〈安東千手院〉やぐら群
千葉県館山市にある往時では安東郷と呼称されていた地域及び周辺に向かってみました。この辺りは「鎌倉か!」とツッコミたくなる程やぐらが群集しています。そしてなかでも安養寺の境外堂でもあり”やぐら”そのものがお堂だという館山市安東の千手院をクローズアップしてみました。
基本情報
名称 :安東千手院やぐら所在地:安養寺境外堂千手院
分類 :やぐら
用途 :礼拝所・祈願所
住所 :千葉県館山市安東504
料金 :なし
駐車場:なし
安東郷
下地図画像で示した大よその範囲が往時でいうところの安東郷内となります。安東という地名は安房の東側に位置することからその名が由来すると云われています。そして上記したように、安東郷周辺ではやぐらが多くみられます。下地図画像に印した大よそのポイントでやぐらが確認できます。
Google map 安東郷 ①高田寺 ②熊野神社 ③蓮蔵寺 ④千手院 ⑤水岡やぐら ⑥紫雲寺 ⑦熊野神社 ⑧覚性院 ⑨南台地蔵堂 |
館山市街地周辺では中世において瑞泉寺・円覚寺・鶴岡八幡宮寺・極楽寺などに寄進された寺院領が多く存在したことから、鎌倉寺院の影響を受け、やぐらという葬送文化が伝えられたと考えられています。ここ安東郷はまさにそれら寺院領が近接する地域であり、特にこの辺りでは覚性院のある宝貝が極楽寺の宝塔院領となっていました。
安東又三郎と安東氏
応永30年(1423)の『鎌倉御所持氏御教書』(極楽寺文書)に「安東郷内朴谷村安東又三郎跡事」という記述がみられます。このことから安東郷朴谷村が安東又三郎なる人物の旧跡だったということがわかります。
吾妻鏡にて安東氏をピックアップしてみると、奥州合戦にて敵地攻略に貢献した三沢安藤四郎などの安藤氏、北条氏被官の安東次郎忠家や安東藤内左衛門尉光成などの安東氏が挙げられます。特に新左衛門尉とも呼ばれる安東藤内左衛門尉光成は北条泰時の側近中の側近で、泰時邸内に居住し、山内道(巨福呂坂)の整備を監督したり、泰時の代理として京都に赴いている様子が吾妻鏡に記されています。
しかしながら、同じ安東氏でも忠家は平姓安東氏、光成は藤原姓安東氏に分類されるようなので、三沢安藤氏やさらには蝦夷沙汰職に就いた安藤氏なども含めると、安房の安東氏は一体どの系譜に所属するのかという点において、それなりの証拠や論拠を持って言及する資料を見つけることはできませんでした。
稲村城から見た安東郷方面 |
上記した極楽寺文書にある安東又三郎との関係は不明ではあるものの、里見氏家臣団に安藤松斎・安藤時則なる人物の名を確認できます。15世紀後半から里見氏が白浜を起点に安房国を侵攻していきますが、安西氏・真田氏などの在地領主がほぼ配下となっていることからも、安東氏も一族の一部が里見氏に従った可能性は十分に考えられるのではないでしょうか。
安東郷朴谷村安東又三郎跡
ということで極楽寺文書にある安東又三郎の旧跡安東郷朴谷村に行ってみたいと思ったので向かってみました。安東郷朴谷村は現在の宝貝に比定されています。上画像でも印した極楽寺宝塔院領で覚性院のある谷戸です。またその極楽寺文書には続きがあって安東郷朴谷村を真田刑部左衛門尉が押領していたとあります。正文寺の記事でも紹介しましたが、三浦一族の真田氏が鎌倉時代の比較的早い時期にこちら房総の地に渡海してきていたようです。
宝貝の熊野神社 |
安東郷朴谷村こと宝貝は丘陵に囲まれた奥まった谷戸にあります。古めかしい趣きのある熊野神社を奥に行くと覚性院があってその丘陵部にやぐらが施されており各種石造物が置かれていました。
覚性院 |
覚性院やぐら |
覚性院やぐら |
お寺の敷地以外にも横穴を遠目から確認することができます。がしかし、ちょっとこの辺りはまさに集落といった感じなので、他所者がウロウロするのは憚れる気がします。ということで以上、簡単ではありますが安東又三郎の旧跡・宝貝でした。
宝貝 |
千手院
それでは千手院に行ってみます。上記したように千手院といってもお堂などの伽藍がある訳ではありません。やぐらそのものがお堂となる云わゆる岩屋・窟堂などと呼称されるタイプのものです。下画像の向こうに見える格子のある木扉が取り付けられたやぐらが千手院です。
千手院 |
現地案内板によれば、石造地蔵菩薩坐像は文和二年(1353)の銘が刻まれ、祭壇上に掘り抜きの円座を作って安置されているとのこと。中には入れませんが格子から覗くことができます。やぐらとして考えるとかなり大きめなのでやはりこのやぐら自体がお堂であり千手院であるということが伝わってきます。
千手院やぐら内部 |
窟内中央最奥に一際丁重に祀られている石造物があります。これが現地案内板にあった文和二年(1353)の銘が刻まれた石造地蔵菩薩坐像でしょうか・・。
石造地蔵菩薩坐像? |
「んん?これって地蔵菩薩ではなくどう見ても千手観音じゃないの?」と気付いたのが帰ってからでした・・。その後調べてみると、館山市教育委員会の調査報告書に「本尊像である石造千手観音坐像」という記述がみられます。現地案内板があまりにも文和二年の地蔵菩薩を推してくるので、この格子から覗くことしかできない情報量の少なさからも、この中央に鎮座するのが文和二年の地蔵菩薩のことかと思ってしまいましたが、どうや違うようです。
窟内全体を写したひとつ上の画像の左側にあるのがその石造地蔵菩薩坐像のようです。風化が進んでいるようで詳細な様子はわかりません。一方でこの千手観音坐像の方には銘がないため厳密な制作時期がわかっていません。しかし前述の調査報告書には「やぐらの開削時、ずなわち14世紀中頃に当院の本尊像として造立・安置さたものと考えたい」とありました。
千手院やぐら |
千手観音坐像のある岩屋から連なる丘陵壁面には多くの石塔・石造物が並びそしてやぐらがいくつも施されています。また境内には日待供養塔というものもあるそうですが、どれがどれなのかよくわかりません。観音坐像と「日待之供養」「己亥八月日」という文字が刻まれているそうです。
日待とは、狭山市HPによれば「近隣の同信者がある特定の日に集まり、一夜を眠らないで籠もり明かし、日の出を待って太陽を拝むこと」だとありました。ですからここでは千手観音坐像のあるあの岩屋でお籠りが行われていたのかもしれません。
千手院やぐら群 |
浮彫のあるやぐら |
千手観音坐像のある岩屋のちょうど真上に高さ185cmの威風堂々とした関東型の宝篋印塔があります。館山市教育委員会の調査報告書に「地元では式部さまと呼んで参拝することが慣習となっており、このことはおそらく八省の一の式部職を名乗る安東氏の存在を伝承するものであろう」とありました。つまり、というかやはり、ここ千手院は安東氏の墳墓堂である可能性が高いようです。
式部さまこと千手院の宝篋印塔 |
その式部さまのある辺りから眺めた周辺の景色です。
千手院からの景色 |
千手院からの景色 |
式部さまに花を添えてみました |
安房郡安東郷にいた安東氏が結局のところどういう素性の一族なのかよくわかりませんでしたが、式部さまと呼ばれた人物が本当に安東氏なのであれば、式部職とは簡単に言うと文官のことなので、北条泰時の代理として京都に上るような光成の人物像とどこか雰囲気が重なるような気がします。つまり安房の安東氏も北条氏被官の一族だったのかもしれません。
安東郷は文和二年(1353)に足利尊氏が近江国の佐々木長綱に所領として与えたことがあり、それ以前は得行四郎入道(足利直義の被官)なる人物の所領であったことがわかっています。文和二年(1353)といえばあの現地案内板にあった石造地蔵菩薩坐像の銘と同じ年です。このとき安東氏は安東郷を奪われていたのでしょうか、困ったことに安東氏は調べれば調べるほどよくわからなくなってきます。
参考資料
〇川名登著『戦国大名里見氏の歴史』
〇たてやまフィールドミュージアム
〇館山市教育委員会『稲村城跡』
〇梶川貴子『得宗被官の歴史的性格』
1 件のコメント:
初めまして。
安東又三郎は、安東光成の三男の可能性がありますね。
原村
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