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頼朝の安房国での行程

2019/02/03

源頼朝 千葉

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頼朝の安房国での行程



『吾妻鏡』によると、治承四年(1180)8月に石橋山での合戦に敗れた源頼朝は、真鶴から房総半島に渡海し、8月29日から9月13日までの間を安房国(鋸南町・館山市・南房総市・一部を除く鴨川市)で過ごしています。

洲崎神社や丸御厨などに立ち寄り上総国へと進んでいった様子でしたが、安房国の伝承には吾妻鏡には記されていないもっと多くの場所に頼朝が立ち寄っていたという逸話が伝えられています。ということで、今回は頼朝の安房国での足跡を検証してみたいと思います。

伝承をマッピング


下画像は吾妻鏡の記述にある頼朝の訪れた場所(赤抜き番号)と安房国各地に残る頼朝の伝承が残された地点及び通過点(青抜き番号)を印したものです。上記したように頼朝は2週間程度安房国にいたことになりますが、それでも、いくらなんでも、観光で訪れた訳ではないのでこれらが全て真実の記録とは考えられません。とは言っても吾妻鏡の記録が全てだとはこれまた言いきれないので、この中(青抜き番号)のどこかには本当に頼朝が訪れた場所があるのかもしれません。

Google map 安房
詳細は最下部にある Google map で確認できます

吾妻鏡の記述(上地図画像の番号赤抜き)
①猟島 ②安西景益屋敷(平松城と仮定) ③洲崎神社 ④丸御厨(丸本郷)

安房国各地の伝承(上地図画像の番号青抜き)
①江月 ②大崩 ③大山不動尊 ④嶺岡 ⑤伊予ヶ岳 ⑥犬掛 ⑦小浦の弁財天 ⑧増間 ⑨千代 ⑩那古寺 ⑪白浜町下立松原神社 ⑫頼朝の隠れ岩屋 ⑬千倉町下立松原神社 ⑭安馬谷 ⑮熊野神社・旗掛け松 ⑯仁右衛門島 ⑰白幡神社 ⑱貝渚 ⑲白旗神社 ⑳庤神社 ㉑八雲神社

伝承をカテゴライズ


吾妻鏡の記述を除くこれら安房国各地に伝わる頼朝伝説を大まかにカテゴライズしてみると、頼朝が岩屋などに隠れたとする①隠れ系、頼朝が旗を掛けたなどの②樹木系、頼朝が平家打倒や源家再興のための祈願に訪れたとされる③参詣系、そして微妙にカテゴライズしづらい④その他の4つに大別できると思います。真偽のほどは不確かながら安房国各地の広い範囲に伝承が分布しています。


①隠れ系

伊予ヶ岳の鳩穴、平松城の隠れ井戸、白浜の隠れ岩屋、仁右衛門島

頼朝が訪れたと云う白浜野島崎

②樹木系

犬掛の逆柿、洲崎神社の笠掛け松、熊野神社旗掛け松、待崎(松崎)旗掛け松

洲崎神社にある頼朝公笠掛け松の碑

③参詣系

小浦弁財天、那古寺、白浜町下立松原神社、千倉町下立松原神社、熊野神社、白幡神社、庤神社、八雲神社、大山不動尊

頼朝が訪れたと云う千倉町下立松原神社の旧跡社山

④その他

山田の楊枝井戸、増間の宿、千騎森、五十騎橋、数(かぞえ)田、安馬谷

安馬谷交差点
土地の人が頼朝に鞍馬を献上したことにその名が因むと云う安馬谷

吾妻鏡における源頼朝の安房国での行程


以下は吾妻鏡にある頼朝の安房国滞在時の記録をまとめたものです。吉川弘文館現代語訳吾妻鏡第一巻を参照しています。

8月27日
三浦義澄らが三浦から安房国へ出航
北条時政・岡崎義実らが土肥郷岩浦から安房国へ出航

8月28日
頼朝が土肥実平と共に真鶴崎から安房国に向けて出航

8月29日
頼朝が安房国平北郡猟島(鋸南町)に到着

9月1日
頼朝が安西景益に御書を送る

9月3日
頼朝が小山朝政・下河辺行平・豊島清元・葛西清重らに御書を送る
頼朝が上総広常の屋敷へ向かうため出発し、途中の民家に宿泊
三浦義澄が長狭常伴を討つ

9月4日
頼朝が安西景益の屋敷に向かう
和田義盛が上総広常の屋敷へ、安達盛長が千葉介常胤の屋敷へ向かう

9月5日
頼朝が洲崎明神(洲崎神社)に参詣

9月6日
和田義盛が上総広常の屋敷から帰参

9月8日
北条時政が甲斐国に出発

9月9日
安達盛長が千葉常胤の屋敷から帰参

9月11日
頼朝が丸御厨を巡検

9月12日
頼朝が洲崎宮(洲宮神社)へ寄進状を送る

9月13日
兵が300騎に達し頼朝らが安房から上総に向けて出発


ということで、吾妻鏡の記述にある、頼朝の訪れた場所をまとめると、①猟島(鋸南町)・②上総広常の屋敷に向かう途中にあった民家(位置不明)・③安西景益の屋敷(平松城と仮定)・④洲崎神社・⑤丸御厨となります。

上総広常と頼朝伝説


8月29日に安房国平北郡猟島に到着した頼朝がまず考えたことは、上総広常の屋敷に向かうことでした。房総半島最大の勢力にいち早く囲われるのが身の安全と考えたのでしょうか。しかしその上総広常が合流したのは遅れに遅れて頼朝らが9月19日に下総も隅田川に差し掛かった頃でした。そこで鴨川市にある八雲神社には頼朝が訪れたという伝承が残されています。そしてこの八雲神社と上総広常の屋敷の位置を把握するとその距離感がとても興味深いことがわかります。

Google map 安房国長狭郡
①上総国御宿 ②八雲神社

上総広常は御宿の辺りを拠点としていたと云われています。そこで八雲神社から外房線御宿駅の辺りまで国道128号線に沿って距離を計測すると大よそ18km、また広常の屋敷があったと伝わる造式まで行っても20km程です。個人的な見解として頼朝が鴨川の東海岸まで来ていたとは思えませんが、八雲神社の伝承が本当であれば、頼朝はとてつもないプレッシャーを広常にかけていたことになります。また実際にも鴨川にある松崎(待崎)という地名は頼朝が上総広常の参向を待っていたことにその名が因むと云われています。

上総広常の屋敷までの行路


『日本伝説業書 安房の巻』の説では、頼朝が上総広常の屋敷に向かうにあたり(下地図画像)①猟島を出て②江月・③大崩・④嶺岡を経て長狭郡(鴨川)の⑥貝渚にて宿泊したと説いています。また南房総市の市にまつわる民話では、その④嶺岡で頼朝が楊枝を池に挿すと清水が湧き出てきたという山田の楊枝井戸の伝承を紹介しています。吾妻鏡にある頼朝が上総広常の屋敷に向かう途中で宿泊した民家の位置詳細は不明ながら、猟島から上総広常の屋敷に向かうと長狭郡(鴨川)方面に進むことになるので、ひとまず井戸の話は置いといて、頼朝がこの辺りを通過していた可能性は十分に考えられるでしょう。

Google map 安房
①猟島 ②江月 ③大崩 ④嶺岡 ⑤増間 ⑥貝渚 ⑦大山不動尊 ⑧伊予ヶ岳 ⑨犬掛

増間は上の説とは別に頼朝が宿泊した地として単体で紹介されています。⑦大山不動尊は⑥貝渚から上総国に向かう途中で頼朝が寄ったとされています。そうすると、頼朝が身を隠したと云う鳩穴のある⑧伊予ヶ岳、頼朝が植えたという逆柿のある⑨犬掛の辺りも、ひとまず伝承は置いといて、頼朝が訪れたもしくは通過した場所である可能性が高いかもしれません。

頼朝が訪れたと云う大山不動尊
関連記事:『大山不動尊の謎と滝本観音

頼朝が訪れた洲崎神社


上記したように頼朝は9月5日に洲崎神社に参詣しました。洲崎神社は天太玉命(アメノフトダマノミコト)の后で天比理刀咩命(アメノヒリノヒメノミコト)を祀る忌部系の神社です。ちなみに頼朝は5日に洲崎明神(洲崎神社)に訪れ、神田を寄進する願文を奉納しましたが、12日に洲崎宮(洲宮神社)に寄進状を送っています。送り先を間違えたのかと思ってしまいますが、これは誤記ではなく、そもそも洲崎宮(洲宮神社)洲崎明神(洲崎神社)の奥宮として存在しているためであり、またこのことからも頼朝の時代から両社は一体とみなされていたことがわかります。

頼朝が訪れた洲崎神社
関連記事:『洲崎神社・養老寺

長狭常伴のような頼朝を狙う者が他にもいると安西景益が助言してきたような状況下で洲崎神社に行くのは距離的にも方向的にもあまり理解できませんが、頼朝が現代人の理解の範疇を越えた信心深いお方だったからと考えるべきでしょうか。

丸御厨と丸氏


9月11日に頼朝は丸信俊の案内で丸御厨を巡検しています。丸御厨は源義朝が頼朝の成就祈願のために伊勢神宮に寄進した荘園です。頼朝がここで感傷に浸っている様子が吾妻鏡の記述から伝わってきます。

頼朝が訪れた丸御厨(丸本郷安楽寺)
関連記事:『丸氏菩提寺・安楽寺

丸御厨の辺りを拠点とする丸氏と頼朝の伝承が南房総市の千代という所に残されています。丸信俊が50騎を率いて頼朝の御供に参じたことから、ちょうどそこにあった橋を五十騎橋と云うようになったそうです。

義経記


室町時代に編纂された『義経記』では、頼朝は猟島ではなく洲崎に着岸し、その夜のうちに滝口明神(白浜町下立松原神社)に参詣したと記されており、また頼朝が那古寺にも立ち寄っているとあるそうです。石橋山の合戦から数百年が経過したのちに記された義経記の作者はいったい何をもって吾妻鏡とは異なる説を記したのでしょうか。それとももし頼朝が洲崎に着岸したことが真実だとすれば、今度は逆に吾妻鏡が何かを隠すために猟島に着いたと嘘を記したことになってしまいます。

頼朝が訪れたと云う那古寺
関連記事:『那古寺・那古山

上総国へ


9月13日、頼朝は上総に向けて出発します。吾妻鏡には軍勢が300騎に達したとありますが、こちら安房の犬掛には千騎が集まったため千騎森と呼ばれる場所があります。随分と数が違いますが、当時の安房で300騎もの軍勢が集まればそれは千騎とも万騎とも思える程の壮観な景色だったのかもしれません。そして下画像は『日本伝説業書 安房の巻』にあった上総国での行路を印したものです。

Google map 上総
①大山不動尊 ②造海 ③佐貫 ④磯根崎 ⑤篠部 ⑥江川江尻

『日本伝説業書 安房の巻』の説によると、長狭郡(鴨川)の貝渚で上総広常との合流を諦めた頼朝は、そのまま北上せず西側に戻り大山不動尊に参詣し、竹岡・富津・木更津などの海岸線寄りを北上していったそうです。そのまま北上すれば上総国府のある市原となり、さらに下総となり、千葉氏の拠点であった千葉市と近接します。なるほど順当な行路かもしれませんね。

頼朝が通過したと云う造海の景色

まとめ


昨年に房総半島で鎌倉遺構探索をしてきたため今回のテーマに興味を持ちました。安房国各地に伝えられた頼朝伝説を検証しようと思いましたが、上記したように、笠や旗を松にかける、もしくは穴に隠れるといった真偽のほどを問うまでもない伝承が多く若干食傷気味となりました。最もどうでもいい頼朝伝説は、鋸南町の角のないサザエの話で、頼朝がサザエを踏みつけた痛さから、怒ってサザエの角をなくしてしまったという話でした。それって頼朝じゃなくてもいいじゃん・・と思わずにはいられませんでした。

鋸南町からの景色

興味深かったのは日本伝説業書にあった上総広常の屋敷への行路と上総国での行路でした。頼朝が実際に通ったのかどうかは別として、上記したあのルートは車もコンクリート舗装された道もない時代に、鋸南町から鴨川に向かうなら、または安房から下総に向かうならここを通るであろうという安房を知る人がシミレートした実在の古道・旧道かと思われます。そう考えると興味深いですよね。

実際にも自分で鋸南町から大山不動尊に向かう際、大山不動尊の北側を通る長狭街道(県道34号鴨川保田線)を通っていきましたが、日本伝説業書のルートは大山不動尊の南側を通る山道でした。つまりこのことからも長狭街道は新道、もしくは旧道であり、少なくとも古道ではないことがわかります。

大山千枚田

頼朝の手勢が千騎になったことから千騎森と名付けられた伝承を紹介しましたが、その他にも里見氏に関する千騎原千騎畠といった旧跡が安房には存在します。このことからも伝承が混同しているのではないかという疑惑も考えられます。しかも千騎森のある犬掛の地は里見氏の合戦があったことで知られています。

また丸氏の五十騎橋の辺りには、その丸氏が御供に加わったことから頼朝が手勢の数を調べたという数田の伝承もあります。丸氏は頼朝の時代から里見氏の時代まで生き残っていた在地領主です。この話が頼朝の時代ではなく里見時代の逸話だと指摘する人がいてもおかしくないように思われます。

その安房里見氏初代の義実も南総里見八犬伝では白浜から安房国を治めていくことになっていますが、それは房総の南端から北上していった忌部氏の伝説になぞらえているような気もします。

忌部氏上陸の伝承を持つ布良崎神社からの景色

これら伝承の質はどうであれ、これだけの頼朝伝説が安房国各地に広まっているのは、ある意味頼朝の人気のバロメーターとして捉えてもよいのではないでしょうか。考えてもみてください、ネットもテレビもない時代、日本国民が全員で共有できるアイドルなど存在しない時代、顔は知らなくとも名前は知っている源氏の貴種がオラが村にやって来る!なんてことになったら、それはそれで現在のアイドルとかそんなレベルではないぐらいの大騒ぎだったかもしれません。

また今回の安房での頼朝伝説を調べていて思いましたが、こうした伝承は真実味がないからといって懐疑の目を向けるだけでなく、騙されたと思って乗っかってみれば、上総広常屋敷の行路のように思わぬところで勉強になったりもします。他にもなぜこの場所に伝承があるのかといった視点で考えたりすればまた違う発見があるかもしれません。それが口承のような伝承を嗜む醍醐味なのかもしれません。

参考資料

〇五味文彦・本郷和人編『現代語訳吾妻鏡』
〇藤澤衛彦著『日本伝説業書 安房の巻』
南房総市HP(ホーム→行政情報→市の紹介→市にまるわる民話)
鴨川市HP(ホーム→観光→歴史・文学・文化財→歴史)
たてやまフィールドミュージアム

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