報国寺塔頭東禅院〈金剛窟地蔵尊〉
金剛窟地蔵尊 |
金剛窟地蔵尊は鎌倉の丘陵に無数に開口するやぐらの中でも際立って特異な存在と言えるでしょう。何故なら『鎌倉市史:考古編』に「地蔵立像が刻まれたやぐらは鎌倉でこれ一例しかない」と記されています。個人的にもお気に入りの史跡の一つです。今回はそんなエクセレントなやぐらご紹介します。
基本情報
名称 :金剛窟地蔵尊分類 :やぐら
用途 :礼拝所・祈願所
住所 :神奈川県鎌倉市浄明寺2−6−23
料金 :なし
駐車場:なし
公共交通機関:JR「鎌倉」駅よりバスで「金沢八景行き」「鎌倉霊園正門前太刀洗行き」「ハイランド循環バス」のいづれかに乗車し「浄明寺」にて下車
宅間谷
今回紹介する金剛窟地蔵尊は、鎌倉市の報国寺がある宅間谷に所在します。宅間谷の地名の由来は宅磨派の絵師が住んでいたことに因むと伝えられていますが実際のところは定かではありません。
報国寺は建武元年(1334)に上杉重兼が開創したとされています。『相模国風土寄稿』に報国寺の範囲を「「東西凡そ四五町南北十七八町許りにして艮方絹張山も境内に属せり」」とあります。結局それは一体どこからどこまでが範囲なのかいまいちピンときませんが、とにかく報国寺の所領が広かったのであろう雰囲気が伝わってきます。
また義堂周信が自身の日記『空華日用工夫略集』にて、上杉能憲の死に際し「”琢磨谷”に訪れた」と記しているので、少なくとも14世紀末までは宅間谷に宅間上杉氏の屋敷があったと考えられています。
報国寺 |
金剛窟地蔵尊
金剛窟地蔵尊は台座上に立つ地蔵立像が彫られた豪華なやぐらとなっています。特筆すべきはこの地蔵立像が等身大という点です。画像では伝わらないかもしれませんが意外と迫力があります。また古絵図にこの地蔵尊が描かれています。
金剛窟地蔵尊 |
報国寺境内絵図東禅院部分 |
上画像は寛政三年(1791)の報国寺境内絵図の一部です。東禅院と記された上の段に地蔵堂と記されています。また付近には鎮守と記された小さなお堂が描かれています。東禅院と記された箇所には建物が描かれていないので、1791年の時点ではもう既に廃されていたのでしょう。また地蔵堂には建物が描かれているので往時ではこのような覆堂のようなものがあったようです。
そしてさらに興味深いことに、実際にも現地では丘陵を登るようにして金剛窟へ向かうのでこの絵図の地形を実感することができるんです。グーグルマップにも印されている巡礼古道入口から向かうことができます。
宅間ヶ谷 |
金剛窟入口 |
金剛窟への道のり |
途中から見えた宅間ヶ谷の景色 ちょうど正面が報国寺 |
大して歩くわけではありませんが、あの上図の印象から受ける雰囲気より歩きます。そして少しばかりの平場と石切り跡がみられる丘陵壁面に金剛窟が現れます。『鎌倉市史:考古編』によれば、「奥壁には50cm許りの台座上に立つ等身大の地蔵立像が刻みつけられている。風化のため細部不明だが地蔵立像が刻まれているのは鎌倉でこれ一例だけである。」とあります。ともかく現地ではこの迫力と雰囲気に圧倒されます。
地蔵尊金剛窟 |
地蔵尊金剛窟 |
地蔵尊金剛窟周辺 |
ここから巡礼古道といって名越切通のある丘陵を経由して逗子方面に向かうことができます。但し上の絵図にはその道は描かれていません。
巡礼古道 |
金剛窟地蔵尊とは
金剛窟地蔵尊を造営したのであろう東禅院が報国寺境内絵図に描かれていることから、東禅院が報国寺の塔頭であったことは間違いありませんが、絵図以外の資料が見つかりません。『鎌倉市史:社寺編』の報国寺項にも「塔頭は休耕庵・万休庵のほか伝える所がない。」とあります。頼みの『鎌倉廃寺辞典』でさえ東禅院の存在自体が記されていませんでした。また中世の旅行者が報国寺に立ち寄った記録がないともありました。
上杉氏といえば、山内家と扇谷家が最後まで覇権を争っていたことで知られています。蚊帳の外の宅間家は早々に鎌倉を離れていたのかもしれません。そうすると大檀那を失った報国寺も比較的早くに衰退していたのかもしれません。
結論としてこのやぐらに葬送の雰囲気がないこと、また地蔵であること、そして絵図に覆い堂が描かれていたことからも、金剛窟地蔵尊とは墓ではなく、箱根の六地蔵のような礼拝や祈願のための施設だったのかもしれないと個人的には思います。館山市にはやぐらそのものがお堂として活用されていた例もありました。
金剛窟地蔵尊から見た紅葉期の報国寺「・・行かずにはいられない」 |
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