波多野氏の城館跡
波多野氏の城館跡 |
今回は、鎌倉の御家人としても知られる波多野氏の歴史と、一族の本貫地・波多野庄(現在の神奈川県秦野市周辺)にあった彼らの館位置に焦点を当ててみました。
波多野氏の歴史
波多野氏の祖となる佐伯経範は、前九年役(1051~1062)に際し、源頼義の精鋭として『陸奥話記』に描かれており、また「相模国人」と記されています。『尊卑文脈』には「後冷泉院御字、勲功に預かる。天喜五年十一月、安倍貞仁の陣に入りて、波多野、右馬助、兵庫助、従五位下」とあることから、平安時代の11世紀には、この経範なる人物が波多野氏を名乗り、相模国波多野郷に拠していたと考えられています。
秦野市教育委員会の調査報告書に「経範は国司郎党として頼義に随行して相模に下り、頼義の影響力のもとで、または勲功章として波多野郷を預かるようになったのではなかろうか。」とあるように、経範は相模守源頼義の家人という立場から相模国波多野郷を賜り、波多野氏の祖となったようです。
Wikipediaでは、経範の妻が藤原秀郷流藤原氏で、のちに波多野氏は佐伯氏から藤原氏に改め、藤原秀郷流を称しているとありました。
時代は下り、経範から五代目の波多野義通が源義朝に妹を嫁がせ、頼朝の兄となる朝長が産まれています。そして源頼朝の御家人に列したのが、吾妻鏡にも登場する波多野義景です。秦野市教育委員会の調査報告書にあった系図によれば、義景は義通の弟にあたります。
秦野市寺山からの景色 |
山側すぎる波多野一族の館位置とその理由
波多野氏が波多野庄(神奈川県秦野市及び周辺)を本貫地としていたことは知られていますが、具体的に秦野市のどの辺りにいたのかを調べてみました。また波多野氏の庶流として資料にあった名字がこちら、松田・渋沢・大槻・広沢・柳川・河村・大友・菖蒲・平沢・栢山・曽比・沼田です。全て秦野市及び周辺の地名に比定することができます。そしてこれら波多野一族の地をまずは秦野市を中心にプロットしてみました、以下。
Google map 波多野一族の分布 ①寺山 ②東田原 ③大槻 ④平沢 ⑤渋沢 ⑥柳川 ⑦菖蒲 ⑧松田 詳細は最下部Google mapで |
何か気付いたことはあるでしょうか。個人的に思ったのが、これだけ広大な秦野盆地がありながら一族揃って「山側すぎる!」という点です。盆地内にいるのは④平沢さんぐらいでしょうか。地図だとあまり伝わらないかもしれないのでこちら弘法山ハイキングのときに撮った秦野盆地をご覧ください。
権現山から眺めた秦野盆地とさりげなく富士山 |
「秦野盆地広すぎぃ~」と叫ばずにはいられません。それなのにですよ。オセロゲームじゃないんだから何故ここまで端っこに拠点が偏るのでしょうか。その疑問に対する答えが秦野市教育委員会の調査報告書にありました。以下引用。
秦野市教育委員会の調査報告書より
波多野氏庶子家のうち、松田・河村両氏をはじめ多くの家系が丹沢山塊の南麓から西南麓にかけて所領を営んでいることが注意される。そして彼らに共通していえることは、領主経営の中心が平地型の水田経営にあるのではなく、山地ないし谷地型の畑および牧経営にあった点である。
このように、波多野氏は一般的な平地型水田だけではなく、牧と山地・谷地型の畑を領地経営資源としていたようです。
渋沢の山地・谷地型畑 |
そして波多野氏が山側に館を構えた最大の理由がこちらでしょうか、同じく秦野市教育委員会の調査報告書から引用します。
秦野市教育委員会の調査報告書より
中世領主の領域支配で重要なことは、館が耕地、およびその用水たる水系を管理することにあった。そのため館は領域水系の上流側に置かれるのが一般である。
なるほど!領域内における河川の上流を掌握するというこの発想、これは波多野氏に限らず、中世武家の領地経営に関する根本的な館の立地選定基準となるのではないでしょうか。凄い勉強になったと思いますが皆さんいかがでしょう。
秦野市を代表する河川 金目川 |
ということで、波多野氏がなぜ山側に館を構えたのかといえば、牧経営などの平地水田以外の領地経営資源の獲得、そして領域内における河川の上流を掌握することで名実ともに領主としてその土地に君臨する目的があったようです。
ちなみに上記した庶流を含む波多野一族の大よそを地図にプロットすると以下のようになります。なんと、現在の秦野市域を飛び越えてしまうので、往時の波多野庄の範囲は一体どこからどこまでだったのか、逆に謎が深まってしまいました。
Google map 波多野庄 詳細は最下部Google mapで |
上浜田遺跡
波多野氏の館が微高地・台地上に立地していたことがわかりましたが、このような鎌倉期武家屋敷の典型的な具体例として、海老名市にある上浜田中世建築遺構群を参考までにご紹介します。
地理院地図 海老名 ①海老名駅 ②浜田歴史公園(上浜田中世建築遺構群) |
こちらでは発掘調査の結果、二段の造成面に掘立柱建物跡8棟・竪穴状遺構1基・溝状遺構6本・井戸1基・柵列5本・土坑等が造られていたことがわかりました。またこれら建物群は鎌倉時代から室町時代にかけて営まれていたことが出土品などからわかっています。
発掘調査当時の様子 |
遺構群は浜田歴史公園として整備され、主屋・厩屋・附属屋・柵列・井戸・柱穴跡などの区画が再現されています。実際に現地に向かうと、台地状の地形を登り高台からの景色を望むことができるので、微高地にあった鎌倉時代の武家屋敷の立地を体感することができます。
浜田歴史公園(上浜田中世建築遺構群) |
この屋敷の主も波多野氏同様、丘陵地の中腹に館を構え、丘陵上を牧として馬を放牧し、畠耕作を行う一方、丘陵下に谷戸田を開発していたと推測されています。ちなみに詳しくはわかっていませんが、当地が往時では渋谷庄だったことから、この屋敷の主は渋谷一族の大谷氏ではないかと推測されています。
波多野氏惣領家館位置 寺山説・東田原説
それでは、具体的に波多野氏惣領家が秦野市のどの辺りに館を構えていたのかという点に触れてみたいと思います。これがですね、よくわかっていませんが、秦野市教育委員会の調査報告書では、波多野城址のある寺山・竹ノ内を第一候補として挙げており、一方で『神奈川中世城郭図鑑』では実朝首塚のある東田原を候補に挙げています。これがどちらであっても、惣領家の館も大山・丹沢から連なる丘陵の微高地に位置していることが地形図からもわかると思います。
地理院地図 秦野 ①寺山竹ノ内 ②東田原実朝首塚 |
『新編相模国風土記稿』の記述から、波多野氏の城館跡と信じられてきた波多野城址ですが、専門家からは懐疑の目を向けられる史跡として扱われており、実際にも発掘調査の結果、これまで空堀といわれてきた部分は、川の流れていた痕跡だったことが判明しました。但し、人工的に掘削された溝状遺構に、青磁片・土壙・井戸跡などが検出されており、これだけでは城郭かどうかは判然としないものの、ともかく中世に青磁を所有することのできる身分の高い者の生活空間の痕跡がそこにあったことが確認されました。
波多野城跡 |
波多野城址周辺における小字名の古称が興味深く、波多野城跡の石碑がある地を「小附(こづくえ)」といい、周辺に「竹ノ内」「門畠」「ゲンバヤシキ」「大口」「クビキリバタケ」など、城、もしくは武家の館があったかのような地名が伝えられています。但し、波多野城址に限った話ではありませんが相模地方全体の傾向として、後北条氏時代の城郭の痕跡が伝えられている可能性も否めません。
Google map 寺山の小字名 ①鹿島神社 ②円通寺 ③波多野城址 ④竹ノ内 ⑤門畠 ⑥ゲンバヤシキ ⑦小附 ⑧大口 ⑨クビキリバタケ |
もう一つの波多野氏の館跡候補が東田原です。源実朝公首塚が所在しています。秦野市教育委員会の調査報告書では、こちら東田原説を懐疑的に、そして否定的にとらえています。一方で『神奈川中世城郭図鑑』では、東田原の実朝首塚付近から鎌倉時代を中心とした遺物や館跡が発掘されていることから、こちらが波多野氏館跡に相応しいという見解を示しています。
金剛寺裏山から眺めた東田原 |
周辺は舌状台地の微高地先端となり、一応は領主の館地としての地形を兼ね備えています。上記した発掘調査の結果の他、実朝首塚のあることが最大のポイントでしょうか。三浦義村の家人・武常春が波多野氏を頼って殺害された源実朝の御首を運んできたと伝わっていますが、波多野氏惣領家の忠綱が退耕行勇を招き金剛寺を建て菩提を弔ったとあることから、当地が波多野氏惣領家と縁の深い土地柄だということが伝わってきます。
金剛寺 |
余談として『吾妻鏡』文治四年(1188)8月23日条に、波多野五郎義景と岡崎四郎義実が相模国波多野本荘北方の所有権を争い、源頼朝の御前対決に至った事件が記されています。ここに記された「波多野本荘北方」の「本荘」とは、秦野市を流れる音無川を境とした北側を指します。さらにその北方ということは、つまりそれは田原部の辺りということになり、義景は惣領家ではないことから、波多野氏惣領家の領域は北方(田原)を除く地域という解釈ができると秦野市教育委員会の調査報告書にありました。
秦野駅前を流れる音無川 |
まとめ・あとがき
今回は「波多野氏の館位置が山側すぎる!」という疑問から、波多野氏の、というより、鎌倉期の武家屋敷がどういう場所に建てられるのかという根本的な知識を得ることができました。個人的にとても勉強になったと思いますが、皆さんはいかがだったでしょうか。波多野庄や渋谷庄では、微高地・台地上に館を構え、平地での水田だけにとどまらず、丘陵部では牧や畑を経営し、さらに領地内の河川上流を掌握していたことがわかりました。
またこれはあくまでも個人的な推測ですが、秦野市の地名に鉄などの鉱石に関連するのではないかと思われる地名が多くみられることから、それら鉄や鉱石も領地経営資源としてあったのではないかと考えました。実際にも渋沢や丹沢周辺では現代まで鉱山として開発された痕跡がいくつかみられます。
渋沢の坑道跡 |
もう一つ、今回調べていて面白かったのが、上記した波多野城址の発掘調査の結果、溝状遺構・青磁片・土壙・井戸跡などの平安・中世に関する遺構とは別に、古代に推定される馬歯が大量に出土していたことがわかりました。これは馬歯を使用した雨乞い儀式が波多野城址の地で行われていたことが推測されます。
雨乞いといえば大山ですが、その大山を波多野城址から見事な姿で拝することができます。地学の常識として温泉と鉱石がセットであるように、古代祭祀場と神奈備山もセットになっている例が全国的に確認されています。大山は厳密にいうと標高が高いので神奈備山には分類されませんが、相模国を代表する霊山なので、きっとこの大山に向かって雨乞いの儀式が行われていたのかもしれませんよね。
波多野城跡から見た大山 |
0 件のコメント:
コメントを投稿