2019年1月9日水曜日

中世安房国の勢力図と三浦一族


今回は房総半島の旧安房国圏内(南房総市・館山市・鋸南町・一部を除く鴨川市)を中心に、安房国における在地領主らの勢力の移り変わりと三浦一族の痕跡をまとめてみました。


安房国


安房国は平北郡(鋸南町、旧富山町、旧富浦町、旧三芳村の滝田・国府地区、館山市船形・那古)、安房郡(那古・船形を除く館山市、旧三芳村の稲都、白浜町の長尾)、朝夷郡(白浜町の白浜、旧千倉町、旧丸山町、旧和田町、鴨川市の江見)、長狭郡(旧天津小湊町と江見を除いた鴨川市)の四郡で構成されていました。

Google map 安房国

平北郡は平安末期における呼び名で、元々は平群郡と呼ばれており、さらに鎌倉期では北郡と呼称されていました。今回のテーマが平安末期から始まるのでこの記事では平北郡の名で統一します。それでは、安房国の四郡を地域別に簡潔にまとめてみました。


平北郡
平北郡の鋸南町・旧富山町が三浦氏(三浦義澄・大河戸重澄)、旧富浦町に三浦多々良氏、旧三芳村の滝田・国府と館山市の船形・那古が安西氏の所領でした。その後、三浦宗家が滅ぶと、二階堂氏、そして時房流(大仏)北条氏被官の本間氏が周辺を治めていたと云われています。

那古山から眺めた館山市街地と鏡ヶ浦(館山湾)
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南総の西海岸に位置した平北郡は房総半島を代表する史跡・日本寺から南は館山市に差し掛かった辺りまでが大よその範囲となります。大福寺や那古寺などの鏡ヶ浦(館山湾)を北側から望むことのできる名勝地に、里見系城郭の岡本城跡や滝田城跡などが所在しています。また鋸南町下佐久間にある二階堂氏の開創と伝わる天寧寺や、御家人の千葉八郎胤時の名が願主として刻まれた那古寺の銅造千手観音菩薩立像など、伝えられている歴史を証明するかのような史跡が残されています。



安房郡
平北郡にも安房郡にも属する旧三芳村の辺りを当時では群房荘と云い、安西氏の拠点とされています。そして館山市沼に沼氏、館山市安東に安東氏、館山市神余に神余(金摩利)氏がそれぞれ勢力を広げていたと云われています。

館山城から眺めた沼
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現在の地名でいう館山市が大よそ安房郡となります。館山城跡や洲崎神社などの海岸線寄りの有名な史跡をはじめ、館山が現在も南総の中心であるように、安房国分寺跡や安房国一之宮などが所在しています。また小網寺や千手院など内陸部寄りには鎌倉寺社の影響を受けやぐらの造営された寺院が多くみられます。



朝夷郡
朝夷郡は三浦氏という観点からすると、朝夷(朝比奈)三郎義秀の生まれ育った土地だと云われているので、旧千倉町・旧和田町などが和田義盛もしくは三浦氏の所領だったのではないかと考えられています。また旧丸山町には丸氏がいました。さらに15世紀では真田氏(佐奈田与一の系統)の名が資料に現れます。

日運寺から眺めた朝夷郡
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南総の東海岸に位置する朝夷郡は現在も山稜と海岸に挟まれた自然豊かな土地柄で、場所によっては緑と青だけで視界の全てが覆われるという古絵図のような素敵な景色が広がっています。また館山市寄りには真野寺や小松寺など中世以前から存在する古刹が所在しています。



長狭郡
長狭郡は三浦義澄が長狭氏を滅ぼしていること、そして政子安産祈願のための奉幣使として三浦平六義村が天津神明神社に向かっていることなどから、長狭郡に三浦宗家の所領があったと考えられています。実際にも吾妻鏡の記述から、宝治合戦では三浦泰村が長狭郡から武器を取り寄せていたことがわかっています。その後は北条氏被官の工藤氏・東条氏らがこの地を治めたと云われています。

長狭郡にある大山千枚田
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現在の地名でいう鴨川市が大よそ長狭郡となります。有名な鴨川シーワールドのおかげで海の印象が強い鴨川市ではあるものの、日蓮宗大本山の清澄寺や、また内陸部寄りには大山不動尊など興味深い史跡が所在しています。



平安末期の安房国


次は時系列で地域とその在地勢力を見ていきましょう。まずは源頼朝の旗揚げ以前の平安末期の安房国です。平北郡と安房郡のどちらにも属する旧三芳村の辺りを当時では群房荘と云い、安西氏の拠点とされています。そして館山市街地の下部に沼氏神余(金摩利)氏、館山市の東側に安東氏、朝夷郡丸郷に丸氏、現在の鴨川市となる長狭郡に長狭氏が勢力を広げていたと云われています。長狭氏は安房国での最大の勢力でしたが治承の段階で三浦義澄に滅ぼされています。

Google map 安房国
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湯山学著『相模武士(2)』によれば、『平群系図』に平忠通(平良文の孫)の子孫として鎌倉党・三浦党と共に安西・安東・神余の名が記されているとあります。この記述からは、安西氏をはじめ安房国を拠点とする武士たちの多くが三浦氏・千葉氏・上総氏などと同じく坂東平氏ということになります。


鎌倉前期の安房国


鎌倉幕府が軌道に乗ると、三浦一族の安房国及び房総半島への進出が著しくなります。但し、源頼朝の旗上げ以前から三浦一族と長狭氏が争っていたので、房総半島にてそもそもが三浦一族の土地であった箇所も既にあったのかもしれません。朝夷郡は朝比奈(朝夷)三郎義秀の苗字の地なので、和田義盛もしくは三浦氏の所領だったと考えられています。そして長狭郡は三浦氏宗家、また三浦氏外戚の大河戸氏が平北郡の北部を治めていました。その他、大房岬の近くに多田良という字名が伝えられており、三浦多々良氏が拠していたと云われています。

Google map 安房国


鎌倉後期の安房国


和田義盛・三浦宗家など三浦一族の中核が北条氏に滅ぼされると、安房の多くが北条氏の所領となり、北条氏被官らの進出がみられます。平北郡北部で現在の鋸南町辺りに二階堂氏、平北郡南部に時房流(大仏)北条氏被官の本間氏、長狭郡には北条氏得宗家被官の工藤氏や重時流北条氏被官の東条氏の名がみえます。また、いすみ市の地誌に狩野氏の名がみられるので、この長狭郡に来た工藤氏から派生した一族かもしれません。

Google map 安房国
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安東郷の近くにある安房国分寺跡周辺では北条氏得宗家に限定して出土する平瓦などの遺物が発掘されています。現在の館山市街地周辺部が得宗家の所領だったことが想定されます。また安房国の安東氏との関係は不明ではあるものの、吾妻鏡に北条泰時の被官として安東藤内左衛門尉光成の名が記されています。安東氏の旧跡と得宗家の遺物出土地点が近接していることからも、安東郷の安東氏が得宗家被官の安東氏一族だったことの証しとなるのかもしれません。


房総半島に渡った三浦一族



真田氏
ここで房総半島に渡った三浦一族と関連する史跡を紹介してみたいと思います。まずはこちら、朝夷郡三原郷(南房総市和田町中三原)にある正木氏の菩提寺・正文寺は、もとは真田氏の菩提寺であったという伝承が残されています。真田氏、つまり佐奈田与一義忠の系統です。また応永三十年(1423)の『鎌倉御所持氏御教書』(極楽寺文書)に、安東郷朴谷村を真田刑部左衛門尉が押領していたという記録が残されています。つまり佐奈田与一義忠の系統がこの地に訪れ、さらに鎌倉期以降も在地領主として存続していたようです。

正文寺のやぐら
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薦野氏
弘治三年(1557)の那古寺鐘銘写に「薦野神五郎多々良平時盛」という名が確認されています。このことからもこの薦野(こもの)神五郎時盛なる人物こそ多々良氏の末裔と考えられています。この時盛の娘が里見義弘の室となり、そこで生まれた頼俊が薦野神五郎を継ぎ明星山城(現春光寺)に拠していたと云われています。

明星山城跡春光寺
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正木氏
里見氏配下の最大の勢力・正木氏は不明な点が多く、正木氏初代の時綱(通綱)の出自も三浦道寸義同の子、義同の孫、義同の弟の子など系図によって情報も様々です。また正木氏は東京湾を拠点とする内房正木氏と勝浦など東上総を拠点とする外房正木氏に大きく分類され、良くも悪くも里見氏の領国経営に大きな影響を与えていたようです。

内房正木氏の拠した造海城の特殊水堀造作
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佐久間氏
三浦家村の子孫が平北郡にて佐久間氏を称したと云われています。この家村とは三浦義村の子で吾妻鏡にある駿河四郎左衛門尉のことかと思われます。三浦宗家一族が滅ぼされた後もこの地に残っていられたのかわかりませんが、里見氏家臣団に、里見頼義の上総国亀山郷の代官で佐久間宗次郎、足軽小頭の佐久間五右衛門、百人衆の佐久間主計などの名を確認することができます。

鋸南町妙本寺前から眺めた東京湾

その他、それら人物の詳細は不明ながらも里見氏家臣団に、三浦下野守、三浦半右衛門、三浦半四郎、三浦平五、和田越前守、和田甚右衛門、和田甚九郎、朝夷平右衛門、朝比奈源介などの名がみえます。


その後の安房国


足利氏の時代になると、安房国は概ね公方足利氏の所領となり、上杉氏や足利氏の被官・代官がこの地を治めていきます。南北朝期の激しい争乱はもちろんここ安房国にも波及し、不安定な情勢が続いていたと思われます。そして15世紀頃から三浦氏の末裔と考えられる真田氏(佐奈田)・佐久間氏・薦野氏(多々良)・正木氏などの活動を確認することができます。また安西氏・丸氏といった平安末期からの在地勢力らが家を伝えていたようで、15世紀後半から17世紀まで安房国を掌握した里見氏の家臣としてその名を連ねていました。

Google map 安房国

そしてどういう経緯なのかわかりませんが、糟屋氏の名まで確認することができます。この糟谷氏が糟屋庄(伊勢原市)出身のあの糟谷氏であれば、一族は政村流北条氏の被官だったので、もしかしたら鎌倉期に既に安房国のどこかに代官として来ていたのかもしれません。

糟屋氏が再興した滝本堂本尊の千手観音菩薩立像
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その他の里見氏家臣団として、本間右衛門尉東条六兵衛といった北条氏被官の末裔らしき名と、平安末期からの在地勢力の末裔らしき沼佐右衛門神余喜平次といった名を確認することができます。鎌倉のような都市部と違い、安房国という地方都市であれば、一族の盛衰に関わらずそのまま在地することが可能だったのかもしれません。安房にいた一族、そして安房にやって来た一族の多くが後世にまでその名を伝えていました。

館山城にある八遺臣の墓
これら石塔は里見氏時代を遡る南北朝期のもの
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参考資料
〇川名登著『戦国大名里見氏の歴史』
〇湯山学著『相模武士(2)』
〇鈴木かほる著『相模三浦一族とその周辺史』
さとみのふるさと
たてやまフィールドミュージアム
安房文化遺産フォーラム



カテゴリー 鎌倉遺構探索事典
記事作成  2019年1月9日

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