タイトルのテキスト
タイトルのテキスト
タイトルのテキスト
タイトルのテキスト

義堂周信と中世の熱海温泉郷

2020/02/12

温泉 義堂周信 熱海

t f B! P L

〈義堂周信〉と中世の熱海温泉郷


中世の熱海でも現在のように多くの人が温泉に入っていたのかという疑問を感じたところ、臨済宗夢窓派の禅僧で、五山文学の代表者としても知られる義堂周信(ぎどうしゅうしん)が湯治のため熱海に泊まりに来ていたことがわかりました。しかも、彼は自身の日記にてその様子を詳細に伝えてくれていたのです。ということで、今回は、その義堂周信の残した記述から、彼の熱海での行程と中世における熱海温泉がどのような様子だったのかという点に迫ってみました。

義堂周信


義堂周信は、正中二年(1325)1月26日に土佐国高岡郡に生まれました。比叡山延暦寺に入山したのち、暦応四年(1341)に禅宗に帰依し、夢窓疎石から法衣を受けました。元への渡海を望んでいましたが、叶わず断念。師である夢窓疎石との関係から、天龍寺や建仁寺に住したのち、延文四年(1359)に、鎌倉公方足利基氏の招請に応じ、鎌倉に下向し円覚寺に住します。

円覚寺
円覚寺

応安二年(1369)には瑞泉寺住持、応安五年(1372)に報恩寺住持、永和三年(1377)に円覚寺黄梅院住持を務め、なおかつ足利基氏・氏満父子や上杉朝房・能憲ら有力者から帰依を受けていました。そして康応二年(1380)には足利義満の招請により京へ戻り、建仁寺・等持院・大慈院・南禅寺などの寺院を歴住しました。そしてなんといっても、彼は文筆に優れた学僧であり、五山文学を隆盛させただけでなく、独自の境地を開拓した功績は現在まで高く評価されています。自身が著した日記『空華日工集』や詩文集『空華集』などがあります。

義堂周信が熱海に泊まり行くの巻


義堂周信は、応安七年(1374)・永和元年(1375)・永和四年(1378)と、三回も熱海に訪れています。よほど熱海が気に入ったのかもしれませんが、当時は未だ現在のように、観光地に行って温泉に入るというレジャー感覚とは少し異なり、湯治という言葉からも伝わってくるように、また義堂自身が「湯医のため熱海に往き」と記していたように、療養目的の色合いが強いようです。それでも時代が異なるとはいえ、同じ人間ですし、同じ日本人な訳ですから、単に温泉に入っているだけで気持ちいいと感じるところは同じだったはずでしょう。

義堂周信が泊まっていたかもしれない旧接待庵こと温泉寺

『熱海市史』の解釈によると、応安七年(1374)に湯治のため熱海に訪れ「山崖の家」に宿泊していた義堂周信は、広済接待庵に泊まっていた仏光派で浄妙寺などの住持を務めた九峰信虔(きゅうほうしんけん)とばったり出会います。そこで彼らは、詩を詠み合ったそうです。そして九峰信虔が泊まっていた広済接待庵が現在の温泉寺だという説があります。

義堂周信も見ていたかもしれない福道町からの景色

温泉寺(広済接待庵)に泊まっていた九峰信虔と義堂がばったり会ったということは、両者の宿泊所が近接していたことが想定されます。そうすると、温泉寺から「山崖の家」のイメージに沿う場所となると、糸川沿いを登った福道町辺りに義堂周信の泊まる「山崖の家」があったのではないでしょうか。我ながら名推理、と思ったのも束の間、よくよく考えると、熱海ってだいたい山崖に家があることに気付きました・・。但し、温泉寺のある辺りを上宿というので、どちらにしろ、その辺りに温泉宿が軒を連ねていたのでしょう。

矢印が温泉寺 そして視界いっぱいに山崖に建つ家々・・

『熱海市史』では「山崖の家」に泊まっていた義堂周信が「広済接待庵」に泊まっていた九峰信虔とばったり出会ったとありましたが、『熱海温泉誌』では同宿したと記されています。解釈が異なるほど原文が難解なのか、もしくは一方が間違っているのか、この辺りはよくわかりません。

熱海温泉の様子


ばったり会った義堂周信と九峰信虔ですが、翌日、九峰が義堂を訪れ、詩を詠みあっています。それも、中岩円月というこれまた義堂に勝るとも劣らない学僧が以前に熱海に訪れた際に詠んだ詩に和して九峰が詠み、さらに義堂がその二首に韻を和して詠みました。ということで以下、それぞれ3人が詠んだ熱海の詩です。熱海市発行の『熱海温泉誌』から引用します。


中岩円月の詩

中宵夢破響浪浪 応是巖根沸熱湯
筧筧分泉煙繞屋 家家具浴却賖房
海涯地暖冬無雪 山路天寒午踏霜
遠興控凌雲霧黒 紅潮送月落微茫

夜半に夢から覚めると、琅琅と響いている、それこそは岩根から熱湯の湧き出る音。たくさんのかけ樋が湯を伝え、立ち上る煙は建物を取り巻き、家ごとに湯浴みに備え、客たちはみな房室に宿っている。海辺の土地は暖かで、冬でも雪はないが、山に上れば空から冷え込み、真昼にも霜を踏みしめる。遠い島影ははっきりと見えず、雲霧が黒くわだかまり、海原の明けそめる頃、月が暗闇に落ちるのを見送った。



九峰信虔の詩

山開三面一滄浪 上有霊神惟走湯
潮怒雷声高暁枕 沙堆雪色護雲房
青松一樹何年墓 紅葉千林昨夜霜
勝概無誌収拾尽 多情遠客転蒼茫

山は三方に広がり、一方は青い波。上にまします御霊は、これ走り湯の神。潮は怒り雷鳴のごとく響き、夜明けの枕元に高く、砂は積もった雪のように白く、僧房を護っている。ひとひもの青松はいく年を経た墓標であろうか。ちもとの紅葉はゆうべの霜に染められたのであろう。この佳境の様な拾い尽くす詩などなく、心震える遠来の客はいよいよ茫漠と眺める他たに。



義堂周信の詩

温泉乱浴汗淋浪 接待知消幾杓湯
宿客毎分鼈店楊 詩人偏愛賛公房
陶成什器軽於土 煮出官塩白似霜
暫借僧窓同遠眺 東南目断水茫茫

温泉をしたたかに浴びれば、汗がしとどに流れ、何度も接いで、いく杓の湯が消えたのか、わからないほど。泊まり客はそれぞれ、かの鼈山(ごうざん)のほとりのような、仙境の旅館に寝床を分け合うが、詩人の社甫ではない私には、賛公の房室のようなこの庵がとても好ましい。地元で焼いた陶器は土よりも軽く、煮詰めた官製の塩は湯金ように白い(産物もまた勝れている)、しばらく御寺の窓から遠望すれば、東南の方は目が届かず、水面が茫洋と広がる。



中岩円月のこちら「応是巖根沸熱湯」「筧筧分泉煙繞屋」「家家具浴却賖房」という部分からは、岩根から噴き出している温泉が筧(水を引くための樋)によって各宿に配られていること、そして温泉宿では設備が整っているとのこと、さらに「海涯地暖冬無雪」からは、温水によって地面が暖められ海岸の地面にさえ雪が積もらないことが伝わってきます。

熱海でよく見かける温泉のための設備


九峰信虔の「上有霊神惟走湯」(上にまします御霊はこれ走湯の神)が興味深く、九峰信虔の泊まった広済接待庵が、現存する走り湯温泉洞窟の近くにあったのかと思ってしまいますよね。でもこれは『熱海温泉誌』によれば、「湯を走らす」といった沸湯の様子ととらえるのが妥当なようです。また「青松一樹何年墓」「紅葉千林昨夜霜」などは、青松や紅葉のある熱海の風光明媚な風景を伝えています。

走り湯温泉洞窟

走り湯温泉洞窟

走り湯温泉洞窟

思えばこうして史跡めぐりにハマったのは、鎌倉の裏山にある中世の横穴墓やぐらの遺跡感とか別世界感に魅せられたことがキッカケでした。今回出会った横穴は、横穴式源泉という初めて見るタイプの横穴となります。世の中には色んな横穴(別世界)が存在してい...


義堂周信の「陶成什器軽於土」「煮出官塩白似霜」の部分が興味深く、熱海では、温水を利用して陶器や塩が製造されていたことがこのことからわかります。

熱海のどこにでもある坂道の風景

この時代に温泉が筧によって各宿舎に引かれていたとのことですが、既にこの頃に温泉組合でもあったかのような雰囲気ですよね。そして熱海の坂道だらけの地形が温泉を筧で各宿に配るにはちょうど良かったのかもしれません。

南北朝期以後の伊豆山には、公家や武家をはじめ多くの人が参詣に訪れるようになりますが、彼らの詩が証言するように、既に湯治客を接待する専門の宿泊施設が常設され、しかも賑わいをみせていたことがわかりました。凄いですね、現在と変わらないとまでは言いませんが、江戸時代の温泉宿の風景が浮かんでくるようではありませんか。

このとき義堂は、伊豆山権現の別当寺である密厳院・東明寺などにも訪れ、大よそ一カ月もの間、熱海にいたそうです。

二度目の熱海と平左衛門地獄の謎


永和元年(1375)に再び義堂が熱海に訪れました。今回は「山崖の旧館」に宿泊したとのことです。熱海市史に、このとき義堂が、平左衛門がそこに落ちて死んだと伝える平左衛門地獄を見に行ったとありました。ちなみに熱海七湯で、農民の清左衛門が馬を走らせて湯壺に落ちて焼け死んだことからその名が付けられたという清左衛門の湯があります。どこか縁起が似てますが「平」ではなく「清」なので別モノみたいです。それにしても、平左衛門地獄ってどこにあるのでしょう。

清左衛門の湯

平左衛門地獄が熱海のどこにあるのかどうしても知りたいので調べていると、Wikipediaに以下の記述がありました。

室町時代に禅僧の義堂周信が、鎌倉からかつて北条氏の所領であった熱海の温泉を訪れた際に、地元の僧から聞いた話を次のように日記に記している。

「昔、平左衛門頼綱は数え切れないほどの虐殺を行った。ここには彼の邸があり、彼が殺されると建物は地中に沈んでいった。人々はみな、生きながら地獄に落ちていったのだと語り合い、それ故に今に至るまで平左衛門地獄と呼んでいます。」

このように頼綱の死後80年以上経っても、その恐怖政治の記憶が伝えられていた。



ということで、場所はわかりませんでしたが、平左衛門とは、平禅門の乱(1293)で知られる平頼綱を指していることがわかりました。しかも熱海に彼の館があったんですね。そういえば熱海七湯に小沢の湯がありますが、別名を平左衛門の湯といいます。でもこれも「湯」であって「地獄」とは言ってないのでこれまた別モノでしょうか。平左衛門地獄、一体どこにあるのでしょう。

小沢の湯 別名を平左衛門の湯という

熱海七湯めぐり【所要時間と各温泉の歴史】〈マップ付き〉

熱海七湯めぐり【所要時間と各温泉の歴史】〈マップ付き〉

熱海七湯めぐり 熱海七湯とは、大正時代まで熱海に自噴していた源泉を熱海市がモニュメントとして整備・復元したものです。そこでこの記事ではこれら熱海市街地に散りばめられた熱海七湯を効率的にめぐるコースを設定してみました。こちらで大よその見当が...


その他、義堂は熱海を出てお隣の土肥・成願寺まで足を運んだそうです。なんだかんだと、どこか観光のようなお気楽な雰囲気も伝わってきますが、そこは人間ですから、僧侶とはいえ、一年に一カ月ぐらい休暇を取って熱海でゆっくりするぐらい構いませんよね。

成願寺からの景色

最後の熱海


永和四年(1378)に義堂が三度目となる熱海湯治に訪れました。上記したように、康応二年(1380)に足利義満の招請により京へ戻るので、これが彼の最後の熱海訪問だったと思われます。このとき、応安七年に九峰信虔が泊まっていた広済接待庵(のちの温泉寺)に義堂は泊まったようです。

温泉寺は熱海の中央町や銀座町などからも近いため、義堂は大湯の間欠泉を見たでしょうし、また当時はブーケンビリアは咲いていなかった糸川沿いも歩いたはずです。当時、絶海中津と共に五山文学の双璧と称された文才が鎌倉に20年もいたことは、夢窓疎石の存在に次ぐ凄いことだったのかもしれません。しかもそんなカリスマが熱海に行ってるって(笑)、どこか親近感を覚えます。

糸川

まとめ


ということで、義堂周信の『空華日用工夫略集』や『空華集』などから、中世の熱海温泉の様子を垣間見ることができました。義堂の時代に熱海では既に温泉宿が常設されていて、さらに筧で温泉を各宿に配給していたのです。温泉地としてのインフラが整っていたことに驚きを隠せません。

但し、熱海七湯の河原の湯の現地案内板に、一般の人が自由に入れるのはここ(河原の湯)だけだったと記されていたように、観光客がお金を払えばどこでも入浴を楽しめる現代とは異なり、やはり、身分のある人や経済力のある層が熱海で湯治を嗜んでいたのだと思われます。

江戸時代の大湯

義堂が住した円覚寺や瑞泉寺は有名なのでご存知の方も多いと思いますが、報恩寺は西御門の谷戸にあった禅宗寺院です。鎌倉市立第二中学校が跡地です。

報恩寺のあった西御門谷戸の入口

関連記事

ブログ内検索

ブログ アーカイブ

お問い合わせ

名前

メール *

メッセージ *

QooQ