有季は、宇治川の戦いや奥州合戦に参加している様子が『吾妻鏡』などの文献・資料等で確認できます。この有季の妻が比企能員の娘であったことから、有季は比企の乱(1203年)では比企方に付き、自害もしくは討ち死にしたと云われています。
その後、有季の子の有久が後鳥羽上皇の西面の武士として加えられています。このため有久は承久の乱(1221年)では朝廷方として戦い、北条朝時率いる北陸軍の結城朝広に討ち取られたと云われています。
有季の最期の地となった妙本寺 |
『糟屋系図』にある有季の注釈に「美男」と記されています。そして有季の妻が比企能員の娘です。比企能員の娘といえば、将軍頼家の妻となった若狭局がいます。また一族内の比企朝宗の娘で北条義時の妻となった姫前は「姿はなはだ美麗にて」と『吾妻鏡』に記されています。
このことからも、有季の妻も比企一族の女性であることから、美女であった可能性が高く、美男と美女の間に生まれた有久は、さらにサラブレット級の美形だったものと思われます。西面の武士に推挙されるにもある程度の容姿が必要とされるでしょう。辻褄が合う気がします。
横山党との姻戚関係に殉じた糟屋一族
和田義盛が横山党と姻戚関係を結んでいましたが、糟屋氏もまた横山党と姻戚関係で繋がっていました。有季兄弟の父盛久の妻が横山隆兼の娘で、有季の弟光久が横山時兼の妹を妻としています。このため糟屋一族の四宮三郎光久・太郎盛綱父子と白根与三次郎が和田合戦(1213年)に和田方として加わっています。
また盛綱の子の景綱が大山を名乗り、景綱の子の季茂が朝岡(富岡)と、こちらも伊勢原市内にある地名を名字としています。『吾妻鏡』和田合戦の項には北条方に加わった「富岡五郎」なる人物がみえます。
Google map 糟屋一族分布図 ①平塚駅 ②四宮 ③伊勢原駅 ④白根 ⑤大山阿夫利神社 |
北条氏の被官となった糟屋一族
有季の弟盛時の一族の名に「時」や「村」といった北条氏や三浦氏の通名がみられます。それもそのはず、盛時の一族は承久の乱(1221年)で幕府方に加わっていました。そして盛時の子の時村・行村父子が北条政村に仕え、盛時の糟屋一族が政村流北条氏の有力な被官として定着します。
鎌倉末期では、北条時益の執事糟屋長義が摂津・丹波両国の守護代を務めるほどになりましたが、元弘三年(1333)、朝廷方に寝返った足利尊氏が六波羅を攻め、北条仲時・時益の両探題に随行していた糟屋宗秋が近江番場宿の一向堂で自害し北条氏と運命を共にしています。
北条政村の常盤亭跡 |
糟屋氏の末裔に近江国賤ケ岳の合戦で七本槍の一人として活躍した糟屋武則がいます。この播磨糟屋氏は北条政村の被官となった時村の弟の延時、もしくは櫛椅(串橋)の子孫だと云われています。
頼朝から崇められた伊勢原市の社寺
『吾妻鏡』建久五年(1194)8月8日条に、源頼朝が多くの有力御家人を率いて霊山寺(日向薬師)に参詣している様子が記されています。また『吾妻鏡』建久三年(1192)8月9日条では、頼朝が御台所政子の安産祈願のため相模国にある27の寺社に馬を奉納したとあり、その中に伊勢原市にある大山寺・霊山寺(日向薬師)・三宮冠大明神(比々多神社)の三社が含まれています。
三宮冠大明神(比々多神社) |
糟屋庄の壮大な旧跡集中エリア
(下地図画像)④北条政子が建立した浄業寺、⑥扇谷上杉家の糟屋館、⑦糟屋氏が創建した極楽寺と、伊勢原駅から大山方面に向かうとある⑤産業能率大学の辺りに興味深い旧跡が集中しています。周辺が糟屋庄の中心部分、もしくは街道の要衝だったのかもしれません。
糟屋氏が創建した極楽寺の跡を上粕屋・和田内遺跡と云い、地中にあった土坑から12世紀末~13世紀前半のものと考えられる蔵骨器(骨壷)が発見されました。この遺物が糟屋氏のものとは断定できないものの、糟屋氏の館がこの地、もしくは近隣にあったと推測されています。
Google map 糟屋庄 ①小田急線伊勢原駅 ②古代東海道箕輪駅跡 ③比々多神社 ④浄業寺跡 ⑤産業能率大学 ⑥扇谷上杉家糟屋館跡 ⑦極楽寺跡 ⑧大山阿夫利神社 |
旧相模国内で確認された古墳241基のうち3分の1にあたる72基が伊勢原市内に存在し、特に三宮周辺では古墳時代後期の円墳が集中しています。特徴として、副葬品が豪華なことに加え、それら装飾品の数が豊富なことなどが挙げられます。
このことからも、相模国の国造の墓があったとする説が一部で唱えられています。その三宮では式内社に数えられる(上地図画像)③比々多神社が鎮座し、また近隣で発掘された縄文時代の環状列石の立石は、祭祀遺跡の御神体として崇められていたという見解を比々多神社は示しています。さらに(上地図画像)②古代東海道の箕輪駅があったと考えられています。
環状列石(レプリカ) |
糟屋庄の早すぎる仏教伝来
糟屋庄には古い歴史を持つ社寺が点在しています。下画像②の高部屋神社・③比々多神社・⑤阿夫利神社の3社は、相模国に13社しかない延喜式神社です。またこれら三社の創建は紀元前にまで遡るとも云われています。
そして寺院に目を向けると、④大山寺は良弁によって天平勝宝七年(755年)に開かれ、⑦霊山寺(日向薬師)は行基によって霊亀二年(716年)に創建されました。また⑥雨降院(石雲寺)の創建も養老二年(718)と、こちらも同時代の創建です。古くから、そして格式ある寺院が糟屋庄にあったことがわかります。しかし、それ以上に糟屋庄における仏教文化の歴史が遡る可能性があるようです。
Google map 糟屋庄 ①伊勢原駅 ②高部屋神社 ③比々多神社 ④大山寺 ⑤阿夫利神社 ⑥石雲寺 ⑦日向薬師 |
三宮で発掘された登尾山古墳は、6世紀頃のもので、この登尾山古墳に副葬されていた銅鋺が、本来は法具であったため、少なくとも6世紀末には仏教文化がこの地にもたらされていたと考えられています。またそれら副葬品の数々は「大陸の先進技術が駆使された工芸品だ」という記述が伊勢原市HPにみられます。そもそも仏教の伝来は宣化天皇三年(538)年と云われています。はてさて、6世紀末に関東のしかも糟屋庄に既に仏教が広まっていたのでしょうか。
大山に訪れたときに偶然出くわした発掘調査現場 |
糟屋庄周辺の城郭遺構
糟屋庄周辺の城郭遺構として周知されているのが、下画像①岡崎城・③丸山城・④扇谷上杉家糟屋館です。そして厚木市になりますが⑦七沢城の存在は糟屋庄と深い関わりを持っています。
これらの旧跡は著書・資料などで確認する限り、わざわざ見学に訪れる程のものは残されてないようですが、七沢城に関連すると云われる⑥見城は、標高の高い山頂にあるためか、大々的な土地開発を免れたようで、堀切・平場・土塁状尾根などの造作が確認できます。但しそれらが城郭なのかどうかは判然としません。
Google map 糟屋庄 ①岡崎城 ②伊勢原駅 ③丸山城 ④扇谷上杉家糟屋館 ⑤大山阿夫利神社 ⑥見城 ⑦七沢城 |
扇谷上杉家糟屋館跡では最大で100mもある堀跡が確認され、また丸山城跡では15世紀~16世紀のものと思われる大々的な遺構が発見されています。これらが上杉氏、または時代的にも三浦道寸義同もしくは伊勢宗瑞のものなのかといった判定までは、今のところ専門家でも難しいようです。
見城 |
その後の糟屋庄
糟屋氏嫡流が失脚した後、糟屋庄は北条氏の所領となり、鎌倉末期では大仏貞直が糟屋庄の大よそを、白根郷を赤橋流北条氏が領有していました。幕府滅亡後は足利氏、そしてのちに扇谷上杉家が糟屋庄に拠点を置き、山内上杉家と関東の覇権を争っています。
その後、伊勢宗瑞の相模国侵攻を防ぎきれなかった三浦道寸義同は、岡崎城・住吉城と徐々に後退、ついには新井城で滅亡し、世は後北条氏の治世へと移り変わっていきました。信仰の地として多くの修験者がいた大山は、修験勢力として後北条氏に構成され、徳川家康が粛清に乗り出すほどの勢力だったと記録に残されています。
伊勢原市の何気なく大山が視界に入る風景 |
徳川幕府の下、平穏な時代に突入すると、大山詣りが盛んになり糟屋庄が近世から観光地として賑わいをみせるようになりました。大山に参詣したのち江ノ島に向かうのが当時の定番コースだったそうです。
参考資料
〇伊勢原市教育委員会『中世伊勢原をめぐる武士たち』〇湯山学『相模武士―全系譜とその史蹟〈5〉』
〇かながわ考古学財団『上粕屋・和田内遺跡』
〇五味文彦他『現代語訳吾妻鏡』
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