房総半島(千葉県)と紀伊半島(和歌山県)には、地名・食文化・方言など、多くの共通点・類似点のあることが指摘されています。今回はこの両者の共通点・類似点の訳とは、というテーマで迫ってみたいと思います。
房総半島と紀伊半島の類似点
房総半島・紀伊半島のどちらにもある地名
勝浦・女良(目良・布良)・白浜・加茂・田子・浮島・網代
房総半島・紀伊半島のどちらにもある郷土料理
イワシやサンマのなれずし・なめろう
房総半島・紀伊半島のどちらにもある言葉
たく(煮る)・おおきに(ありがとう)・われ(おまえ)
その他、房総半島・紀伊半島の面積は共に約5000平方キロメートルで、気候も植生も似通っていてます。このように両者には多くの類似・共通項が見出せますが、一体どのような経緯があったのかを調べてみました。
漁業の繋がり
房総・紀伊半島に類似点が多くみられる要因の一般的な定説として、近世にて紀州(和歌山)の漁業関係者が房州(千葉)へ移住してきたためだといわれています。
実際にも千葉県鋸南町の勝山港では17世紀頃から捕鯨が行われたきましたが、これは紀州の捕鯨船が難破し、房総に漂着したことから、その乗組員が房総の漁民に捕鯨技術を授けたことに始まるといわれています。
歌川国芳(1798~1861)捕鯨の図 |
千葉県は全国2位
房総・紀伊半島の類似点というテーマを語るうえで欠かせないのが熊野神社の存在です。房総半島は平安末期に京都の新熊野社の所領支配となり、また南北朝期から室町期にかけては安房国自体が熊野新宮(熊野速玉大社)の造営費用を賄う国に指定されていました。
そんな歴史が下地となっているためか、千葉県では260を超える熊野社が存在し、また熊野神社の数が全国で2番目に多い県という統計結果が出ています。こうした事例からも、熊野神社本宮のある紀州と房州の間で交流があったのは明白でしょうか。
館山市安東の熊野神社 |
彦狹知命(紀伊忌部の祖)
房総の安房国一之宮安房神社の起源は2760年以上も昔、天富命(アメノトミノミコト)が阿波(徳島県)の忌部を連れ房総半島に上陸したことに因むと伝えられています。
実際にも大同二年(807)に編纂された『古語拾遺』によれば、国家の祭祀を担当していた忌部の祖が阿波国から房総の地に移り、そこで麻・穀などを植え開拓を進めていったと記されています。
安房(鋸南町・館山市・南房総市・一部を除く鴨川市)と阿波(徳島県)が同じ発音であるのは、こうした天富命と忌部による房総の土地開拓に起因するといわれています。
安房神社にある忌部塚 |
南房総市にある忌部系神社の莫越山神社では、手置帆負命(たおきほおひのみこと)と彦狹知命(ひこさしりのみこと)の二柱が祀られています。この手置帆負命が讃岐忌部の祖、彦狹知命が紀伊忌部の祖だとされています。つまり天富命は阿波だけでなく讃岐や紀伊の人々も連れて房総の地に訪れていたことがわかります。
黒潮文化圏
房総に入植した忌部の内訳として、阿波だけでなく讃岐・紀伊までもが確認できることから、房総・紀伊という視点だけでなく、日本の太平洋側全体に目を向ければ、房総・紀伊の関係は基本的に黒潮の海流によって運ばれる黒潮文化圏の一端なのだということがわかります。
上記した房総・紀伊のどちらにもある地名として勝浦がありますが、勝浦は徳島県にもあります。また伊豆には妻良(メラ)・加茂・白浜・浮島・田子・網代と、房総・紀伊に共通する地名の大よそが含まれています。紀州をはじめ西国から船に乗ってきた人たちが伊豆を経由した、もしくは伊豆にも定着したことは明らかでしょう。
伊豆白浜 |
房総・紀伊半島の三浦一族
房総・紀伊半島にみられる共通項の主な要因として漁業・熊野神社・忌部の三つを列挙してみましたが、さらこのテーマにもう一つ付け加えてみたいと思います。鎌倉時代に隆盛した関東の名族・三浦氏の登場です。
三浦一族と房総半島
三浦氏一族といえば、三浦半島を思い浮かべるかもしれませんが、よくよく調べてみると、一族の杉本や佐奈田などが既に平安末期から房総に進出し所領の拡大を図っていたことがわかっています。その後の鎌倉時代でも、惣家や和田などが房総半島に多くの所領を有していました。三浦一族の佐原氏は紀伊守護
鈴木かほる著『相模三浦一族とその周辺史』によれば、三浦大介義明の末子である佐原十郎義連は、紀伊(和歌山県)・和泉(大阪府)両国の守護であり、また遠江国城飼郡笠原荘(静岡県掛川市)の惣地頭兼預所だとあります。佐原氏は、駿河・紀伊・和泉の三国を領し、遠州灘に面した海陸交通の要衝・笠原荘を押さえ、本拠三浦半島を海路で結ぶネットワークを有していたともあります。三浦半島にとどまらず房総半島をも支配していた三浦一族の佐原氏が紀伊の守護職に就いています。
朝比奈三郎が安住した地とは
三浦一族の朝比奈三郎義秀は、和田合戦の窮地を脱したのち、船で安房から西国に向う途中、熊野灘で遭難し、太地(和歌山県)に漂着し住みついたという伝説があります。そして太地捕鯨を取り仕切ってきた和田姓の一族がその義秀の後裔であるといわれています。紀伊徳川家の三浦氏
三浦一族とされる房総の正木為春は、主君里見氏が改易の憂き目に遭ったとき、妹のお万の方が徳川家康の側室となった縁から徳川家に仕え紀州藩の家老となっています。そしてお万の方の子には紀伊家の祖・頼宣と水戸家の祖・頼房がいます。このように、三浦氏一族は房総に進出し、紀州にまで進出しています。紀州をはじめ西国から先進的な文化を伝えられた東国の人たちがまた紀州や西国に戻るように進出しています。
紀伊から房総へ、そしてまた房総から紀伊へと、この世の理の如く、全ては循環して世の中が廻っていることが改めてわかります。
まとめ
上記したように、そもそも日本の太平洋側では黒潮の海流に乗って西国から東国へと先進的な文化が伝えられてきました。ですからあくまでも房総・紀伊半島の類似・共通点はその一端であることに過ぎないのは確かなのですが、捕鯨をはじめとする紀州の漁業関係者らが特に房総との関係が深かったことなどから、房総と紀伊の間には類似・共通点が多く見出されるのだと思われます。
グーグルマップ
今回のテーマを調べながらついでに地名をプロットしたグーグルマップも作成しておいたので、興味のある方は別枠で大きくして見てみてください。意外に讃岐と安房にも共通する地名が多かったりするんですよ。
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