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明星山城春光寺と加茂坂

2018/12/23

館山市 寺院 城郭

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明星山城春光寺と加茂坂



弘治三年(1557)の那古寺鐘銘写に「薦野神五郎多々良平時盛」という名が確認されました。そう、この薦野(こもの)神五郎時盛なる人物こそ三浦多々良氏の末裔で房総の地にて里見氏の家臣団としてその名を連ねていた人物です。のちにこの時盛の娘が里見義弘の側室となり、そこで生まれた頼俊が外戚・御一門として薦野神五郎を継ぎ2524石の知行地を与えられ、館山の竹原・田村にある明星山城に拠していました。

ということで、今回はその三浦多々良氏の末裔で薦野神五郎頼俊の居城・明星山城跡とその周辺を訪れてきました。

明星山城春光寺

名称 :春光寺
住所 :千葉県館山市竹原307


明星山城周辺


里見氏改易後、薦野神五郎頼俊の居城・明星山城跡に北条藩主の屋代忠正が妻の昌泉院の供養のため承応三年(1654)に春光寺を建立しました。ですから春光寺イコール明星山城となります。そして当時、加茂坂という内房と外房を東西に往来する幹線道路が通っていたので、明星山城はその加茂坂を押さえるための城郭だったと考えられています。そして加茂坂から続く道が松葉堂前を通っていたということなので、松葉堂・日枝神社の辺りが加茂坂の西側延長線かと思われます。また相賀堂は薦野氏に関係する可能性が高いようです。

Google map 館山市竹原
①日枝神社 ②松葉堂 ③加茂坂 ④相賀堂 ⑤春光寺(明星山城跡) ⑥光堂
明星山城のある竹原周辺は一面畑地

日枝神社(上地図画像①)はもとは今宮山王権現と云い、里見氏が稲村城の鬼門守護のために移してきたと云われています。この日枝神社の近くに駒止め地蔵という岩屋があって中に石像仏が祀られています。連なる丘陵壁面にはやぐらのような横穴も確認できました。神社前の直線道路が馬場であったことから”駒止め”と名付けられたのだと思われます。

日枝神社の駒止め地蔵

こちら下画像は相賀地蔵堂(上地図画像④)にある木造地蔵菩薩立像で鎌倉中期の作品と云われています。慶派の作風がみられ、またここ相賀地蔵堂は薦野氏との関係が伝えられています。薦野氏と関係があり鎌倉中期の仏像ということは、多々良氏時代から伝えられてきたものでしょうか。画像だと小さく感じるかもしれませんが1mぐらいあるんですよ。

相賀木造地蔵菩薩立像

こちら下画像は光堂(上地図画像⑥)に残された弘治年間(1555~1558)の銘があるものを含む石塔・宝篋印塔残欠です。搭身に仏像の浮彫が施されている珍しいタイプで個人的には初めて見ました。完形がどうなっているのか気になるところです。こちらの光堂も詳しい縁起はわかりませんが、里見氏時代に正木時茂の家臣・吉田下野守が関わったことがわかっています。

光堂境内に残された石塔・宝篋印塔残欠

加茂坂


それでは、薦野神五郎が押さえていた往時の館山市街地を東西に往来する幹線道路となる加茂坂に向かってみました。このとき思いましたが、館山及び南総での旧態地形が残されているイメージから、こちらでなら旧道・古道などの遺構も多く残存しているのだろうと勝手に思っていましたが、三浦半島などと同じく旧態地形ではあるもののほぼ田畑として開発されてしまうため、意外にこうした切通し路を目にすることがありませんでした。鎌倉市のように行政が率先して守らないとこういう遺構は失くなってしまうんでしょうね。

加茂坂
加茂坂

しばらく素敵な切通し路が続くと、何とも言えぬ怪しい地形が現れました。帯曲輪状に、そして半円状に尾根道幅程度の平場が段々に続いています。鎌倉の場合、石切り場跡・登頂路跡、そして大当たりの場合は寺院跡などの可能性も考えられますが、こちらではどうなんでしょうね。

怪しい地形

またしばらく進むと今度は石造物が現れました。文字が刻まれていますがほとんど見えません。唯一「道」という字だけが確認できたので、これは館山フィールドミュージアムにあった「天明三年(1783年)の道標があり、「是より右 那古道/是より左 清澄道」とある」という記述が示す石造物かと思われます。那古は那古寺、清澄は日蓮宗大本山の清澄寺の辺りのことなので、この道は本当に内房から外房まで続く幹線道路だったということがわかりました。しかもこれをわざわざ横穴に収納しているところがオシャレです。

18世紀の道標

その後、信じられないことに民家が現れ、付近には井戸跡などの痕跡がみられました。朝比奈切通にお茶屋さんがあったと云われているのでこちらもそうした名残りなのだろうかと想像が膨らみます。道はこの辺りから藪に閉ざされていたので引き返すことにしました。加茂坂と言われるくらいですから、少なくとも加茂神社のある日運寺の近くまで行けるはずだと思いますが、今回は遠慮しておきます。

加茂坂入口を見守っているお地蔵さん

明星山城跡春光寺


それでは、周辺の雰囲気が掴めたところで今回のメインイベントとなる薦野神五郎の明星山城跡こと春光寺に向かってみます。下画像はその明星山城の外観です。丘陵としても大して高くありませんし、何か凝った造作を施している雰囲気もありません。

明星山城

春光寺に到着。なんと、本堂は周辺より一段高い場所にあって、そして本堂脇からさらに丘陵を登って行けるような造作が確認できます。これは明星山城の名残りでしょうか、期待が膨らみます。

本堂の左に登頂路がある

本堂から丘陵を登っていくと結構な広さの平場となっており近世の墓塔が並べられています。よ~く見ると中世のものらしき石塔も確認できます。

丘陵頂部平場

さらにこの平場から北側もしくは東側に一段低い平場がまた造成されていて、そこから景色を望めます。加茂坂の延長線沿いにあったという松葉堂付近が視界に入るので、やはり、この城山は加茂坂を押さえるための役割を担っていたという説に納得がいきます。

明星山城からの眺め

この一段低い平場からさらに東側に下りていくと今度は切通しが施されています。この丘陵を南北に移動するための通路です。一概に城郭とは言い難いので、いつの時代の造作なのか気になるところです。

切通し

そしてなんと、やぐらがありますよ!しかも安房地方お得意の階段造作が付属するタイプのものです。周囲にもやぐら、もしくはやぐらだったのであろう丘陵壁面造作が確認できます。

春光寺やぐら階段付き造作
春光寺丘陵壁面造作

ということで、下地図画像はこの時点で把握できた明星山城の縄張り図、と言うと大げさなので見取り図です。今回、聖地巡礼感覚で三浦多々良氏の旧跡に訪れることができればそれでいいと期待値を大幅に下げていたこともあったため、平場や切通しなどの造作があったことに驚いてしまいました。これらは春光寺としての造作もあるかとは思いますが、基本的には明星山城の地形を基礎として利用しているように思えます。

国土地理院の地理院地図 明星山城
①春光寺 ②平場 ③平場 ④切通し ⑤やぐら

そしてなんといっても、北条藩主に建立されたはずの寺院にやぐらがありました。館山地方では17世紀の江戸時代でもやぐらが造営されていたとも考えられますが、境内に残る中世のものらしき石塔残欠からも、もしかしたら、春光寺には前身となる寺院があったのではないかと思わずにはいられません。

春光寺からの景色

三浦多々良氏の祖を四郎義春と云い、またその嫡男を三郎重春と云います。このことからも初期三浦多々良氏の通字・諱が「春」だということがわかります。そして春光寺の寺号にその「春」が使用されています。さすがにここまでくると偶然だとは思いますが、気になったので一応ここに記しておきます。

春光寺のお地蔵さま

多々良氏祖の義春や重春の時代に石井という名の郎従が確認できます。浦賀・観音崎の辺りでは義春に従っていた石井兄弟が海賊と奮戦していたエピソードなどが『三浦こども風土記』に記されています。一方で里見氏家臣団に石井駿河守などといった石井の名を複数確認することができます。この石井駿河守が平安末期から多々良氏に従っていた石井氏の末裔だとは言いませんが、もしかしたら、数百年の時を超えても三浦多々良氏と行動を共にしていたのであればとても興味深いと思いました。でも石井って苗字意外と多いですよね。

その後の薦野神五郎頼俊


慶長19年(1614)に里見氏は徳川家康に国替えという実質上の改易を言い渡され、館山城の明け渡しを要求されます。薦野神五郎頼俊はこれに抵抗し討ち死にしたと云われています。そして子孫が水戸家に仕え里見と称した、またそのまま館山真倉に住んだ者もいたなどの記録が伝えられています。

明星山城近くの用水路沿い こんな寒いのにまだ花が咲いてる

参考資料


〇鈴木かほる著『相模三浦一族とその周辺史』
〇川名登著『戦国大名里見氏の歴史』
〇たてやまフィールドミュージアム

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