2018年2月11日日曜日

三浦一族の所領と日宋貿易


三浦一族の特に宗家を中心にその所領を調べてみました。三浦宗家の所領は日本列島の北は糠部郡(青森県から岩手県にまたがる一戸から九戸にいたる地域)から南は肥前(大よそ佐賀県と長崎県の辺り)に至る広大な範囲に分布しています。そしてこれら所領の特性を探っていくと、彼らが海上交通における要衝を押さえ北条氏に先がけて宋との関係を構築していたことがうかがえます。ということで今回は三浦宗家の所領の中でも海上交易・交通に関するテーマでまとめてみました。

Google map 三浦氏所領


三浦義村


三浦氏宗家の全盛を築いた義村は承久元年(1219)駿河守に任じらました。この駿河守は鎌倉時代を通して義村以外に任官したのは全て北条氏一門のみという特別なポストでした。またこの国守任官によって義村はこれまでの侍身分から諸大夫相当(貴族階級)の身分へと出世しています。相模土佐の守護であった義村は、承久の乱(1221年)の後、河内紀伊の守護に、さらに一部資料では讃岐淡路の守護にも就いていたことがわかっています。

Google map 三浦義村所領
①相模守護 ②駿河守 ③河内守護 ④紀伊守護 ⑤淡路守護 ⑥讃岐守護 ⑦土佐守護

建仁二年(1202)義村は娘(矢部禅尼)を北条泰時に嫁がせ、翌年には次期執権候補となる時氏が誕生しています。さらに泰時の娘を子の泰村の妻として迎え入れるなど、北条氏の外戚としての地位を確立しています。一方で、承久の乱の後、守貞親王の子が天皇に擁立されましたが、これに暗躍したのが義村であり、また藤原道家や久我家の源具実などを通した朝廷とのパイプ構築も行っていたもようです。政治家としては天才的な人物だったようです。


西国の海上交通を掌握した三浦一族


紀伊守護に佐原義連・三浦義村・佐原家連などが、河内守護に三浦義村・泰村父子が、河内守に三浦義村の子の光村が、淡路守護に三浦義村が、讃岐守護に三浦義村・泰村が、土佐守護に三浦義村・泰村がそれぞれ就いています。大阪湾と瀬戸内海航路の重要な箇所をほぼ掌握しています。これはつまり西国の海上交通をほぼ掌握したと言っても過言ではないでしょう。

Google map 三浦氏所領
①河内 ②紀伊 ③淡路 ④讃岐 ⑤土佐


日宋貿易を掌握した三浦一族


義村の子の泰村が承久の乱(1221年)の恩賞として筑前国宗像社領の預所及び肥前国神崎庄の地頭職に、泰村の弟の光村が嘉禎三年(1237)壱岐守に任じられています。神崎庄は平安時代から平忠盛や信西などの日宋貿易に関わった人物が預所を務めてきました。つまり神崎庄や宗像社領の土地を知行するということは大陸との貿易権を獲得したことになり、彼ら三浦一族が日宋貿易に乗り出していたことがわかります。その痕跡となるのが、横須賀市大矢部にある三浦氏の菩提寺清雲寺にある木造観音菩薩坐像です。これは南宋時代(1127~1247年)に大陸の江南地方で制作されたもので三浦氏が伝えたものだと云われています。

Google map 三浦氏所領
①神崎庄 ②壱岐 ③小呂島 ④宗像大社

泰村の代官として現地に赴任した常村という三浦一族らしき人物が宋の商人と結託して小呂島の地頭を主張していたという記録が残されています。宗像大社に納められる通行料などの税(貢物)を常村と宋の商人が横取りしていたようです。交通の要衝の地では貿易による利益だけでなく色んな収入が見込めるということがわかりますね。

右が清雲寺の木造観音菩薩坐像


日本海交易にも着手した三浦一族


嘉禎三年(1237)三浦泰村が若狭守に、仁治二年(1241)には弟の光村が能登守に任ぜられました。能登は日本海交易の重要な結節点であり、また若狭国小浜は西国へ流通する荷を積み下ろす拠点となっていました。こちらも大陸との関連の他、室町時代では宇須岸(函館)と小浜で商船が往来する交易が始まっていたようなので、もしかしたら、泰村・光村兄弟が既にこの国内の日本海交易にも着目、もしくは着手していたのかもしれません。

Google map 三浦氏所領
①若狭 ②能登


和賀江嶋築港の黒幕


貞永元年(1232)鎌倉に和賀江嶋が築港されました。これは勧進僧の往阿弥陀仏が北条泰時に港を築くことの許可を求めたことに始まります。そしてこの前年の寛喜三年(1231)には同じく往阿弥陀仏の申請により、日宋貿易の便宜を図るため、宗像社領の新宮鐘ヶ崎に人工港が築かれています。資料に三浦義村の名はみえませんが、両港の勧進僧が同一人物であること、和賀江嶋のある飯島と宗像社領の鐘ヶ崎の両港を掌握していたのが三浦一族であることからも、勧進僧の往阿弥陀仏に三浦義村が関わっていたものと考えられます。

鎌倉和賀江嶋

和賀江嶋周辺では現在も運が良ければ青磁の欠片を拾うことができるそうです。青磁は当時難破した船の積み荷なのである意味鎌倉時代の遺物です。三浦一族が日宋貿易で得た品々が鎌倉の材木座で降ろされていたのかもしれません。また鎌倉の外港となる六浦には三艘という地名が伝えられています。その名からは宋からやってきた大型船が停泊していたかのような雰囲気が伝わってきます。

称名寺から眺めた六浦港


宝治合戦の真相


三浦一族が日宋貿易によって私腹を肥やしていたという見方もできますが、一方で彼ら三浦一族が日宋貿易によって大陸の先進文明の流入や海上交通の整備に貢献したという見方もできると思います。三浦宗家が滅びた宝治合戦(1247)は安達氏による得宗家外戚としての立場を確立するための争いであったという見方が通説になっています。しかし北条氏が三浦氏の構築した海上交易・交通網を簒奪することが目的の一つだったのかもしれません。北条時頼が宋から僧侶を輸入し始めたのがこの頃からでした。

頼朝法華堂跡の丘陵にある三浦氏を供養する横穴


鎌倉と日宋貿易


日宋貿易によって宋からは香料・陶磁器・書籍・医薬品・銅銭などが輸入され、日本からは刀剣・水銀・硫黄・木材・砂金などが輸出されていました。鎌倉に関連することで有名なのはやはり禅宗と渡来僧でしょうか。寛元四年(1246)に宋から来日した蘭渓道隆は北条時頼に招かれ寿福寺常楽寺と渡り建長寺の開山として迎えられています。また鎌倉の大仏を構成する含有元素の割合を調べた結果、銅鏡や銅銭が使われたとする研究結果が出ています。つまり宋から輸入された銅銭が大仏の原材料として用いられていたことになります。さらに金沢流北条氏の実時が一切経や書物の輸入に力を入れていたことは有名です。

ある意味宋銭で作られている鎌倉の大仏さま

参考資料
『相模三浦一族とその周辺史』鈴木かほる
『三浦一族の中世』高橋秀樹
『相模武士―全系譜とその史蹟〈2〉』湯山学
『相模武士―全系譜とその史蹟〈5〉』湯山学
『新横須賀市史』横須賀市



カテゴリー 鎌倉研究部
記事作成  2018年2月11日

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