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夢窓疎石・退耕庵跡・金毛窟

2018/12/01

いすみ市 やぐら 寺院

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〈夢窓疎石〉・退耕庵跡・金毛窟



夢窓疎石の旧跡を訪ねて千葉県いすみ市にある太高寺に訪れました。こんなところと言ったら失礼ですが、夢想国師がここ上総国夷隅郡に2年間だけ庵を構えていたそうです。その庵の名を退耕庵と云い、修行のための座禅窟が残されているとのこと。これは行かずにはいられませんね。

基本情報

名称 :金毛窟
所在地:太高寺
分類 :やぐら
用途 :礼拝所・祈願所

住所 :千葉県いすみ市能実955−2
料金 :なし
駐車場:なし


夢窓疎石座禅窟・金毛窟


『夷隅郡史』に「千町村能実太高寺堂後の山腹に間口七間奥行八尺の石窟あり」とあります。既に江戸時代から金毛窟の存在が文献に記されており、窟内にある「金毛窟」と刻まれた文字は国師が彫ったものと伝えられています。実際にも『夢窓国師語録巻下之二』に国師が千町庄に庵を結んだことが記されているので、国師が一時的にもこの地に訪れたのは事実のようです。

元亨三年(1323)から正中二年(1325)の二年間、ここで国師は庵(退耕庵)を結び過ごしていました。後醍醐天皇の招きにも「巌谷に隠れて出世を願わず」と固辞していましたが、北条高時の圧力に仕方なく上洛を決意したそうです。

現地案内板

太高寺縁起


『夷隅郡史』によれば、太高寺の山号を金毛山と云い、「千町村能實小字宮崎に在り」曹洞宗で如意輪観世音菩薩を本尊とするとあります。恵心僧都(942~1017年)の開創で、元亨三年(1323)に夢窓国師が再興し、当時は臨済宗でしたが、元和四年(1618)に曹洞宗に改宗しました。また夢窓国師の退耕庵から、いつからか寺号に太興や太高の文字を用いるようになったとのことです。

いすみ市能実


この日、長生郡の睦沢町にある妙楽寺から太高寺のあるいすみ市能実に向かいました。とにかく景色が山と田畑の連続です。夢窓国師が庵を結ぶのであれば、そこはきっと美しく優雅な景色のある土地なのだろうと想像が膨らみます。

能実に向かっているところ

太高寺


カーナビが目的地に到着したことを伝えてきましたが、そこには想像と違う景色が、太高寺を目指す途上にあった景色と変わらぬ山と田畑だらけの景色が広がっていました・・。

太高寺周辺

太高寺には山門がないようで、また駐車場も見当たりません。こんな所で駐禁を切られる訳ないかと路駐し、お寺とは思えぬ狭い入口を進んで行くと、入口前の様相とは裏腹に、中に入っていくと切通しが素敵な参道が続いていました。そしてやがて本堂に到着します。

入口から続く切通し
切通し丘陵壁面
本堂
境内

夢窓疎石座禅窟・金毛窟


本堂の横に金毛窟の案内板があったので本堂の裏へと向かい、一段高い細長い平場の向こうにさらに丘陵を上って行く道筋が見えます。まさかちょっとしたハイキングコース的な感じで裏山を行けるのかと思いワクワクしてきました。

裏山へ続く坂道
太高寺は3段のひな壇状地形

ワクワクしたのも束の間、角を曲がるとやぐららしき横穴がすぐに見えてきます。夢想国師の金毛窟に「あっ」という間に到着です。それにしてもこちら太高寺のやぐら、些細なことですが、鎌倉のものとはもちろん、安房地方のものとも少し雰囲気が異なります。これが上総地方の特色なんでしょうか、ちょっと簡素すぎる気が・・。

太高寺やぐら
太高寺丘陵壁面

「金毛窟はどちらでしょう」とやぐら群を見渡すと案内板付きの横穴がありました。かなり風化が進んだのでしょう、なんと、残念なことにコンクリート舗装されてしまっています。

金毛窟

古墳時代末期横穴墓のアーチ型のように壁に対して天井が持ち上がるように広がっているのが画像からもわかると思います。やはり通常の横穴とは異なります。

金毛窟

窟内には卵塔と中世のものらしき石塔残欠、そして側面には明確に文字が刻まれています。

卵塔と卵塔の隙間にわずかな石塔残欠
金毛窟壁面側面

こちら上下どちらの画像とも壁面に刻まれた文字が「金毛窟」ではないことは明らかです。そして壁面上部に造作がみられます。案内板に「天井板をはめ込む造作」とあったのでこのことかもしれません。一般的なやぐらにはないとても興味深い造作だと思います。

金毛窟壁面側面

肝心の夢想国師が刻んだと云われる「金毛窟」の文字はというと、こちら下画像の壁面です。でもこの画像じゃわからないですよね、現地でも「金毛窟」という文字があると知っているからこそなんとか読めた感じです。右から「金毛窟」と刻まれていて、特に「金」の」文字はわかっていても読み取れませんでした。

金毛窟と刻まれた壁面

さてこれが本当に夢窓国師の刻んだ文字なのでしょうか。あまりにもその文字が明瞭だったりすれば、それはそれでまた怪しく感じてしまいますからね、これくらいがホンモノっぽくて丁度よいのかもしれません。

退耕庵跡


上記した『夷隅郡史』にある金毛窟の項には続きがあって、「ここより約四五町に御庵と名くる地あり、之れ国師の御庵の地たりしか又道場・小御館・殿屋敷等と稱する地あり」とあります。つまり太高寺の近くに御庵・道場・小御館・殿屋敷という字名が伝わっているとのことです。もちろん夢想国師と関係があるのかは不確かです。

金毛窟から見えた景色

また「退き耕すといふに能く實るとは縁語なり」ともあり、太高寺のある能実という地名は国師の名付けた退耕庵と関係があることを示唆しています。

金毛窟から見えた景色

そもそも金毛窟の金毛とはどういう意味なのでしょう。夢窓国師のことをもっと深く調べればわかるのでしょうか、禅の勉強をすればわかるのでしょうか、ひとまずここから見える畑の色が金色にも見えなくもありませんが、そんな単純なことではないはずです。そこでちょっと調べてみたところ、少林山達磨寺というお寺のHPに「金毛獅子」という禅のお言葉がありました。以下引用。


少林山達磨寺・禅語を味わう「金毛獅子」より
昔から禅宗では獅子の吼える姿を仏陀や禅の高僧の説法になぞらえる。獅子は百獣の王である。その獅子の中の獅子であり、獅子の王が「金毛の獅子」だ。あなたは金毛の獅子の説法を聞きたいか?だったら、まずあなた自身が禅を修行して、それを聞くことができるだけの器量をそなえることが不可欠だ。やがてあなたは、身近に「金毛の獅子」がいたことに気づくだろう。



夢窓国師がこのような考えで金毛と名付けたかどうかはわかりませんが、イイ話ですね。ということで参考にまで。

太高寺境内 最後の一個
太高寺からの景色

瑞泉寺の素晴らしい構造と造作のイメージから、夢窓国師が庵を結んだ場所もきっと格段に優雅な場所なのだろうと勝手に想像していましたが、周囲は予想を遥かに裏切る田畑ばかりの景観でした。ここで気付きましたが、「弘法筆を選ばず」ではありませんが、国師ほどの人なら修行の場はこうじゃなきゃいけないなんてことはなかったのでしょう。隠れる場所さえあれば国師は自身の修行に勤しんでいたのだとこの地に来て思いました。そういえば円成尼(北条高時の母)にも「修行する山がなければ自分なりの山を探せばいいじゃん」と言っていましたね。

それでは帰ります ありがとうございました

参考資料

〇『夷隅郡史』
〇現地案内板(いすみ市教育委員会)
〇少林山達磨寺HP

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