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頼朝の女

2017/05/01

源頼朝

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頼朝の女



今回は源頼朝の女性遍歴をまとめてみました。東国武士をまとめあげ新しい時代を創り上げたカリスマも、女性関係に焦点を当てれば所詮はただの男。そしていつの時代も男が考えることは同じだと、800年近い過去に生きていた彼にとてつもない親近感がわいてきます。

頼朝の女の傾向


頼朝の父である義朝は、京での政務の他、関東での地盤を固めていたので、京都~鎌倉間を往来していました。義朝が自身の子を産ませた女性たちの出生地を調べると、京都・尾張・遠江国蒲御厨・松田・三浦と、見事にこの京都~鎌倉間に点在しています。妻の出生地イコール義朝の活動範囲となります。

一方で頼朝は源平合戦にも参加しなかったように、基本的に鎌倉に腰を下ろしています。そのため頼朝に関わった女性はほぼ伊豆か鎌倉のワンポイントとなります。また頼朝の乳母のほとんどが武家のしかも東国系の女性である点も特筆すべきことでしょう。吾妻鏡にも度々登場する有名な比企尼(武蔵国比企郡)をはじめ、寒川尼(下野国寒川郡)・摩々局(相模国早河庄)・山内首藤俊経の母(相模国山内荘)などが頼朝の乳母として知られています。

沼間の義朝亭跡からの景色
頼朝亭跡(大倉幕府跡)

悲劇の女性 八重姫


文献上で確認することができる頼朝の最初の女性は伊東祐親の娘の八重姫です。安元元年(1175)、頼朝が29歳の頃だと云われています。

頼朝は八重姫の許に通い千鶴という男子をもうけていました。祐親の上京中の出来事で、帰国してこの事実を知った祐親は、激怒し三歳になる千鶴を松川の奥の淵に沈め、八重姫を江間次郎に嫁がせてしまいます。そればかりか頼朝には夜討ちを仕掛け殺害をはかります。しかし祐親の子の祐清の機転により、頼朝は命からがら伊東の地を脱出することができました。

真珠院八重姫御堂

治承四年(1180)、八重姫は待女6人と共に伊東竹の内の別館を抜け出し、頼朝がいる北条氏邸を訪ねましたが、頼朝との面会は叶わず、悲嘆に暮れ真珠ヶ淵で入水し自害したと伝わっています。伊豆韮山にある真珠院には、その八重姫を祀る八重姫御堂が建てられています。

真珠院にある県下最古の五輪塔

八重姫と真珠院

八重姫と真珠院

安元元年(1175)源頼朝が29歳の頃だと云われています。頼朝は伊東祐親の娘の八重姫の許に通い、千鶴という男子をもうけていました。祐親の上京中の出来事で、帰国してこの事実を知った祐親は激怒し、三歳になる千鶴を松川の奥の淵に沈め、八重姫を江間次郎に嫁...

運命の女性 北条政子


北条政子が頼朝の目に留まったのが治承元年(1177)前後 頼朝31歳の頃だと云われています。政子の父である北条時政は、二人の結婚を許し北条氏邸に住まわせていました。平家全盛の時代にあって源氏の御曹司を婿にするというリスキーな選択をするあたり、伊東祐親とは異なり先見の明が時政にはあったようです。

頼朝が鎌倉入りしたのちは、大御堂ヶ谷が政子の本邸であったと云われています。尼将軍と呼ばれていたように、絶大な権力を手にした彼女ですが、4人の子ども全てに先立たれるという壮絶な人生を歩んでいます。

伊豆韮山にある北条政子産湯の井戸
政子が住んでいた鎌倉大御堂ヶ谷

頼朝が愛してやまなかった女性 亀ノ前


吾妻鏡にも記されている亀ノ前は、こちらも八重姫・政子同様もとは伊豆の人で、良橋太郎入道が父です。「顔貌の濃まやかなるのみにあらず、心操、ことに柔和なり」とあるように、気の強そうな政子とは正反対のタイプだったのでしょう。

小中太光家の屋敷があった小坪

亀ノ前が吾妻鏡に初登場するのが寿永元年(1182)6月のこと。伊豆から呼び寄せられた亀ノ前は小中太光家の小坪の家に住んでいました。

何かの用事につけては彼女の許に通っていた頼朝でしたが、寿永元年(1182)11月、亀ノ前をもっと鎌倉に近づけようと伏見広綱の飯島の屋敷に住まわせたのが運の尽き、とうとう御台所政子にバレてしまいます。

政子は牧三郎宗親に命じて伏見広綱の屋敷を破壊させました。広綱は亀ノ前を連れて鐙摺の太多和五郎義久の屋敷に逃げ込み難を逃れたと云われています。翌月、伏見広綱は亀ノ前を匿っていたとして政子に咎められ配流させられるというとんだとばっちりを受けてしまいました。

伏見広綱の屋敷があった飯島の辺り

亀ノ前がその後どのような人生を送ったのかわかりませんが、伊豆に帰るなり、無事に余生を過ごしていたことを願わずにはいられません。

御落胤を産んだ女性 大進局


文治元年(1185)吾妻鏡に大進局が「御密通」とあります。大進局の父は伊佐時長(頼宗とも)と云い奥州征伐の軍功で陸奥伊達郡を与えられのちに伊達姓を名乗った御家人です。

大進局は幕府の女官だったので頼朝と「御密通」の関係に至ったようです。翌年には頼朝の子となる貞暁を産みました。御産所は長門江七景遠の浜の宅と云われています。

御台所政子の怒りは激しく、大進局母子は一時的に深沢の里に逃れ、のちに伊勢国三ヶ山(関町)を与えられ追放されるように京都へ、そして子の貞暁は出家し僧侶として生涯を終えています。

大進局が一時的に隠れた深沢の里
モノレールから見た深沢の辺り

深沢と云えば、湘南モノレール駅のある辺りを思い浮かべますが、当時は大仏のある辺りから深沢と言っていたそうです。また北条重時の極楽寺山荘も深沢とあるので、かなり広い範囲が当時は深沢だったようです。

長谷

三崎の女性 妙悟尼


三崎にある大椿寺というお寺が頼朝の妾だった妙悟尼の屋敷跡だったと云われています。

彼女の出家前の素性がどのようなものだったのか一切の情報がないので話の信憑性自体に疑いを持たれてしまいますが、吾妻鏡で確認できるように、建久五年(1194)8月1日、同年9月6日、翌年の1月25日と8月26日と、頼朝は4回も三崎に出かけています。現地にそういう女性がいても不思議ではありません。

妙悟尼の屋敷跡 大椿寺

妙悟尼がどうして主な文献等に記されなかったかといえば、遊女のような存在であったため特筆すべきことではなかった、もしくは三崎遊覧は三浦氏が主導する接待なので吾妻鏡を監修した北条氏側にはあまり情報が入って来なかったなどの要因が考えられるでしょうか。

番外編 未遂で終わった祥寿姫


頼朝の長兄となる悪源太義平の後家で新田義重の娘を頼朝が見染め恋文を出していることが吾妻鏡の寿永元年(1182)7月14日条に載せられています。吾妻鏡に彼女の名は記されていませんがウイキペディアに祥寿姫とありました。

頼朝は彼女からよい返事がなかったので、新田義重に話したところ、義重は御台所政子の嫉妬を恐れ、師六郎という者に祥寿姫を嫁がせてしまったとありました。これに頼朝が機嫌を損ねたのは当然、源氏の名門だった新田家はその約150年後に義貞が鎌倉を攻め落とすまで、長い長い没落期を迎えることとなります。

悪源太義平を祀る沼間光照寺

番外編 その他御落胤説


丹後内侍が産んだ島津忠久と利根局が産んだ大友能直が頼朝の御落胤と伝わっていますが、偽説と断定されています。特に島津忠久に関しては、近世にて島津藩が頼朝の子孫と自称して墓の整備を行っていることから、噂レベルの御伽話が本当のように広まってしまったようです。

鎌倉の大地主さんによると、現在も頼朝法華堂跡付近(東御門)には島津関係者子孫の皆さんが軒を連ねているそうです。

謎多き東御門

葛西清重の一件は特例か?凡例か?


吾妻鏡の治承四年(1180)11月条に、葛西三郎清重が自分の妻を頼朝の接待役として宛がっている記事がみられます。他所から女性を用意できなかったのか、葛西の妻と知らず頼朝が気に入ってしまったのか、どんな事情があったにせよ、ちょっと困惑してしまう出来事です。

吾妻鏡もこれを特筆すべきことだからこそ記したのか、それともそこまでして頼朝に気に入られようとしている葛西氏を蔑むように記したのか、真意は謎です。ちなみに葛西清重は「他所から呼んだ女性」だと偽っていたそうなので、頼朝は気楽に楽しい一夜を過ごしたのでしょう。

葛西清重が住んでいたことにその名が因む葛西ヶ谷

まとめ


ということで頼朝の女性をまとめてみると、丹後内侍利根局などのあくまでも噂レベルのものや三崎の妙悟尼などの一夜限りの関係らしき女性を除くと、文献に記された確かな女性としては、八重姫御台所政子亀ノ前大進局と、たったの4人しか確認できないことがわかりました。

しかも八重姫は政子より前のことなので、妾という存在であれば、頼朝には亀ノ前と大進局の2人だけしかいなかったことになります。

もちろん現代の感覚からは2人も妾がいたなんてことになったら大ごとですが、頼朝は身分制のある時代の最高レベルの貴人です。逆によくぞこの人数で抑えたと称賛する向きもあるのではないでしょうか。

頼朝がいた伊豆蛭ヶ小島

吾妻鏡に亀ノ前などとの女性関係を赤裸々に書き残されてしまったがため、頼朝が浮気者だとか女好きといった印象を与えてしまっていますが、いえいえ、この時代のこのレベルの権力者としてはむしろ女性に関する噂が少なすぎるのではないかという結論に鎌倉遺構探索としては至りました。

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