骨卜・亀卜
骨卜・亀卜 |
骨卜・亀卜とは
鹿・猪など獣類の肩胛骨の骨を灼き、そのひび割れ方で神意を問う術を骨卜(こつぼく)といい、太占(ふとまに)とも呼ばれています。一方で亀の甲羅を使用する場合は亀卜(きぼく)と呼ばれます。また骨卜(こつぼく)で使用された骨は卜骨(ぼっこつ)、亀卜(きぼく)で使用された亀甲はト甲(ぼっこう)と分類されます。
卜骨 |
卜骨 |
骨卜・亀卜の起源
古くは新石器時代の竜山文化期から、もしくは甲骨文字でも知られる古代中国の殷代にその起源が遡るとされています。『古事記』の国生み神話に「布斗麻邇爾卜相(ふとまに卜相ひて)」とあり、また『日本書紀』には「天神以太占而卜合(天神太占を以ちて卜合ひたまひ) 」とあります。これら『記・紀』の記述を鵜呑みにするのであれば、太占は神代から既に日本に存在していたことになります。
弥生時代中・後期の卜骨が出土した大浦山洞穴 |
発掘調査の結果から、壱岐・肥前・筑後・伊予・備中・備前・出雲・因幡・摂津・河内・大和・志摩・尾張・駿河・伊豆・相模・武蔵・下総・上総・安房・上野・信濃・加賀・佐渡の広範囲から弥生時代のものと推定される卜骨が出土しており、最も古いものでは弥生時代前期の大よそ2100年前に遡ります。したがってその歴史は日本国内においても驚くほど古いものであったことがわかります。
卜骨出土地域 |
卜部とは
古代律令国家において亀卜が採用され、これには卜部(うらべ)と呼ばれる品部(職業集団)が従事していました。9世紀中頃に編纂された養老令の注釈書『令集解』や平安中期の律令の施行細則『延喜式』などによれば、卜部は対馬・ 壱岐・伊豆の三国から選ばれることになっており、また対馬から10人、壱岐・伊豆から各5人を選ぶことが規定されていました。これを三国卜部と呼びます。また中央に進出した京卜部も含めると厳密には四国卜部とも呼ばれます。
卜部がいた伊豆大島 熱海から |
奈良時代の戸籍・計帳や平城京出土の荷札木簡などからは、卜部三国とされた対馬・壱岐・伊豆以外にも、筑前・因幡・近江・駿河・甲斐・武蔵・安房・上総・下総・常陸・陸奥において卜部もしくは占部姓の人物の存在が確認されています。この卜部と占部の表記の違いは、術者の扱う卜術が亀卜(卜部)か骨卜(占部)かの相違に起因するものと考えられています。
卜部姓(緑)と占部姓(赤)の分布図 |
変遷が意味するもの
骨卜には焼灼や削り方に段階的な変遷がみられ、学術的に弥生時代中後期から出現したものを第二形式、古墳時代前期の第三形式、古墳時代中期の第四形式、そして卜甲が出土する古墳時代後期から第五形式として分類されています。
特に第五形式となる卜甲の出現が革新的だったようで、亀卜が国の祭祀となり、卜部が神祇官に所属するのがこの頃となります。但し、亀卜が国の祭祀となったからといって骨卜が廃れたのではなく、7世紀以降は牛・馬などの骨も使用されるようになっていることから、並立するように骨卜と亀卜が存続していたようです。
そしてこの段階的な変遷が何を意味するのかといえば、それは大陸でヴァージョン・アップした新しい形式を携え運んできた渡来人たちが波状的に日本に訪れていたことを示すのでしょう。
卜骨が出土した海蝕洞穴に祭られていた剣崎の龍神さま |
卜部の起源
対馬在住の永留久恵氏によれば、対馬が卜部の本家で、壱岐卜部は対馬卜部の一族、そして伊豆卜部も対馬から移された一派だとあり、またこの三国卜部はいづれも雷大臣命(いかつおみのみこと)を祖人とする同族だとありました。一方で壱岐在住の横山順氏によれば、卜部には、伊豆では嶋直、壱岐では土、対馬では上県・下県両郡の直、下県郡の夜良直(与良直)の諸氏がいたとあります。
浅岡悦子著『古代卜部氏の研究』では「亀卜を生業とする全く別の氏族が、ある段階で同系統の氏族として統合された(略)と考えられる。」という見解を示しています。またその別々の氏族を統合したのが東国の卜部と密接な関係を持っていた中臣氏であったようです。
壱岐 壱岐観光PR動画より |
対馬 アンゴルモア元寇合戦記予告PVより |
発掘調査と符合する事実
日本各地で出土した卜甲は古墳時代後期頃のものと推定されています。したがって少なくとも6世紀頃には亀卜が伝来していたと考えられます。そしてこの卜甲が出土したのは、今のところ以下の6カ所でしか存在しません。
対馬 志多留遺跡
壱岐 串山ミルメ浦遺跡
下総 印内台遺跡
相模 鉞切遺跡
相模 浜諸磯遺跡
相模 間口洞窟遺跡
対馬・壱岐・東国という限られた地域でしかこの卜甲が発見されてないばかりか、半数が相模国のしかも三浦半島という興味深い結果となっています。上記したように、卜部の祖が雷大臣命でしたが、『新撰亀相記』には「東国の広範囲に雷大臣の子孫を称する卜部が分布している」とあることから、東国の卜部も三国卜部と同族となります。ですから発掘調査の結果、卜甲が対馬・壱岐・東国でしか見つかっていないという事実は、対馬・壱岐・伊豆に規定された三国卜部の事情とピッタリ符合することなります。
弥生時代後期の卜骨が出土した毘沙門洞穴 |
その後の卜部
卜部の子孫とされる吉田兼倶は、文明十三年(1481)に日本書紀講義のなかで、神代に「一万三千七百九字」の文字があり、「神代ノ文字ハ、亀のトデ知事ゾ」と講義していました。卜術は「ト・ホ・カミ・エミ・タメ」と、五句からなる呪文が用いられていましたが、これが漢字伝来以前に文字があったとする「ホツマツタエ」などの神代文字のヒントになっています。
その後、近世にて神代文字ブームが巻き起こり、当時から真贋についての議論がなされ現在に至ります。吉田兼倶の時代ではもう卜部としての仕事があまりなかったのかもしれませんね。
宮川からの景色 手前が安房崎で向こうは房総半島 |
まとめ
●古代中国の殷代から既に亀卜が存在していたことから、卜術は大陸で発祥した習俗と考えられる。
●発掘調査の結果、鹿・猪など獣類の骨を用いた骨卜は、大よそ2100年前の弥生時代に既に存在していたことがわかった。
●発掘調査の結果、亀甲を用いた亀卜は、少なくとも6世紀頃までには日本に伝来していたと考えられる。また、日本国内においては、骨卜(鹿卜)が先行し中心となっていた。
●対馬・壱岐・伊豆から選ばれた卜部が神祇官に所属し、亀卜を行っていた。
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あとがき
ということで、今回は卜術の激アツ地域でもあるその三浦半島の画像をメインに使いましたが、ここで今さら思い出したことがありまして、昨年に、ヒノキ新薬が刊行しているエプタという雑誌の2019年9月号に鎌倉遺構探索の写真が掲載されました。それがこちら下画像です。テーマは鎌倉ではなく貝です。興味のある方はチェックしてみてください。→エプタHP(http://epta.main.jp/)
間口湾の海蝕洞穴からの景色 きっとこんな景色を見ながら骨卜をやっていたのだと思う |
ここで、同書のちょうど鎌倉遺構探索の画像が使用された「日本人と貝塚」という項目にとても興味深い記述があったのでご紹介致します。
縄文時代の日本人はハマグリを好んでいたそうですが、弥生時代以降、急激にアワビの需要が高まったそうです。特に壱岐と三浦半島の洞窟遺跡からはアワビばかりが出土するようで「そこには何らかの他所からの文化的な影響が働いているに違いない」とあり、そしてその文化的な影響を与えたのが「古来アワビを利用してきた中国」ということになるようです。
特にアワビが出土する壱岐と三浦半島は、全国で卜甲が出土する6カ所しかない地域に含まれることは上述したとおりです。しかもアワビの需要が高まったのは弥生時代以降で、中国の文化的な影響が働いているという部分からは、弥生時代に大陸から多くの人が渡来してきたこと、そして卜術がその弥生時代から始まっているという事実に、合点がいくほど符合しますね。
浦賀 |
お世話になった参考著書・資料
□永留久恵著『対馬古代史論集』□長崎県勝本町教育委員会編『串山ミルメ浦遺跡』
□國分篤志著『弥生時代~古墳時代初頭の卜骨』
□國分篤志著『史料・神事にみる卜占の手法』
□浅岡悦子著『古代卜部氏の研究』
□東アジア恠異学会著『亀卜』
□エプタ編『貝躰新書』
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