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追浜の地名の由来の検証

2020/07/21

横須賀市 地名

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追浜の地名の由来の検証


「追浜の地名の由来の検証」

今回は、横須賀市にある「追浜(おっぱま)」の地名の由来とその検証を行ってみようと思います。はじめて「追浜」と聞いたとき、思わず聞き返してしまいました。どこか聞きなれないインパクトのある不思議な地名ですよね。

目次 ●追浜駅周辺
●追浜の地名の由来と源範頼
●文献・資料における追浜
●浦郷の大字と追浜
●まとめ
●追記
●匿名さんによる追浜の地名の由来の考察

追浜駅周辺


京急線追浜駅周辺は、大正3年(1914)に町制となるまでは、浦郷村の範囲であったため、追浜の郷土資料では、周辺を総称して浦郷と呼んでいます。『新編相模国風土記』では「浦ノ郷」と記され、また古くは「浦ノ江」とも呼ばれていました。最も古いのは、元応元年(1319)の『金沢貞顕書状』にある「浦郷」が文献における初見だと思われます。

それでは、追浜の地名の由来にいく前に、周辺の古地名や史跡を把握しておくと、より一層理解が深まるので、もう少しだけ読み進んでください。

Google map 追浜周辺
①金沢八景駅 ②野島 ③鉈切 ④榎戸湊 ⑤榎戸湊

浦郷地域で最も有名な遺跡が鉈切遺跡と呼ばれるもので、その名のとおり、鉈切(なたぎり)という土地から出土した牛頭骨を犠牲とする雨乞いのための祭祀遺構となります。現在、鉈切という住居表示はありませんが、少なくとも明治初頭まではこの字名が存在していました。遺跡は現在の住居表示でいう夏島町の横須賀スタジアムのある辺りから出土しています。

迅速測図 明治初期の鉈切周辺
昔の鉈切(追浜)は海浜部に面していた

鉈切遺跡・殺牛祭祀

鉈切遺跡・殺牛祭祀

鉈切遺跡は、京急線追浜駅から夏島方面に向かった現在の横須賀スタジアムの辺りから出土しました。遺構からは、古墳時代の集落跡・祭祀用の高杯・土器・土製玉塁・滑石製模造品など多数の遺物が見つかり、なかでも牛頭骨を神に捧げる雨乞いの儀式、河伯の儀...


鉈切周辺は、昔は海岸線に面した漁村集落が広がっていましたが、新田開発(蒲谷新田)がなされ、さらに明治末期から大正にかけて旧日本軍が航空基地(追浜飛行場)を建設したため周辺が埋め立てられ軍用地となってしまいました。したがって強制的にこの地から退去させられた住民も多く、また丘陵も削られ大きく地形が崩されてしまっています。

そして戦後、ここに築かれた軍用地跡地は、自動車メーカーなどの工場が建ち並び、往時では金沢八景の一画を担っていた景勝地が見る影もなくなってしまいました。当時と現在の地図を見比べれば一目瞭然、埋め立てが進み、夏島も烏帽子島も今は存在しません。

現在の鉈切周辺

長享元年(1487)に成立した『廻国雑記』より
ここは頼朝公のすませ給うとき、金沢、榎戸、浦河とて三つの湊なりけるとかや


榎戸湊は現在の住居表示でいう浦郷町にあります。こちらも現在では埋め立てが進み、港としての存在感も薄れましたが、往時では三浦半島を代表する港の一つとして認識されていたことが『廻国雑記』の記述からもわかります。それでは、このあたりで追浜の地名の由来にまいりましょう。

観音寺から眺めた榎戸湊

追浜の地名の由来と源範頼


源頼朝の弟・蒲冠者範頼は、建久四年(1193)の曽我兄弟の仇討事件に対し放った失言に言質を取られ、伊豆国修禅寺に幽閉されのち、殺害されてしまいます。

一方で追浜の伝承では、以下のような伝説が残されています。

蒲冠者範頼は、秘かに修禅寺を抜け出し、榎戸港に上陸していたといわれています。しかし間もなく幕府からの手勢が迫ってきます。そこに漁師の平兵衛が鉈で追手を退け、難を逃れたとされています。このとき範頼は、平兵衛に短刀一口と守護観音、そして蒲冠者の蒲の字に、匿ってくれた谷を加えた蒲谷姓を与えました。


それ以来、平兵衛が鉈を振ったことから鉈切、追手を追った浜を追浜と呼ぶようになったといわれています。ここまでが地元に伝わる伝承ですが、文献・資料からもう少しだけ追浜を掘り下げてみたいと思います。

平兵衛が範頼を匿った谷の現在(正禅寺の辺り)

文献・資料における追浜


それでは、学術的に、そして資料至上主義的に追浜を検証してみたいと思います。追浜の郷土資料から重要部分を抜き出してみました。


●「瀬戸神社の寛文10年(1670)の檀家諸事控に乙浜とある。」

●「明治16年(1833)に浦郷村戸長が県に提出した浦郷村字地誌(字地書上)で追浜におっぱまのふりがながあったという。」

●「オヒハマと呼んでいたようである。」

●「風土記などには(追浜の地名は)小字としても見当たらない。」

●「海軍航空隊の偉い人が追われる浜では縁起が悪いとしておっぱまとしたともいわれる。」

●「大正6年に追浜の字名を付す。」


追浜には「乙浜」という字があてられていたということなので、「オツハマ」「オトハマ」と発音していた可能性も考えられます。また、促音「ッ」の表記が一般化したのは、第二次世界大戦後のつまり昭和20年代なので、上記した明治16年に「おっぱま」とフリガナがあったという情報はガセネタである可能性が高いでしょう。ということで、ここまでのところをまとめてみましょう。


●追浜は乙浜と記されていた。もしくは乙浜とも記されていた。

●追浜の文献・資料による初見は、瀬戸神社文書にある寛文10年(1670)である可能性が高い。

●追浜は「オッパマ」の他、「オツハマ」「オトハマ」「オヒハマ」とも発音されていた可能性がある。

●旧日本軍の将校が追浜の発音を「オッパマ」とした可能性がある。

●追浜は大正6年(1917)にはじめて字名(住所)となった可能性が高い。

田浦から眺めた深浦湾

浦郷の大字と追浜


ここで明治9年(1876)における浦郷村を構成する大字(現在でいう町名)を確認してみましょう。

本浦鉈切深浦榎戸日向

なんと、明治まで大字だったこれらの地名は現在は住居表示に使用されていません。特筆すべきは、そこに小字でもなかった追浜に航空基地が建設されたことで、追浜が一躍脚光を浴び、大正6年には字名に昇格、さらには昭和5年(1930)に湘南電気鉄道(京急線の前身)が追浜駅を設置するに至りました。

これ凄くないですか、大正時代まで小字でもない地名が、本浦・鉈切・深浦・榎戸・日向などの大字を差し置いて、昭和5年には駅名という、地域を代表するポジションにまで登り詰めたんですよ。これはもう武士で例えるならば、下級武士どころか、名もなき郎従が婆娑羅武士さながらに下克上を成功させ、一地方の領主になるぐらいの有り得ない出来事ですよ。

追浜飛行場には、横須賀海軍航空隊という、軍の花形が所属していたこともあってか、やはり追浜への注目度が高かったことがうかがえます。ここで思い出されるのが、上記したこちら。

海軍航空隊の偉い人が追われる浜では縁起が悪いとして追浜(おっぱま)としたともいわれる。」

やはり、このときに「おっぱま」という発音が一般化した可能性が高いのではないでしょうか。だって「乙浜」からどうやって後世の人が「おっぱま」という発音を汲み取れるのか不思議じゃないですか。

鉈切の権現山から眺めた東京湾と追浜飛行場跡
追浜商店街

まとめ


●17世紀以前の文献・資料に追浜の記述が見当たらないことから、源範頼の伝説が伝えるような、追浜が鎌倉時代からあった地名だとは今のところ証明できない。また範頼が修禅寺を抜け出すという史実にない部分があるため、源範頼伝説にはいささか疑問が持たれる。

●追浜の発音には複数の選択肢があり、また明治に旧日本軍の将校が呼称を変化させている可能性があるため、追浜が最初から「オッパマ」と発音されていたかどうかは疑問が残る。

●そもそも旧日本軍が追浜に飛行場を建設しなければ、追浜は字名にもならなかった可能性が高く、また京急線駅名も、これまでの歴史を鑑みれば浦郷駅が妥当であった。今回、追浜という地名の謎の全てを解き明かすことはできなかったが、それまで小字でもなかった地名が、一瞬にして地域を代表する存在にまで昇りつめたその様は、まるでドラマでありこれまた歴史である。

『追浜の歴史探訪』より
現在でいうところの横須賀スタジアムの東側で日産自動車工場のある辺り

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追記


鎌倉遺構探索宛てによくメールをくださる「匿名」さんから、今回のテーマに関して、以下のようなご意見をいただきました。個人的にはとても勉強になりましたし、とても納得のいくものだったので、ぜひこちらも皆さんに読んでいただきたく追記致しました。また上述した明治16年(1833)に浦郷村戸長が県に提出した浦郷村字地誌(字地書上)の画像もいただいたので掲載いたします。

浦郷村字地誌(字地書上)

匿名さんによる追浜の地名の由来の考察


全くの個人的考えですが「おっぱま」は、かなり古くからそう呼ばれていたのではないでしょうか?しかし元々は「おつはま」であったものが「おっぱま」と転訛した様に思います。近くには現在でも「乙鞆(おっとも)」が有り、古くは「鷹取(たかっとり)」や「夏島(なっちま)」、地名以外では「追いかける(おっかける)」「始める(おっぱじめる)」など促音が付きやすい風土だと言う要素もあります。

「はま」→「ぱま」は促音由来の半濁音なので不自然ではないと思います。「おつはま」の表記は「乙浜」が一番自然ですかね。ではなぜ「追浜」の表記に変わったのか?それは、ここで「範頼の伝説」が影響を与えたと推測すると、なんとなくでも説明がつきそうです。前述の様に「追っかける」が常用される地域では「おっ」=「追」を当てるのも想像できます。

「追浜」=「おいはま」は「追浜」の字面だけを見て読まれた後付けかなと思います。「追浜」を知らずに「おっぱま」と読める人は、まず居ないでしょう。地図や文書などに書かれた「文字だけ」を見た人に「おいはま」と勝手に読まれたのではないでしょうか。

航空隊幹部の話は、どうなんでしょう、、、。自分は「追(おい)」からは「追われる」よりも「追う」を連想するし。漢字の意味的にも同様です。「範頼伝説」でも「追いかけた側」ですからね。むしろ縁起は良い気がします。それに追浜航空隊は技術系の航空隊ですから、それほど実戦での勝敗に関連付けない様な気がします。まぁ、当時の兵隊ですから何を言い出すかわかりませんけどね。

まとめると、乙浜→おつはま・おとはま→おっぱま(自然転訛)→追浜(範頼伝説流布後)→(活字として目にするようになった後)一部でおいはま→町名と制定され「追浜(おっぱま)」が世間に認知されるに至るって感じです。

〇お世話になった参考著書・資料

□追浜の歴史を探るの会編『追浜の歴史探訪』
□上杉考良編『新・追浜歴史年表』
□横須賀文化協会編『横須賀の地名』
□鈴木かほる著『三浦半島の史跡みち』

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