2018年12月2日日曜日

和田義盛の伊北館を探せ!


千葉県の長生郡といすみ市で史跡をめぐりをしてきました。その帰り道、大多喜町に差し掛かったところで、街並みが江戸時代のような建物が並ぶ素敵な景観となっていたので思わず立ち止まり街道沿いにある建物を見学したり大多喜城跡などにも寄ってきました。天守閣跡にある博物館の見学などを一通り済ませて帰ってきたところ、今さらながら大多喜町は吾妻鏡にも記されている和田義盛の伊北館があったところだということを思い出しました・・。完全に後の祭り状態ですがしかしその後に和田義盛の伊北館にも言及している夷隅郡史という大正時代に編纂された資料を見つけたので、今回はその大多喜町と大多喜城を交えて和田義盛の伊北館を検証してみたいと思います。

Google map 大多喜城跡


和田義盛と伊北庄


『吾妻鏡』健保元年(1213)3月8日条に和田義盛が伊北庄から鎌倉に出向いている様子が記されています。したがって晩年の義盛が伊北庄に屋敷または拠点を構えていたことがうかがえます。この伊北庄にあったと云われる義盛の館地の詳細は今のところ不明です。三浦氏や三浦半島に詳しい鈴木かほる氏の著書においても「大多喜町にあった」としか記されていません。

大多喜城跡からの景色

伊北庄とは上総国夷隅郡にあった夷隅荘の北部地域を指し、南部を伊南庄と云います。厳密な範囲を断定できませんが、伊北庄は大多喜町を中心とし、伊南庄は御宿町を含む地域だったと考えられています。また伊北氏や伊南氏といった一族の名が資料等に見えますが、基本的には上総氏の一族だと思われます。

Google map 房総半島
①大多喜町 ②御宿町



往時の上総国夷隅郡


和田義盛が上総国夷隅郡にいたと云われてもあまりピンときませんよね、実際にも吾妻鏡を読んだとき「何でそんなところに?」というのが個人的な第一印象でした。しかも大多喜町という内陸方面に所在する土地柄に、この時代の権力者であれば港を必要とするのではないかという疑問が生じます。そこで地理院地図でこの辺りを見ると、どうでしょう、かなり低地が広がっていることがわかります。

地理院地図 大多喜

あまり勝手なことは言えませんが、中世までは久里浜から佐原まで入江となっていたこと、金沢八景駅の辺りが岬だったことなどからも、このいすみ市・夷隅郡周辺も当時では海が入り込んでいた可能性が考えられます。また内陸から大多喜町に沿い太東崎へと夷隅川が流れています。少なくとも大多喜城跡の辺りから太東崎の外房へ連なる水運があったことは確かだと思われます。実際にも夷隅川流域には船子・船岡などの地名がみられ、さらに横宿・市場など、どこか賑やかだった雰囲気を伝える地名まで確認できます。



大多喜町と大多喜城跡


和田義盛が晩年にいた伊北庄の中心地でもある大多喜町と大多喜城を見てみましょう。大多喜町は徳川家康の四天王の一人・本田忠勝が築城した大多喜城の城下町として開発されました。現在の大多喜町はそうした近世の名残りが随所でみられ、風情のある建物が残されています。

江戸末期の商家 渡辺家住宅
大多喜町久保町通り

大多喜城跡は城跡としての痕跡を所々で残すものの、ほぼ公園と言っていいでしょう。天守閣跡に博物館などの設備があります。

大多喜城跡博物館
大多喜城跡博物館内部 ※館内は撮影禁止です
大井戸



伊保館 中川村引田説


さて、和田義盛のいた伊北庄・大多喜町の大体の概要がわかったところで『夷隅郡史』にある義盛の伊北館を検証してみましょう。とその前に、同書は大正13年に編纂されたこともあって、厳密には現代語とは言い難く、また旧字も多く読み取りづらいため100%正確には理解していないことを予めご了承ください。それでは同書にある伊保館(伊北館の当て字違い)址の項から引用します。(■は判読不明もしくはIMEパッドでも変換されない旧字)


夷隅郡史・伊保館址項より
中川村引田の北部字峯と称する高丘あり、丘上兵站にして周囲に■跡を在す。此の地もと伊保と称せりと。今猶上宿宿下宿の名を在す。或曰く之れ和田義盛の居りし伊保館のありし所なりと。上総国史は大多喜を以て東鑑謂ふ所の伊保館とす。蓋しこの■然るが如し。案ずるに此の地大多喜を去ること僅か一里ばかり。故に当時両地に來住して政治を執りしものか。

地理院地図 中川村引田

夷隅郡史の云うように大多喜から一里(4km)ばかりの所にいすみ鉄道の上総中川駅があって、近くに引田という字名がみえます。また後述しますが「弥正の隣村」という記述がみえるので、夷隅郡史の云う引田とはここで間違いないと思われます。そして上宿宿下宿が見当たりませんが、上町中町下町なるエリアが存在します。このことでしょうか。夷隅郡史によればこの辺りが伊保であり、また和田義盛の拠していた場所だということです。また大多喜城跡のある辺りが和田義盛の伊北館だと上総国史は伝えるともあります。



伊保館 大多喜城説


上記したように、同書では『上総国史』からの引用で大多喜町に伊保館のあったことを紹介していましたが、また『房総志科』の引用からこちらも同じような説を紹介しています。以下。

夷隅郡史・伊保館址項より
伊保城跡は引田天王山の続き、山上■にして廻りに築地の跡在せり、諸家大瀧城を伊北館なりと云ふ今案ずる古來より此處を伊保と云ふ、人家のあるところを伊保の宿と云ふ。

大多喜城跡から眺め
丘陵自体の標高は高くないが右下に夷隅川が流れていて比高差がある

房総志科にある大多喜城が伊保館だとする説ですが、伊保城という城郭と伊北館を別々に紹介しています。引田天王山の所在地が不明であるものの、これは上の項にあった中川村引田の引田でしょうか。となると、引田にある痕跡はあくまでも伊保城であり、和田義盛の伊北館は大多喜城にあったと説明していることになります。また大多喜城の辺りを伊保と云うともあります。


大多喜の城郭


ここで大多喜の歴史に触れてみましょう。本田忠勝が大多喜城に入城する以前は正木氏がこの地を領していました。さらにその前には真里谷氏、もしくは真里谷武田氏、上総武田氏と呼ばれる武田一族がこの地を支配していました。簡単に大多喜城の歴史を振り返ると、大多喜城の歴代城主が変わっただけのように思えてしまいますが、話はそんなに簡単ではありません。

地理院地図 大多喜町
①大多喜城 ②栗山城 ③根古屋城

そもそも大多喜城(上画像①)は本田忠勝が築城したものであり、真里谷氏は③根古屋城という城郭を構えていました。またその後の正木氏が不確かで、そのまま根古屋を城郭としたのかもしれませんが、②栗山城という正体不明の城郭が残されている点も見逃せません。

大多喜城跡

大多喜城は夷隅川が天然の水堀となり丘陵の比高差からも往時では防御面においては万全に仕上げられていたことがわかります。和田義盛の時代にこれだけの規模の天然の要害は必要ないでしょう。義盛が大多喜町に拠していたとするならば、真里谷氏のいた根古屋が妥当な線かと思われます。


まさかの源頼光と渡辺綱が登場


夷隅郡史伊保館址項の続きに、興味深い記述があります。以下。

夷隅郡史・伊保館址項より
東鑑に「和田左衛門尉義盛在上総国夷北館頼光公の館なるべし、多田満仲之長男源頼光任摂津守」と云ふ事見ゆ。

なんと、和田義盛の伊北館とはそもそも源頼光が上総国司となったときの館跡であり、さらにそのことが吾妻鏡に記されているとのことです。まずは「吾妻鏡にそんな記述ありました?」という疑問が生じますが、それは置いといて話を進めましょう。源頼光が上総国に赴任した際、源次綱渡辺綱)も連れてきたとも記されており、さらに、隣村弥正にある滝口明神はこの渡辺綱を祀るものであって、実際にも周辺には渡辺姓が多いと記されています。つまり渡辺綱の御落胤がこの地に存在したようです。

Google map 滝口神社

滝口明神(神社)を検索すると、いすみ市から勝浦市にかけた地域に三社を見つけることができます。がしかし、大多喜町周辺にはありません。そこで引田・弥正の辺りを地図上で探していると、ありました!滝口神社。上記した夷隅郡史の記述「中川村引田の北部字峯と称する高丘あり」に該当するかのような位置にあります。それにしても、この社が検索に引っかからないということは、外部からの参拝者もない規模の小さい神社だからでしょうか。

渡辺家住宅

上でも紹介したこちら上画像の古民家は、城下町の久保町通りにある渡辺家住宅と云って嘉禄二年(1849)に建てられた商家です。そう、渡辺さんです。中川村出身の渡辺綱の末裔の渡辺さんだったら面白いですね。ちなみに渡辺綱は鬼退治で知られているのでご存じの方も多いと思います。金太郎でお馴染みの坂田金時と同じく源頼光の四天王の一人です。

渡辺綱の鬼退治

内裏の警護にあたっていた武士を滝口、もしくは滝口武者と云います。そう言われると渡辺綱も滝口だったのかもしれません。だから滝口明神でしょうか。また夷隅郡史は最後に「伊保の里に住吉社あり証拠となるべきか」と締めくくっています。なぜ住吉社が証拠となるのかがよくわかりません、謎です。


伊保の怪しい地名


ということで、大多喜町周辺には和田義盛だけでなく、なんと、源頼光や渡辺綱まで来ていたという壮大な歴史が隠されていました。ちなみに源頼光が本当に上総に下向してきたのかどうかは一般的には定かではないようです。但し、関東一円に広がった坂東平氏の究極の祖とも云える高望王も上総介に任官しこの地に訪れています。なんだか凄い土地柄のように思えてきます、上総国。

地理院地図 夷隅郡

この辺りの地図を見ていると興味深い地名がいくつかみられます。まずは国府台。市川の国府台や小田原の国府津などはそこに国府があったからこその地名であることは周知の事実です。上総の国府があった場所は今のところ市原だと考えられています。なぜここに国府台という地名があるのでしょうか。また須賀谷吹良といった鉄に関するであろう地名がみられます。和田義盛の時代に関係があるのかはわかりませんが、怪しいですね、武器製造庫だったのかもしれません。とにかくこの土地にとてつもない歴史と秘密が隠されているような気がしてなりません。

須賀谷から吹良にかけての地域
田畑の風景が延々と続く


まとめ


ということで、夷隅郡史にある和田義盛の伊北館跡を検証してみましたが、結局のところ、伊北館のあった場所は大多喜町なのか、もしくは大多喜町から一里ばかり離れた中川村なのか、断定はできませんが、夷隅郡史にあるように両地とも何かしら関連があるとしておくのが無難でしょうか。またそれよりも何よりも、和田義盛が、義盛ほどの大物が、代官を派遣せずに自らこの地に訪れていることも注目すべき点ではないでしょうか。この地に彼は何を求めて来たのでしょうか。

この日の海ほたるからの景色

三浦・三崎から房総半島を眺めたとき、泳いでいけるんじゃないかというぐらい房総半島を近くに思えましたが、アクアライン・海ほたるから東京湾を眺めると、その距離が怖いほど広大なことがわかります。義盛は伊北庄からどうやって鎌倉に行ったのでしょう。外房から直接船で行けたのでしょうか、それとも陸路で鋸南町や富津まで向かい船で渡ったのでしょうか。『吾妻鏡』健保元年(1213)にある記事を最後に、和田義盛が伊北館に戻ることは二度とありませんでした。


参考資料
〇『夷隅郡史』
〇ちば見聞録



史跡住所  〒298-0216 千葉県夷隅郡大多喜町大多喜481
カテゴリー 探索記事(房総・上総で鎌倉遺構探索)
記事作成  2018年12月2日

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