タイトルのテキスト
タイトルのテキスト
タイトルのテキスト
タイトルのテキスト

三浦津久井氏系図

2020/02/19

系図 三浦氏

t f B! P L

三浦津久井氏系図



今回は三浦津久井氏に焦点を当ててみました。三浦一族の津久井氏は、三浦半島の津久井を本貫地とした武家・御家人です。のちに津久井家嫡流の高重が承久の乱(1221年)にて後鳥羽上皇方に与してしまったため、一族は衰退してしまいますが、吾妻鏡の記述からは、庶家一族が惣領家の下で土地や苗字を変え生き残っていた様子がうかがえます。

ということで、今回はそんな津久井氏の系譜と三浦半島の津久井に残された史跡を交えて紹介したいと思います。

三浦氏系図


三浦氏庶家の津久井氏は三浦大介義明の弟・義行から始まります。『吾妻鏡』治承四年(1180)8月22日条にて、源頼朝の平家討伐のための旗上げに際し、石橋山の合戦に合流すべく三浦半島を発った三浦一族の一人としてその筑井次郎義行が記されています。

三浦氏系図

その後、吾妻鏡の建久元年(1190)11月7日条、建久二年(1191)2月4日条、建久六年(1195)3月10日条に机井八郎なる人物が登場します。しかしこれが津久井氏の誰なのかはよくわかっていません。

津久井氏の史跡


三浦半島南部にある京急線津久井浜駅の辺りが大よそ津久井となります。前面に三浦海岸が広がり、背後には武山から連なる山稜がそびえ、谷戸の中央には津久井川が流れています。

長沢駅周辺は宅地開発されてしまいましたが、津久井氏菩提寺の東光寺や津久井氏の城館跡と伝わる峯屋敷旧跡周辺には当時を偲ばせるかのごとく畑のある風景が広がっています。

地理院地図 津久井
①京急津久井浜駅 ②峯屋敷 ③東光寺 ④京急長沢駅
東光寺裏山から眺めた津久井

津久井氏菩提寺の東光寺は、縁起によれば、天平年間(729~749年)に行基が地蔵を安置したのが始まりとされ、のちに津久井義行が上野阿闍梨を迎え、寺を中興し祈願所にしたと伝えられています。

東光寺
東光寺のイケてる仁王像

東光寺には津久井義行の墓と伝わる五輪塔が残されています。同じく三浦半島の上山口や矢部にある五輪塔と同じく立派な逸品です。一見の価値有りです。

津久井義行墓

津久井氏の城館跡と伝わる峯屋敷はというと、丘状の地形が確認できるだけで城郭らしき名残りはほぼみられません。それもそのはず、湯山学著『相模武士-全系譜とその史跡』によれば以下のような見解が示されていました。

鎌倉時代の三浦一族の城郭は三浦半島の南からの攻撃に対する備えはなく、すべて北からの侵入に対しての備えであり、三浦半島の南部には強固な城郭は築かれていない。

峯屋敷遠景
峯屋敷近景

津久井氏系図


下画像は津久井氏の系図です。津久井家の嫡流は義行・高行・義通・高重のラインで、この四代が津久井に拠していたと云われています。そして上記したように、高重が承久の乱にて上皇方に与してしまったため、津久井の地を失ってしまいます。そしてのちに佐原系統の一部が津久井氏を名乗るので、承久の乱ののち佐原氏に津久井の地が渡ったものと思われます。

津久井氏系図

嫡流以外は矢部・桑原・二宮・平塚・秋庭などの苗字を名乗っています。新たな土地に移って行ったのでしょう。矢部・二宮は相模国か武蔵国なのか判然としませんが、桑原は相模国足柄下郡桑原郷(小田原市)とされています。『吾妻鏡』文治二年(1186)3月27日条に、桑原の二郎という人物が記されています。しかしこれが津久井家の桑原二郎なのかはよくわかりません。

Google map 桑原

秋庭氏


義光の子・義方が秋庭氏を名乗っています。秋庭氏の本領は山ノ内庄秋庭郷(横浜市戸塚区)とされています。『吾妻鏡』暦仁元年(1238)2月17日条に、将軍頼経上洛において三浦義村に隋兵した家子に秋葉小三郎という名が、また仁治元年(1240)8月2日条では、将軍頼経の二所詣において秋葉小次郎なる名、そして宝治元年(1247)6月22日条では、三浦一族が滅びた宝治合戦(1247年)で自殺または討ち死にした者として秋庭又次郎信村の名が記されています。

Google map 秋葉町

系図にあるように、義行の子・為行が矢部氏を名乗っています。これを三浦一族の本拠地である相模国の矢部(横須賀市大矢部)に因むと考えるのが妥当かと思われますが、戸塚区秋葉町の近くにも矢部という地名があります。

また舞岡という土地が隣接していますが、こちらは岡崎義実系統で土屋義清の子・義則が舞岡と名乗っているので、この土地を指すものと思われます。ということからも、意外にも為行の矢部とはこちら戸塚区の矢部に因むという説も無きにしも非ずといったところかもしれません。

平塚氏


為行の子・為高が平塚氏を名乗っています。大住郡平塚宿(神奈川県平塚市)を本領としたことに因むと考えられています。そして『吾妻鏡』を見てみると、こちらも秋庭氏同様、暦仁元年(1238)の将軍頼経上洛において三浦義村の家子として平塚兵衛尉なる人物を確認することができます。

そしてまたこちらも秋庭氏と同じく、宝治元年(1247)6月22日条において、宝治合戦で自殺または討ち死にした者として、平塚小次郎平塚左衛門尉光弘とその一族の名を確認することができます。

大磯千畳敷から眺めた平塚及び相模平野

ところで三浦氏惣領家の所領であった長狭郡(千葉県鴨川市)にも平塚という地名があります。念のためその他の平塚を探してみたところ、川越市・北区・白井市にもそれぞれ平塚の地名を発見することができました。

Google map 関東の平塚
①神奈川県平塚市 ②川越市平塚 ③北区平塚 ④白井市平塚 ⑤鴨川市平塚

なかでも千葉県白井市の平塚は、往時では平塚郷として平安末期で既に国衙領として成立していました。また金沢流北条氏の実時が宝治合戦後に埴生庄と(白井市)平塚郷を所領として獲得していることがわかっています。

北条氏が宝治合戦後に所領を獲得したということは、その土地は言うまでもなく三浦氏及び三浦方関係者の所領であったことは明白でしょう。したがってこれら相模国以外の平塚の地も三浦平塚氏に関連する土地として一考する価値がありそうです。

大山千枚田
千葉県鴨川市大山不動尊のある周りを平塚と云う

三浦一族の運命を全うした秋庭氏と平塚氏


桑原氏と二宮氏の痕跡がいまいち不明ながらも、秋庭氏と平塚氏が三浦義村の家子となり、宝治合戦で惣領家と運命を共にしていたことがわかりました。

吾妻鏡の宝治元年に記された秋庭信村なる人物の名には義村の諱・通字である「村」が入っています。また平塚氏にいたっては左衛門尉を名乗っています。両家共に義村及び惣領家と親密な関係を築いていたのであろう痕跡がうかがえます。

頼朝法華堂跡の丘陵にある三浦氏を供養する横穴

後北条氏の城郭として名高い津久井城が相模原市にありますが、今回取り上げた三浦一族の津久井氏が築城したとも云われています。しかし発掘調査の結果から、今のところ15世紀以降の痕跡しか明らかになっていないそうです。

あとがき


上記したように、三浦津久井氏の一族として津久井姓の他、矢部・二宮・桑原・秋庭・平塚といった名を確認することができました。現在これらのいづれかを苗字とし、さらに先祖代々関東の土着だという方は、もしかしたら三浦津久井家の子孫かもしれません。ところで津久井は三浦半島といえど、電車(京急線)で向かうこともできるので、車を使わなくとも史跡めぐりをすることができます。お隣の三浦海岸駅がこの辺で最も栄えているのでついでの観光もありです。

東光寺のゆるキャラ住職

津久井氏菩提寺

名称  :東光寺
住所  :神奈川県横須賀市津久井5-8-3
駐車場 :有り
拝観料 :なし

ブログ内検索

ブログ アーカイブ

お問い合わせ

名前

メール *

メッセージ *

QooQ