2015年2月7日土曜日

朝比奈三郎義秀の伝承は本当か?


朝比奈三郎義秀


朝比奈三郎義秀は、北条氏と敵対しながらも和田合戦での壮絶な活躍から、『吾妻鏡』に「神のよう」「彼と戦って死を免れない者はいなかった」「天地を震わせる」と絶賛されました。その豪傑無双ぶりに、近世では歌舞伎の狂言や講談などで取り上げられ、現在まで語り継がれています。

朝比奈門破り 勝宮川春章画

彼は侍所別当和田義盛の三男で、安房朝夷郡和田(南房総市和田町)、もしくは朝平南郷(南房総市千倉町)で生まれ育ったと云われています。『源平盛衰記』には、巴御前が母だとする説、『三浦古尋録』には、木曾義仲が父だとする説などがあります。もちろんこれらは真面目に検証すれば、すぐにウソだとわかる滅茶苦茶な伝承ですが、それは彼が「規格外すぎる」人間だったからこそ、後世にて付けられた噂なのかもしれません。

三浦氏略系図

朝比奈三郎義秀のウソみたいな伝承


『吾妻鏡』における朝比奈三郎義秀の記述の中で、最も個人的に気になるのが、正治二年(1200)9月条にあった将軍頼家の小坪遊覧での出来事です。泳ぎが上手いと評判の義秀は、「この機会にその芸を見せよ」と命令され、辞退できず海に入ることになります。「海上に浮かんで数丁を往き来した挙げ句、波の底に入ってしばらく姿が見えなくなった。人々が不思議に思っていると、義秀は生きた鮫三匹を堤げて御船の前に浮き上がってきた。」とあります。

朝比奈三郎義秀 菊池容斎画

吾妻鏡は、北条氏を正当化するために事実を歪曲化する傾向がみられますが、小坪遊覧での出来事にはあまり政治的な要素はみられないので、義秀のサメを捕まえたという記述はほぼ事実かと思われます。そこで次に思うのが、人間がサメを素手で捕まえることなどはたして可能なのかという疑問がわいてきます。素手でしかも三匹も捕まえてきたという吾妻鏡の記述に、「やっぱりそれはウソだろ」と思わずにはいられません。

現在の小坪漁港

世界には信じられない人がいる


ウソウソと否定ばかりするのも悪いので、実際に人間が素手でサメを捕まえるような事例があったのかネットで調べてみました。その結果・・なんと、ありました。ロイターの2007年のニュースに「オーストラリアの男性が体長1.3メートルのサメを素手で捕獲した」とあります。どうやらその男性は、釣りをしている最中に擬似餌を追いかけるサメを発見し、そのまま素手で捕獲したそうです。しかもかなりウオッカを飲んでいたようで、本人の後日談として「酔いが覚めてから自分のやったことを思い出し、少し馬鹿なことをしたと反省しました」とあります。いくら酔っ払っていたとはいえ、オーストラリアに義秀級の超絶猛者がいたことに開いた口が塞がりません。ということで、このことからも人間は素手でサメを捕まえることができるということが現代でも証明されました。吾妻鏡の義秀の記述はほぼ事実だろうという結論に至ります。

フォト蔵 ユニバーサルスタジオより

サメ=ワニ?


一番上のタイトルで使用した画像は、江戸時代の浮世絵師・歌川国芳が描いた朝比奈三郎義秀です。まさしく小坪遊覧でサメを三匹捕まえたというその場面ですが、絵図ではサメではなくワニが描かれています。何故そうなったのか悩みますし、そもそも日本にワニがいたのかという疑問もわいてきます。Wikipediaによると、日本にワニ類は棲息していないが「ワニ」という名詞は古来より存在し、本来はサメ類を指す名称だとありました。

ゆんフリー写真素材集より

鎌倉時代は怪物だらけ?


ちなみに朝比奈三郎義秀の他にも畠山重忠という超絶猛者がいます。彼は『平家物語』で「鬼人の仕業」と評された怪力の持ち主で、例えば、永福寺造営の際、長さ3メートルもある石を抱え、池を渡って頼朝の指示通りの場所に持っていったと『吾妻鏡』に記されています。重忠が持ち運んだこの石がどれくらいの重さなのか具体的なグラム数まではわかりませんが、3メートルもある石って・・、そもそも人間が抱えられる重さなのか悩んでしまいます。

永福寺跡と礎石

そしてもう一つ有名なのが、源義経の一ノ谷での戦いです。断崖絶壁を馬で駆け下り、平家の陣を背後から襲ったというあの有名な場面です。このとき重忠は、自分の馬を担いで崖を下りていったと云われています。義秀に引けをとらない無茶苦茶な伝説ですが、そもそも日本にもともといた馬は、四尺(121cm)ぐらいだったそうなので、もしかしたら可能なのかもしれません。それでも当時の人からすればという話で、現代に生きる私たちが真似できるようなことではありませんね。

鎌倉時代の人たちの身体能力


以前にTVでアフリカの男性が5.0もの視力があると言っていたのを覚えています。しかも本人はもともと8.0の視力だったのが、日本に来て視力が悪くなったと言っていました。この事例からも一つ思いましたが、現代に生きる私たちは、高度に発達した文明利器のおかげで、退化した身体能力がたくさんあるのではないでしょうか。未だに狩猟などを行っている一部のアフリカの人たちは、ときには肉食獣と格闘しなければならないこともあるでしょう。その身体能力は我々が想像する以上のものかもしれません。つまり鎌倉時代の日本人には、アフリカの人たちのような肉食獣と格闘するだけの原始的でパワフルな身体能力が未だこのときは備わっていたのではないでしょうか。

太平記に描かれた鎌倉武士

もう一つの伝承


朝比奈三郎義秀のもう一つの伝承として、朝比奈切通を一夜にして切り開いたという言い伝えがあります。「一夜」といえば、豊臣秀吉が小田原征伐の際に構築した一夜城が思いだされます。この場合の「一夜」とは、本当に一晩で城を築きあげたのではなく、一夜にして出来上がったように見せかけたことがその名の由来となっています。ですから朝比奈切通の伝承もそうした意味合いがあるのかもしれません。もしも義秀が本当に切り開いたとしても、一晩では尾根を通りやすくするために木々の伐採をするぐらいが限界でしょう。でも、それでも義秀ならやってくれるかも・・という淡い期待を抱かずにはいられません。

朝比奈切通

カテゴリー 鎌倉研究部
記事作成  2015年2月7日

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