館山城
館山城からの眺め |
今回訪れた先は、歴史に詳しくない人でもその名前ぐらいは誰もが知っている南総里見八犬伝の里見氏の館山城です。城山公園として整備されてはいますが、堀切などの遺構が随所に残されています。また調べてみるとなかなか興味深い城であることがわかりました。
基本情報
〇名称 :館山城〇住所 :千葉県館山市館山338-4
〇開館時間:9時~16時45分
〇休館日 :月曜日・祝祭日の翌日
〇料金 :なし
〇駐車場 :有り
館山城の役割
房総安房の里見氏が最終的に拠した城が館山城です。安房を制した者が必ず押さえる鏡ヶ浦(館山湾)を望む絶好の位置にあります。これにて宿敵・後北条氏への備えも万全かと思いきや、よくよく調べてみると、天正五年(1577)に里見氏は後北条氏と和睦を結んでおり、また館山城を完成させたのが小田原征伐のあった天正十八年(1590)とのことなので、したがって館山城は前線基地ではなく近代化に向けた経済政策の色合いが強い城だったことがわかりました。
Google map 安房 ①崖観音 ②那古寺 ③鶴谷八幡宮 ④館山駅 ⑤館山城 ⑥鉈切洞穴 ⑦光明院 ⑧洲崎神社 |
安房国にこれだけ広大な土地が広がっているに現在の館山市街地中心部が海岸線に偏っているのも里見氏が館山城の城下町として整備した名残りのようです。
館山城概要
迅速測図(明治初期の地図)で館山城を見てみると、この時代でもまだ水田に囲まれていることがわかります。これらは堀跡を水田として活用しているのかもしれませんし、もしくは後北条氏の玉縄城のように有事の際には水田を水濠として活用する目的だった可能性も考えられます。
Google map 館山 ①館山城 ②熊野神社(熊野山) ③泉慶院跡 ④御霊山 |
西の見留川、東の汐入川を防衛線とし、最終防衛ラインとして水堀が城の周りに張り巡らされていたようです。上地図画像②の熊野山(熊野神社)には外郭としての切岸が、④御霊山・天王山には堀跡が現在も残されているので、館山城の大よそのアウトラインが想像できると思います。
熊野山の切岸 |
安房国に経済的な恵みをもたらしてくれる鏡ヶ浦(館山湾)のなかでも特に重要なエリアが高の島湊と呼ばれる辺りです。水深が深く島が西風を防いでくれるということから平安時代から活用されていたポイントで、里見義康が岡本城から館山に移る前から商人の岩崎与次右衛門などを送り込み整備をしていたと云われています。現在は地続きとなっている鷹ノ島公園の辺りかと思われます。
鷹の島公園の辺り(たぶん) |
城山公園
それでは、城山公園として整備された館山城に行ってみます。頂部は戦時中に高射砲を設置するために10mも掘り下げられた挙句、現在では時代考証的にも本当に合っているのかよくわからない天守閣が建てられています。その他にも現地案内板を見ると孔雀園とかあるのであまり遺構は期待できそうもありませんが、きっと素晴らしい見晴らしが待っているはずなので行ってみます。
城山公園案内図 |
スロープを登っていくと中腹に広場があってその奥に館山市立博物館があります。こちらでしか購入できない郷土史関連の書籍を買うのがここに来た目的の一つでもありましたが、なんと欲しかった中世関連の本が既に売り切れで増版もしてないとのことでした。館内には展示物なんかもありますが、本を買えなかったことでちょっと気を悪くしたので入館せずに頂部を目指すことに。
館山市立博物館 |
頂部に到着!鏡ヶ浦(館山湾)と館山市街地を一望できます。素晴らしい眺め!それにしてもなんか見たことあるアングルだと思ったら、鏡ヶ浦も由比ヶ浜と同じく半円状に弧を描いているので鎌倉の光明寺辺りから見る風景と似ているような気がしました。
館山城から見た景色 |
水田が見えます。上の図で示したようにあの辺りに当時は水堀があったものと思われます。実際に上から見ると壮大です。
館山城から見た西側の水田 |
頂部は戦時中に改変されただけあってキレイに削平されています。天守閣と浅間神社があります。天守閣は時代考証的にどうなのだろうという部分もありますが、これ意外に遠くからも見えるんです。ですから一見さん観光客が館山市に訪れたとき、あの辺りが館山城なのだと一目でわかるので結構役立つんですね。
天守閣 |
浅間神社 |
八遺臣の墓というものがあるそうなので南に向かってみました。ツツジが一部で植えられています。そして熊野山の切岸が見えます。あの山にある熊野神社”おくまんさま”に事前に行っていたので、方向音痴でも地理感覚が掴めます。
ツツジが咲いてます |
熊野山の切岸が見えた! |
道を進むとコンクリート舗装されていない尾根道が現れました。何か期待できそうな雰囲気を感じていたらありました!堀切!当時の名残りでしょうか。
イイ感じの尾根道 |
堀切 |
八遺臣の墓に到着。奥壁に”やぐら”のような造作がみられます。元々浅い掘りだったのかもしれませんが、風化して崩れている感じもします。そして想像通り八基の石塔が並べられていました。またこちらはオンマヤ下のウバカミ様とも呼ばれています。
この場所からは14世紀の陶磁器が出土し、またこれら八基の石塔は南北朝期のものなので里見氏の時代より遡るとありました。鎌倉の誰々の墓のように、そういうことにしておいてあげよう的なスタンスでしょうか。
オンマヤ下のウバカミ様 |
慶長十九年(1614)徳川家康は里見忠義に国替えを命じます。しかしこれは事実上の改易に等しく、忠義はわずかな家臣と共に倉吉(鳥取県)に蟄居のようなかたちで閉じ込められてしまいました。その後、元和八年(1622)に忠義は失意のまま29歳の若さで病死し、そのときに殉死した家臣がこれら八遺臣の墓とされているそうです。これが曲亭馬琴(滝沢馬琴)に著わされた南総里見八犬伝の原案・モデルになったと云われています。
八遺臣の墓 |
その他里見氏所縁の史跡
館山城にほど近い南側に里見氏所縁の史跡があります。元々は城内にあったと云う里見義康の菩提寺・慈恩院、里見義康が高野山から招いた快算を開山に創建された妙音院、大平寺の青岳尼で知られる智光院殿が開基となった泉慶院跡などが近接しています。
Google map 館山城 ①館山神社 ②城山公園 ③熊野堂(熊野神社・熊野山) ④慈恩院 ⑤泉慶院跡 ⑥妙音院 ⑦御霊山 |
慈恩院 |
妙音院 |
泉慶院跡 |
参考資料
〇さとみ物語〇たてやまフィールドミュージアム
0 件のコメント:
コメントを投稿