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鉈切遺跡・殺牛祭祀

2020/07/20

遺跡 横須賀市

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鉈切遺跡・殺牛祭祀


鉈切遺跡・殺牛祭祀

今回は、神奈川県横須賀市で発掘された、牛頭骨を中心に周囲に杯をめぐらせるという、何とも不気味な祭祀遺構、鉈切遺跡の疑問に迫ってみました。

目次 ●鉈切遺跡
●なぜ雨乞いなのか
●なぜ牛なのか
●スサノオと牛頭天王
●殺牛祭祀の終焉と穢れ意識
●まとめ
●あとがき

鉈切遺跡


鉈切遺跡は、京急線追浜駅から夏島方面に向かった現在の横須賀スタジアムの辺りから出土しました。遺構からは、古墳時代の集落跡・祭祀用の高杯・土器・土製玉塁・滑石製模造品など多数の遺物が見つかり、なかでも牛頭骨を神に捧げる雨乞いの儀式、河伯の儀を行った跡がほぼ完全な形で出土しています。遺構は土坑に埋納した牛頭骨を中心に、土師器杯・甕などが周囲に配置され、その他、祭壇に火焚場、そして同じ層から卜甲なども見つかっています。

鉈切遺跡

なぜ雨乞いなのか


私たち一般素人には何故これが雨乞いの儀式だとわかるのか疑問に思いますよね。そこでこちらの資料を見てみましょう。

『日本書紀』皇極天皇元年(642)7月戊寅条より
日照りが続いたので、雨乞いのため牛馬を殺して諸社の神を祀り、河伯に祈ったりしたが、全く効果がなかった


文中にある「雨乞いのため牛馬を殺して」という部分と、実際に出土した遺構が牛頭骨を中心に、杯類がめぐらされていたことから、この儀式に相当すると考えることができます。実際にも遺構は6世紀末から7世紀初頭と推定されているので時期的にも大よそ合致することになります。

ちなみに、神戸市東灘区御影町にある郡家遺跡からも牛頭骨を使った雨乞いの儀式と考えられる祭祀遺構が見つかっています。こちらは5世紀末から6世紀初めと推定されています。

Google map 鉈切周辺
①金沢八景駅 ②野島 ③鉈切(夏島町) ④追浜駅

なぜ牛なのか


鉈切遺跡が雨乞いのための祭祀遺構であることがわかりましたが、今度はなぜ牛頭骨なのかという疑問がわいてくると思います。これには古代中国大陸にあった殺牛祭祀(動物神饌祭祀)という風習が根底にあるようです。

そもそも古代中国大陸では、牛肉こそが奢侈品(程度や身分を越えた贅沢品)であり、牛肉の提供こそが最高級の接待となっていました。そのため、王の平癒祈願のために牛を殺し神に供えるといった病気平癒のためのもの、その他にも死者を弔うためのもの、または報奨・誓約のために牛殺祭祀を行っていたことが文献・資料などからわかっています。

日本書紀にある「河伯」とは、中国では河の神であり水を支配する水神とされています。以下にあるとおり、河伯の儀による殺牛が記されています。

古代中国大陸の地理書『山海経』より
卜辞に河の祭祀をいうものが多く、牛を犠牲として沈めることがある


さらに、そもそもこの「犠牲(いけにえ)」という字、よ~く見ると「牛」が入ってますよね。犠牲という漢字の概念がそもそも牛だったことがわかります。



『古語拾遺』より
牛の肉を溝口に置いて蝗の害を防ぐ


古代中国大陸では、牛を捧げたことで雨を祈るというより、供応から平癒祈願・弔い・報奨・誓約など、牛を捧げる目的は多岐にわたっていたことがわかりました。実際に日本においても、上記した古語拾遺の記述から、牛を捧げることが必ずしもイコール雨乞いという訳ではないことがわかります。但し、雨を願うのも、蝗の害を防ぐのも、どちらにしろ五穀豊穣を願うことには変わりありませんね。


『日本霊異記』中巻より
漢神の祟りにより牛を殺して祭る


中国の殺牛祭祀が日本に伝来すると、殺牛漢神祭祀となり、日本では漢神の祟りを鎮めるために牛を殺すという意味合いにもなるようです。


房総安房の牧場にいた激カワ子牛たち

スサノオと牛頭天王


『日本書紀』『古語拾遺』『日本霊異記』『続日本紀』などの記述から、日本における殺牛祭祀は、古墳時代後期頃には伝来していたと考えられます。またこの殺牛祭祀は、あくまでも渡来人による外来祭祀であり、日本の農耕儀礼の一般的な祭祀ではないとする説があります。つまり祭祀に関わっていたのも渡来人氏族であると考えられています。

新羅には、牛は牛でも斑牛(まだら模様の日本では一般的なイメージの牛)を捧げる殺牛祭祀が伝わっており、『日本霊異記』にもその「斑牛」の記述があることから、日本の殺牛祭祀は、大陸から直接受け継いだものではなく、新羅を経由して伝わったのではないかと考えられるようです。

これを後押しする説として、上記したように、古代中国では祭祀で使う、牛をはじめとする動物を犠牲と呼びますが、この犠牲という言葉の原義は、毛色が均一なものを指します。

このことから、中国では毛色が均一な動物を犠牲にしていたことがうかがえます。したがって、殺牛祭祀において斑牛を使っていた日本は、大陸の風習に新羅の特色を加えられ伝来してきたものと考えられるでしょう。

google map 古代朝鮮半島
新羅は③の辰韓の辺り

興味深いことに、スサノオの別名、というか本地とされるのが牛頭天王ですが、これには諸説あるものの、スサノオが高天原から追放されてたどり着いたのが、新羅にある牛頭山と呼ばれる場所だという説があります。ですからこのとき、もしかしたらスサノオが殺牛祭祀の風習を持ち帰ったのではないでしょうか、だから牛頭天王と呼ばれるのではないでしょうか。

スサノオ

殺牛祭祀の終焉と穢れ意識


その後、殺牛祭祀は、国がこれを禁じたことにより、10世紀頃から姿を消していく、もしくはカタチを変えていくことになります。その要因は、仏教による罪・穢れ意識の定着によるものではないかと考えられています。日本で初めて請雨経法を修したのが空海(774~835)だといわれているので、9世紀頃から読経による雨乞いと殺牛による雨乞いが並立し、徐々に殺牛が排除されていったのでしょう。

鎌倉の田辺ヶ池では読経による雨乞いが行われていた
鎌倉の雨乞い

鎌倉の雨乞い

高谷重夫著『雨乞習俗の研究』によれば、雨乞いの記述が『扶桑略記』の推古天皇三十三年(625)の記事、『日本書紀』の皇極天皇元年(642)の記事にそれぞれみられるとあることから、古文献で確認できる日本の雨乞いに関する最古の資料は七世紀に遡ることにな...

まとめ


●鉈切遺跡は、雨乞いの儀式・河伯の儀を行った遺跡であると同時に、それは牛頭骨を犠牲とする殺牛祭祀の一例としても分類される。

●祭祀における犠牲が牛であることは、古代中国における価値観と風習によるところが大きいと考えられる。

●殺牛は従来の日本人の習俗にない価値観であり、また外来祭祀であることからも、殺牛祭祀には渡来人氏族が関わっていた。

●殺牛祭祀は、仏教による穢れ意識から、10世紀前後には国から禁止され、行われなくなった。

あとがき


日本人が牛肉を一般的に食すようになったのが、明治の文明開化以降だといわれているので、我々にはあまりピンときませんが、大陸や半島にとって、牛は食糧でありながら、農作業も手伝ってくれるという、家畜として比肩するものがないほどの有益な存在だったはずです。その貴重な牛を神に捧げれば、願いも叶うのではないかと考る彼らの行動には一定の理解を示せると思います。

これは現代における自己啓発の概念にも通じるのではないでしょうか。ナポレオン・ヒルの名著『思考は現実化する』では、思考を現実化する原則の一つとして、目標を達成するために代償を支払うことが推奨されています。自分にとって大切なもの、もしくは欠かせないものを目標達成のために一時的に手放すぐらいの気概がないとダメだということですね。でも大陸の人たちは「そんなこと知ってるよ」と言わんばかりに、3000年以上も前から実践していたことになります。

お世話になった参考著書・資料

□門田誠一著『東アジアにおける殺牛祭祀の系譜』
□追浜の歴史を探るの会編『追浜の歴史探訪』

地図情報

名称:鉈切遺跡
住所:神奈川県横須賀市夏島町2 追浜公園内
現状:スタジアム

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