タイトルのテキスト
タイトルのテキスト
タイトルのテキスト
タイトルのテキスト

稲村城やぐら

2018/05/11

やぐら 館山市 城郭

t f B! P L

〈稲村城〉やぐら


稲村城やぐら

稲村城は16世紀の山城で前期里見氏の二代義通・三代義豊が居城としていました。こちらに”やぐら”があるということなので来てみましたが、詳細な位置がわからなかったので探すのにちょっと苦労しました。それにしても、稲村城のあまりの遺構残存度の高さに驚き、最後はやぐらを見学しに来たのか、城跡を見学しに来たのか、よくわからなくなったほどでした。

稲村城の壮大な規模


稲村城は館山市街地から外房へ向かう国道128号線沿いの大字稲に所在してます。ですから稲村城はこの内房~外房間を往来する国道の原型となった中世の街道を押さえるための城であったのかと思いきや、実はそんな小さい規模のお城ではありませんでした。なんと、当時では鏡ヶ浦(館山湾)から稲村城まで水運で繋がっており、さらに稲村城近辺が周辺水路との結節点でもありました。現在も地図で鏡ヶ浦から稲村城付近まで川が流れているのを確認することができます。ですから稲村城は街道を押さえるどころか、館山全体を掌握することのできる規模の大きい城だったようです。

Google map 館山
①稲村城

さらにこれだけで話は終わらず、なんと、稲村城から尾根を伝って白浜城へ行くことができるそうです。今でも実際に行けるのかわかりませんが、地図で見る限り、丘陵がまだ繋がっていそうな雰囲気もしますよね。ということで、稲村城は水運だけでなく、尾根道も含め、色んな意味で交通の要衝の地となっていたようです。ちなみに白浜城は里見氏の安房国進出における最初の足掛かりとなった拠点です。

Google map
①稲村城 ②白浜城

稲村城概要


国道から内房線線路を越え丘陵の西側から稲村城に近づいてみました。後でわかりましたが、丘陵を東西に移動できる切通し路「水往来」があるので、東側からも入れるようです。周囲は田畑に囲まれいて、対向車が来たら田んぼに落ちそうなくらい道も細いため、少なくとも一見さん観光客が来るような土地柄ではなさそうです。まぁそんな人たちが来るような史跡じゃないですからね。

稲村城

今回、丘陵部内をかなり移動したつもりでしたが、帰ってから詳細な資料を手に入れることができたので確かめたところ、実際に移動した範囲は全体の1/3程度に過ぎなかったことが判明しました。また横穴群も全部で3カ所もあったようですが、幸いにも今回向かった横穴群が稲村城域内で最も大きいグループだったようです。

Google map 稲村城
①主郭 ②正木様 ③中郭 ④横穴

稲村城


それでは、いざ、稲村城へ。「水往来」と記された案内板を奥に行くと堀切状通路が続き、奥に進むと、岩肌が露出するまさに城跡の様相となります。しかしこの丘陵を東西に移動できる堀切状通路「水往来」は、残念なことに、築城後、もしくは廃城後に施された可能性が高いようです。

水往来

丘陵頂部に出ると主郭部方面に続く尾根道に、小さい平場と小さめな社殿が現れます。「正木様」とあります。興味深いことに、ホント狭いスペースなのですが、縁を囲むように土塁がめぐらされています。あまりにも規模が小さいのでそれを土塁と呼ぶかは別として。

主郭部へ続く尾根道
正木様

天文二年(1533)に正木通綱が里見氏の内紛に巻き込まれ、ここ稲村城で殺害されているので、それを祀っているのでしょうか。正木様は現在も周辺に居住する正木家が祭祀している先祖神とされています。そしてこの辺りから景色が開けます。高い建物がないのでどこまで見えているのかわからないほど遠くを見渡せました。

稲村城からの景色

そして現代の里見氏と言ってもいいかもしれない、旧安房国圏内を中心にスーパー業界を圧巻しているオドヤさんが見えます。こちらでスーパーと言ったらオドヤさんです。それにしても、現代の豊臣家と言ってもいいかもしれないイオン系列が何故こちらで多店舗展開しないのでしょう。単に商圏として魅力がないのか、それともオドヤが政治的な防衛線でも張っているのでしょうか、興味深いです。

稲村城から見えたスーパーおどや

凄い!東側の斜面に腰曲輪が施されています。随分と細かい造作です。初めて見ました腰曲輪。垂直切岸を施す過程でこのような状態になるそうです。ちなみに鎌倉の常盤にも腰曲輪があったそうですが、現代の新田義貞と言ってもいいかもしれない西武グループの土地開発によって全て破壊されてしまったそうです。

稲村城東側の斜面

こちらは丘陵東側の水往来です。西側の入口から東側の地上部まで続いています。雰囲気があります。

稲村城東側の水往来

三段以上の地形を横から確認!これだけクリアに、そしてこれだけの数のひな壇状地形を横から見たのは初めて。鎌倉でこんなの見れたら感動ですね。たぶん城郭用語で帯曲輪と言っていいのだと思いますが、ちょっとまだお城の勉強が追い付いていないので自信がありません。ごめんなさい。

感動のアングル

中郭エリアを奥に丘陵の南側を進みます。こちらは緩やかな段差のある地形が延々と続きます。井戸らしき跡も確認できました。

中郭エリア
稲村城南側の造作

稲村城やぐら群


しばらくするとようやく現れました!横穴群!”やぐら”といっても形状から察するにもとは古墳時代横穴墓です。高棺座タイプやアーチ型などが基礎となっているようです。後世にて奥壁などに造作が加えられたものと思われます。

稲村城やぐら
稲村城やぐら
稲村城やぐら
稲村城やぐら
稲村城やぐら

こちらの”やぐら”は写っていませんが左側にも石塔類を置くスペースが設けられています。誰かのお墓というより集合墓地みたいな雰囲気です。鎌倉清水寺谷にあるアパート式やぐらの龕が少ないバージョンといった感じです。

稲村城やぐら

誰が改変したのか


これら古墳時代横穴墓を誰が後世にて改変したのでしょう。まずは里見氏とその配下の在地領主らがここで横穴墓を改変したと考えるのが妥当ですが、上記したように、稲村城が交通の要衝の地であったことからも、里見氏が安房国を掌握する以前からの土地の有力者、もしくは足利氏・上杉氏の被官がこの辺りに拠点を構えていてもおかしくはありません。但し、横穴墓を転用する時点でそれほど身分の高い人が祀られているとは思えないので、里見氏より時代が下る可能性も考えられます。

稲村城周辺

参考資料


館山市教育委員会『館山市稲村城跡調査報告書』

房総半島の史跡関連地図


ブログ内検索

ブログ アーカイブ

お問い合わせ

名前

メール *

メッセージ *

QooQ