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三浦義村の家子の検証

2020/02/26

三浦義村

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三浦義村の家子の検証


今回は、関東の名族・三浦氏の全盛期を築いた惣家の三浦義村とその家子に焦点を当ててみました。家子とは一体どういう続柄で構成されているのかといった点を三浦義村とその家子を通して理解を深めていきたいと思います。

家子とは


家子とは家人や従者などとも表現できますが、中世史で著名な細川重夫氏が自身の著書で源頼朝の家子を「親衛隊」と表現しています。

またコトバンクにある日本大百科では以下のように記されています。

「惣領家に率いられた庶家(血縁者)と、惣領家・庶家それぞれに従属している非血縁者という二つの要素からなる」

「家子は惣領家の従者でなく惣領とともに所領の共同知行にたずさわる者というのがその本来の姿であった」


今回、実際にも義村の家子を調べてみると、確かに、惣領家と庶家、または血縁者と非血縁者らしき者が混在し、さらに知行地に代官として派遣する側とされる側という意味で共同知行とする関係性がみられます。

三浦義村


三浦氏惣家の当主・義村は、建久元年(1190)に右兵衛尉、建暦元年(1211)には左衛門尉と官位を上げ、承久元年(1219)には駿河守となり、これまでの侍身分から諸大夫相当(貴族階級)の身分へと出世しました。

義村が任官した駿河守は後にも先にも北条氏が独占した特別なポストであったことから、三浦氏が、もしくは義村が承久元年(1219)の時点で北条氏に準ずるポジションであったことがうかがえます。実際にも嘉禄二年(1226)の椀飯役では、北条泰時・朝時に次ぐ順列となっています。

三浦義村の家子 血縁者


暦仁元年(1238)の将軍頼経上洛における三浦義村に隋兵した家子が吾妻鏡に記されています。吉川弘文館現代語訳吾妻鏡11巻を参照し、グループごとにカテゴライズしてみました。

血縁者・惣領家グループ


三浦又太郎左衛門尉(氏村)
三浦三郎(員村)
壱岐前司(三浦光村)
駿河四郎左衛門尉(三浦家村)
駿河五郎左衛門尉(三浦資村)
同八郎左衛門尉(三浦胤村)

三浦義村系図
赤〇=義村 青〇=義村に隋兵した一族

惣領家グループで興味深いのは、嫡子の泰村がいないことでしょうか。それもそのはず、先陣義村の列より後ろの将軍頼経の隋兵として並んでいます。

壱岐前司(三浦光村)・駿河四郎左衛門尉(三浦家村)・駿河五郎左衛門尉(三浦資村)・同八郎左衛門尉(三浦胤村)は義村の子で、三浦又太郎左衛門尉(氏村)と三浦三郎(員村)は義村の長子・朝村の子なのでつまり義村の孫となります。

血縁者・庶家グループ


大河戸民部太郎
佐原太郎兵衛尉(景連)
筑井左衛門太郎・筑井次郎
秋葉小三郎
多々良小次郎(茂春)・多々良次郎兵衛尉
三浦佐野太郎
石田太郎・石田三郎
平塚兵衛尉
三浦次郎(有村)


三浦氏系図
赤○=三浦義村 青○=義村に随兵した庶家
※青〇は本人を指すのではなく家を表しています。


佐原筑井(津久井)・多々良佐野山口(三浦次郎有村)らは三浦半島に地名が残っているので三浦一族としてご存知の方も多いかと思います。

石田は芦名から派生した系列で伊勢原市の小田急線愛甲石田駅近くに石田という地名が残されています。また石田三成の先祖だという説もあります。

大河戸は義村の弟・重澄が苗字としているので、その重澄、または子の重村、もしくはその縁者が家子・隋兵として吾妻鏡に記された大河戸民部太郎かと思われますが、イマイチ定かではありません、あしからず。


葉山町山口にある平安末期の五輪塔
佐原氏菩提寺満願寺の五輪塔


湯山学著『相模武士・全系譜とその史蹟〈2〉』にある三浦氏系図に、津久井義行の孫に「為高(平塚)」とあります。「為高は平塚を称しているが大住郡平塚宿を本領としたためであろう」とあったので、この平塚為高及び吾妻鏡に家子として記されている平塚兵衛尉なる人物は神奈川県平塚市を本貫地とした三浦一族と考えられます。


大磯千畳敷から眺めた平塚及び相模平野

湯山学著『相模武士・全系譜とその史蹟〈2〉』に津久井義行の孫に「義方(秋庭)」という名がみえます。吾妻鏡に家子として記されている秋葉小三郎なる人物もこの秋庭義方と同族でしょう。ですからこちらも平塚氏同様津久井系三浦氏のようです。秋庭氏の本貫地は山ノ内庄秋庭郷(横浜市戸塚区)とされています。

三浦津久井氏系図

三浦津久井氏系図

今回は三浦津久井氏に焦点を当ててみました。三浦一族の津久井氏は、三浦半島の津久井を本貫地とした武家・御家人です。のちに津久井家嫡流の高重が承久の乱(1221年)にて後鳥羽上皇方に与してしまったため、一族は衰退してしまいますが、吾妻鏡の記述からは、庶...


三浦義村の家子 非血縁者

非血縁者(らしき)グループ


大須賀八郎(範胤)
皆尾太郎
山田蔵人・山田六郎・山田五郎
武藤小次郎・武藤三郎・武藤又次郎兵衛尉
青木兵衛尉(重元)
安西大夫(経義)
金摩利太郎
丸五郎・丸六郎太郎
三原太郎
市兵衛次郎
長尾平内左衛門尉(景茂)・長尾三郎兵衛尉光景
遠藤兵衛尉(為時)


非血縁者(らしき)グループの詳細に入る前に、上述した家子の定義となる「家子は惣領家の従者でなく惣領とともに所領の共同知行にたずさわる者というのがその本来の姿であった」という点が特にこの非血縁者グループに該当するようなので、まずは義村が関わった所領についておさらいしておきましょう。

相模・⑦土佐の守護であった義村は、承久の乱(1221年)の後、③河内・④紀伊の守護に、さらに一部資料では⑥讃岐や⑤淡路の守護にも就いていたことがわかっています。その他、房総半島の一部にも三浦氏が深く関わっていました。

Google map 三浦義村所領
①相模守護 ②駿河守 ③河内守護 ④紀伊守護 ⑤淡路守護 ⑥讃岐守護 ⑦土佐守護

三浦一族の所領と日宋貿易

三浦一族の所領と日宋貿易

三浦一族の特に惣家を中心にその所領を調べてみました。三浦惣家の所領は日本列島の北は糠部郡(青森県から岩手県にまたがる一戸から九戸にいたる地域)から南は肥前(大よそ佐賀県と長崎県の辺り)に至る広大な範囲に分布しています。そしてこれら所領の特性を探っ...

長尾氏


義村の非血縁者系家子で代表する一族といえば、まずは何と言っても、長尾氏でしょうか。長尾定景は石橋山の合戦で佐奈田与一義忠を討ち取ってしまったがため、罪人として長らく三浦氏に預けられていました。のちに定景は三浦氏の家人となります。

一族は宝治合戦で三浦氏と命運を共にしますが、生き残った庶流が鎌倉幕府滅亡後も上杉氏の下で勢力を広げていきました。長尾景虎(上杉謙信)が彼らの子孫であることは有名ですね。

長尾平内景茂が左衛門尉に任官しています。義村の推挙があったからこその結果だと考えられます。家子といえど、優遇されていたのではないかという雰囲気が伝わってきます。

久成寺にある長尾定景一族の墓

遠藤兵衛尉(為時)


遠藤兵衛尉為時は摂津国(大阪)の渡辺党遠藤氏です。調べてみると、為時は三浦氏が担いでいた将軍頼経の近侍をしていたという接点がみつかりました。また義村が河内守護にもなっているため、近接する所領における密接な関係性があったのかもしれません。

武藤氏


武藤氏は武蔵国の御家人でしたが、九州に下向し、大宰少弐、そして筑前・豊前・肥前・対馬・壱岐各国の守護などに任命されました。一族はのちに少弐氏を名乗っています。

義村の子の泰村が承久の乱(1221年)の恩賞として筑前国宗像社領の預所及び肥前国神崎庄の地頭職に、泰村の弟の光村が嘉禎三年(1237)壱岐守に任じられていることから、領地経営における接点があったのかもしれません。

少弐氏と島津氏の船団『蒙古襲来絵詞』より

安房国の御三家


安西氏・金摩利(神余)氏・丸氏と、安房国を代表する氏族が三家も義村の家子となっています。これはもう房総半島の南半分が義村の支配下にあったといっても過言ではないのかもしれません。

源頼朝の鎌倉入り以前から三浦氏が房総半島で強い影響力を持っていたと云われていますが、やはりこのことからもその信憑性が伝わってくるようです。安西氏は三浦氏惣家と姻戚関係にあり、専門家によっては三浦一族として紹介される場合もあります。

館山市にある鶴谷八幡宮 別名を安西八幡ともいう

その他


その他の皆尾太郎・三原太郎・青木兵衛五郎重元・山田蔵人などは色々と調べてみましたがよくわかりません。

家子属性比率


①血縁者・惣領家グループ 6人(17%)
②血縁者・庶家グループ 12人(33%)
③非血縁者(らしき)グループ 18人(50%)

上記のとおり、①血縁者・惣領家グループ、②血縁者・庶家グループ、③非血縁者(らしき)グループの3つに大きくカテゴライズしてみました。①惣領家で義村の子孫が6人で全体の17%、②庶家でその他の三浦一族が12人で全体の33%、③非血縁者(らしき)グループが18人で全体の半数という内訳になります。

上述したように非血縁者グループに限っては義村との関係性がわからない者、さらには一体全体どこの誰なのかもわからない者までいるので、このカテゴライズが100%正しいとは言い切れない点をご了承ください。

今回、三浦義村とその家子の属性を調べてみましたが、やはり血縁者・近親者で周りを固めていることがわかりました。現代でも中小・零細企業が一族経営であるように、結局のところ、最後に信じられるのは家族・親族ということでしょうか。

また非血縁者らしきグループに不明な部分が多かったものの、調べてみると、どこか義村の所領と関わっている気配が感じられました。もしかしたら姻戚関係にあったなど、こちらもごくごく近しい間柄にあったのかもしれません。

まとめ


〇家子は惣領家の血縁者と非血縁者で構成されているが、非血縁者であっても左衛門尉などの高い地位に就いている者がいたり、または惣領家の所領と関わりがみられることから、従者というより共同知行者(ビジネス・パートナー)としての色合いが強く感じられる。

〇何かあれば死に直結しやすい時代だったからこそ、姻戚関係などで周りを親族、もしくはそれに近い間柄として周辺を固めていくのがこの時代の処世術だったのでしょう。今も昔も鎌倉時代も、人の世は、最後に信じられるのはやはり親族だということでしょうかね。

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