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中世武家屋敷跡めぐり 今泉堀之内・和田屋敷・上浜田遺跡

2019/11/04

海老名市 城郭 秦野市

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中世武家屋敷跡めぐり


中世武家屋敷跡めぐり 今泉堀之内・和田屋敷・上浜田遺跡

今回は秦野市と海老名市にある中世武家屋敷跡に訪れてみました。地味な史跡ながらも中世武家が館を構えるうえでの立地選定基準の理解を深めることができるのがポイントです。

Google map
①渋沢駅エリア ②秦野駅エリア ③海老名駅エリア

秦野市の武家屋敷跡


秦野駅周辺からは、堀之内という字名が伝えられる今泉の太岳院周辺と、和田屋敷・浄円寺に向かいます。そのまま丘陵部寄りに進むと震生湖があって渋沢丘陵のハイキングコースに繋がります。

Google map 秦野
①秦野駅 ②弘法水 ③太岳院 ④今泉湧水池 ⑤和田屋敷 ⑥浄円寺

今泉堀之内


渋沢のハイキングコースを歩き終わり、渋沢駅からお隣の秦野駅に移動しました。秦野市は湧水が豊富なことで有名です。いたるところにその湧水ポイントがあります。さっそく駅前からその湧水が汲み上げられていました。

秦野駅の秦野名水

駅から水無川沿いに出ると、建物の向こうに雄大な山稜の景色を望むことができます。建物の間から山が見えると、毎回、毎回、こうして見入ってしまいます。何故でしょう。山のないところで生まれ育った人間が、ビルの向こうに山などあるはずがないと思う既成概念が覆される違和感でしょうか。それとも人類の知恵の結晶(現代建築)も、山の存在感には全く敵わないという自然への畏怖を感じているのでしょうか。自分でもよくわかりません。

水無川沿いの景色

方向を変えると今度は前回訪れた弘法山公園の丘陵が視界に入りました。弘法山にはその弘法山の他、権現山と浅間山がありますが、あの頂部が平になっていることからも、あの山は権現山でしょう。よ~く見ると展望台らしき建物も見えるし。

たぶん権現山

少し歩いてあったのが、弘法の清水、もしくは臼井戸と呼ばれる湧水ポイントです。地元の言い伝えによれば、一人の法師が立ち寄り、妻女に水を所望したところ、妻女の家には水がなかったため、寺地まで水を汲みにいってその法師に与えたそうです。法師はその親切に感謝し、杖を地面に突き刺し穴をあけ「三日経ったら底をくり抜いた臼をここに据え置きなさい。必ず水が出るであろう。」と言って立ち去りました。するとその三日後に本当に水が湧き出ました。それからというもの、この湧き水を臼井戸と呼び、また弘法大師の伝承と合わさり弘法の清水とも呼ばれるようになったそうです。

弘法の清水・臼井戸

今泉堀之内へ進みます。駅から意外と歩きます。

今泉湧水池に向かっているところ

今泉堀之内太岳院に到着。なんと、予想を斜め上に行く伽藍に驚きを隠せません。まず本堂が現代建築、そして湧水ポイントだからということもあるのでしょうか、本堂の四方全てに水が張られています。素晴らしい発想じゃないですか。湧き水はキレイだし、というかこういう家に住みたい。

太岳院

お隣は今泉名水桜公園として整備され湧水池となっています。太岳院池と呼ばれています。市内にある湧水池のうち水量の最も豊富なのがここ今泉湧水だとありました。また現地案内板によれば、太岳院池は古代からの水汲み場所で、この池の底からは石器時代より奈良・平安時代の土器破片が大量に発見されているとありました。

今泉名水桜公園・太岳院池

永享の乱に際し、一色伊予守が立てこもった今泉の館がここであるという説もあるそうですが、『神奈川中世城郭図鑑』が否定しています。実際にも城郭らしいものは一切見当たりませんが、山裾に拠点を置く中世末期の典型的な武家屋敷なのかもしれません。また周辺の区画が微妙に怪しい違和感を感じます。古代から水が湧き出ていたこともポイントでしょうか。

太岳院

和田屋敷・浄円寺土塁


それでは、次に和田屋敷・浄円寺に向かいます。市街地を歩いているだけで普通に大山が見えます。凄い。

和田屋敷に向かっているところ

和田屋敷に到着。こちらは北条氏康に仕えた和田石見の屋敷跡で、現在も表札からわかるように子孫の方が住んでいるそうです。ちなみに秦野市の鶴巻温泉駅からも近い西光寺は、和田義盛の娘が父の菩提を弔うために阿弥陀如来を祀ったのが始まりとされています。このことから和田石見も和田義盛の娘の末裔かと思いましたが、現地案内板では何も触れていませんでした。それを期待していただけにちょっとガッカリ。

和田屋敷

なんとこちらも湧水ポイントでした。兵庫の泉といいます。ちょうど豆腐屋さんが所在していますがこの湧き水を使っているそうです。ちなみに上記した和田石見の父を兵庫ということから兵庫の泉と名付けられたようです。

兵庫の泉

後北条氏時代の武家屋敷跡とはいえ、民家なので、あまりウロウロするには憚れます。城郭図鑑に土塁が残されているとありましたが、見学もそこそこに浄円寺に向かうことにしました。和田屋敷から比較的近くにその浄円寺(浄圓寺)があります。和田石見が開基です。こちらには明確に土塁が残されています。

浄円寺
浄円寺土塁

土塁は高さ1.5m程でコの字型をしています。境内の開戸地蔵のある辺りがよく観察できます。往時ではこの土塁から墓地に向かって空堀があったということです。またどうでもいいことですが開戸地蔵と言いながら戸は閉じられていました。ホントどうでもいいことですね。

開戸地蔵
開戸地蔵を取り囲む土塁の高まり

近くに矢倉沢往還が通っていたそうなので、和田家はこの街道を押さえるための役割を担っていたのかもしれません。浄円寺の北側にすぐ小田急線路とバス通りがあるのでその辺りが矢倉沢往還ルートかと思われます。ということで、山裾に拠点を置き、街道を押さえるという、戦国期の典型的な武家屋敷・城郭立地です。大磯の住吉要害と雰囲気が似ています。

浄円寺からちょうど大山が見える

上浜田中世建築遺構群


それでは、次は海老名駅からも近い上浜田中世建築遺構群です。初めて海老名駅を下りてみましたが、国分寺跡があるんですね海老名、凄い。また相模川の向こうにある建徳寺は、北条時房に被官した横山党海老名氏流本間氏の菩提寺です。一族の一部は佐渡や房総の平北郡などに代官として赴いています。そして今回訪れる上浜田中世建築遺構群の主は判然としませんが、渋谷一族大谷氏との関連性が指摘されています。

Google map 海老名
①浜田歴史公園 ②相模国分寺跡 ③海老名駅 ④建徳寺

秦野駅から海老名駅に移動して、上浜田中世建築遺構群のある浜田歴史公園に向かいます。駅から公園に向かっていると、目的地のある方向が微高地であることがわかりました。屋敷跡はその上にあるようです。

海老名駅から浜田歴史公園に向かうところ

しばらく歩いて浜田歴史公園に到着。画像を見る限り何もないように思えますよね、でもこの底面の〇は発掘調査で出土した柱穴を再現しているんですよ。

浜田歴史公園

よ~く見ると柱穴が真っすぐじゃないことに気付きます。正確無比を誇るメイドイン・ジャパンも、この頃はまだ中韓レベルのクオリティだったみたいですね。

微妙に直線になってない(笑)

発掘調査の結果、二段の造成面に掘立柱建物跡8棟・竪穴状遺構1基・溝状遺構6本・井戸1基・柵列5本・土坑等が造られていたことがわかりました。またこれら建物群は鎌倉時代から室町時代にかけて営まれていたことが出土品などからわかっています。きましたね!鎌倉時代からの武家屋敷跡ですよ!

井戸跡

この屋敷の主は判然としませんが、この地が中世では渋谷庄だったことから、渋谷一族大谷氏との関連性が指摘されています。公園から少し西に行くと景色が望めます。秦野市の史跡は若干わかりづらい部分もありましたが、こちらは領主に相応しい高台の地です。

海老名駅方面

帰りに瓢箪塚(ひょうたん山・国造塚)古墳という場所にも寄ってみました。古墳だけあってこちらからも遠景を望めます。もうすっかり夕方です。今日はハイキングコースに始まり、こうして武家屋敷跡と、随分と色々な場所に訪れました。ちょっとイケてるビジネスマン並みのタイトなスケジュールでした。

瓢箪塚古墳からの景色

今日のまとめ


ということで今回は、往時でいう波多野荘と渋谷荘の武家屋敷跡に訪れてみました。和田屋敷は山裾に拠点を置き街道を押さえるという、戦国期の典型的な武家屋敷地パターンでしたが、上浜田遺跡は微高地に拠点を置く鎌倉時代からの特性を受け継ぐものでした。

地理院地図 ①海老名駅 ②浜田歴史公園

城郭という観点からは物足りないと思うかもしれませんが、武家とはいえ、普段は平穏に暮らしている訳ですから、それよりもどのような領地経営資源があったのかといった視点で見てみると面白いと思います。

上浜田遺跡の屋敷主は立地的にも平地水田ではなかったはずです。何をやっていたのでしょうね、そう考えると面白いですよね。というのも、前々回に大山古道から立ち寄った波多野氏の屋敷地跡があまりにも山側だったことに疑問を抱いたことが、今回の行程に繋がりました。近いうちにこのあたりに関する記事をまとめてみようと思っているので、そのときはまた見にきてください。それでは、地味な史跡がらも今回も最後までお付き合いいただきありがとうございます。

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