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弘法山・善波峠・吾妻山ハイキングコース

2019/10/27

ハイキングコース 秦野市

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弘法山・善波峠・吾妻山ハイキングコース


弘法山・善波峠・吾妻山ハイキングコース

弘法山ハイキングコース概要


秦野市にある弘法山ハイキングコースに行ってきました。実は先々週に行ったばかりですが(『弘法山公園・権現山ハイキングコース』)、そのときは権現山から龍法寺に下るという、なんというか、弘法山を横断しただけのようなコースだったので、今回は吾妻山から弘法山・権現山・浅間山と、秦野市が設定する弘法山ハイキングコースを完歩してみました。

Google map 弘法山ハイキングコース
①鶴巻温泉駅 ②吾妻山 ③善波峠 ④弘法山 ⑤権現山 ⑥浅間山 ⑦命徳寺 ⑧秦野駅

秦野市では秦野駅から進むコースを推していますが、今回は、ハイキングの後に時間と体力が残されていれば、秦野駅からも近い史跡に寄りたかったので、鶴巻温泉駅からスタートすることにしました。グーグルマップのタイムラインによれば、総歩行距離が5.5km、歩行時間は2時間14分とのこと。ちなみに秦野市がなぜ秦野駅からのスタートを勧めるのかといえば、鶴巻温泉駅からも近い市営の温泉・弘法の里湯に最後に寄ってもらいたいからだと思います(笑)。

鶴巻温泉駅~吾妻山


鶴巻温泉駅に到着。最近さえない天気が続きますがこの日はその隙間の快晴の日に当たりました。やはり日頃からの行いでしょうか。先週は雨だったけど・・。

鶴巻温泉駅前

まずは吾妻山を目指します。秦野市が推す弘法の里湯がありました。駅から近いので、こちら吾妻山を終点とした場合は確かに寄って帰るには好都合かもしれません。ちなみに泉質は、弱アルカリ性、カルシウム・ナトリウム塩化物泉で、神経痛・筋肉痛・慢性消化器病・慢性婦人病などに効能があるそうです。

弘法の里湯

少し進むと「鶴巻温泉の庚申塔」と地図にありました。中世のものらしき石塔残欠の寄せ集めです。

鶴巻温泉の庚申塔?

坂道となった住宅街を登って行くといよいよ丘陵部に入ります。

丘陵部直前の市街地

尾根に出ると意外に道がしっかりしていることにビックリ。弘法山と権現山を繋ぐ鞍部を馬場道といっていましたが、なんならこちらも馬場道と表現しても問題なさそうな雰囲気です。

吾妻山尾根道

しばらく歩いて吾妻山に到着。ちょっとした平場となっており、また「吾妻神社」と刻まれた石碑があったので、昔はここに吾妻神社があったのかもしれません。景色はあまり望めません。ちなみになぜ吾妻山なのかというと、日本武尊が東征の折、走水で亡くした妻の弟橘比売を偲んで「あずま・はや」と詠んだ場所がこの吾妻山だと伝えられているからなんだそうです。

吾妻山

吾妻山~善波峠


それでは今度は弘法山を目指して進みます。そして相変わらず馬場道のような尾根道。ちなみにこの吾妻山~弘法山間が今回のハイキングコースで最も距離的に長いエリアかもしれません。

吾妻山~弘法山
吾妻山~弘法山

今回のハイキングコースは連峰を進んで行くので、平坦な道とアップダウンが交互に訪れます。「さっきせっかく登ったのにまた下るのか」と呟きたくもなります。ところで、母なる山という表現があるように、山の神は女性で女神だと昔から相場が決まっています。弘法山の女神は若干気難しいようで、登らせたのにご褒美(見晴らし)なしで下らせるという、なかなかの強気で責めてきます。

吾妻山~弘法山

尾根道が痩せ細ってきました。屏風山状、もしくは土塁状です。「これは城郭の予感!」と思ったのも束の間、こんな山奥にも建物があったので単に丘陵が削られただけのようです。

城郭の予感!?

弘法山と善波峠の分岐点に到着。せっかくなので善波峠に寄り道していくことにしました。

弘法山・善波峠分岐点

善波峠です。凄い!かなり大規模な切通しです。当時の様相を伝えるかどうかといった点においては疑問が持たれますが、昔から尾根道の交差点だったのであろう歴史的な重厚感が伝わってくるようです。

善波峠

善波峠は、矢倉沢往還といって、近世の本街道の副路として整備されていました。江戸城赤坂御門から、厚木・伊勢原善波峠・曾屋(十日市場)・千村・松田惣領・関本・足柄峠を伝い、駿河沼津宿まで続いていたと現地案内板にありました。また近いところでは、ここから念仏山・高取山を経由して大山・丹沢に向かうこともできるので、一部は大山道でもあったのでしょう。

善波峠

近くにあったのが御夜燈と呼ばれるもの。御夜燈は文政十年(1827)に旅人の峠越えの安全のために道標として建てられていました。それを現代にて復元したそうですが、原型がよくわからない状態となっています。

御夜燈

弘法山


それでは、またコースに戻って弘法山を目指します。相変わらず登らせたと思ったら何もなく下らせるという、弘法山の女神との攻防が続きます。

弘法山ハイキングコース

しばらくすると景色が開けました。大山とその連峰が視界に入ります。なんて清々しいハイキングらしい景色。

大山
大山から連なる峰々

途中に、魔術でもかけられたのかと心配になってくる樹がありました。

なにがどうなったらこんなんに・・

弘法山に到着。平場には釈迦堂・鐘楼・井戸・石造物などがあり、湘南方面の景色を望むことができます。

釈迦堂
釈迦堂

ここには福泉庵というお堂が元々ありましたが、江戸時代中頃に龍法寺の馨岳永芳が新たに堂を建て釈迦如来像と弘法大師像を祀って釈迦堂としたのが始まりとされています。釈迦堂の後部では鎌倉時代後期の経塚が発見されており、また発掘調査の結果、甕・経石・経筒・燈明皿などが出土しています。ということで龍法寺も弘法山もかなり古い歴史があるようですね。

弘法山平場
弘法山の鐘楼
江ノ島が見える弘法山からの景色

弘法山~権現山


弘法山から馬場道を通って権現山・千畳敷を目指します。ここからも湘南方面の景色が望めます。

馬場道
馬場道

少しだけ紅葉している木々がありました。これまでのハイキングコース上にも落葉植物が結構植えられていたので紅葉の時期もキレイかもしれません。

馬場道

権現山・千畳敷に到着。

権現山展望台

素晴らしい!前回見えなかった富士山を望むことができました!それにしても、雲が一直線になって下部を隠しているので、空に島でも浮かんでいるみたいです。こういう感じの初めて見ました。なんか面白い。

権現山から見た富士山
権現山から見た富士山

権現山~浅間山


念願の弘法山からの富士山を見ることができたのでスッキリと下山できます。権現山から浅間山に向かいます。

権現山
大山

浅間山も尾根道がしっかりしています。弘法山の尾根道が善波峠という街道に面することからも、こちらもちょっとした街道として使われていた歴史があるのかもしれませんし、もしくは城郭として強固に整備されたのかもしれないとか、色々と想像が掻き立てられます。

浅間山

浅間山からも方向的に富士山が見えるはずですが、なんと、権現山からこちらに向かっている途中に雲が富士山を覆い隠してしまったようです。ちょっとタイミングがずれたら権現山からも富士山を見れなかったところでした。危なかったです。でもぎりぎりセーフ。

浅間山から見た富士山方向・・

途中に、ちょっとした平場に祠が置かれていました。昔の浅間神社でしょうか。

浅間社祠

浅間山の登頂路は狭い箇所を折りたたむように峠状になっています。現代で設置されたものだと思われます。怪しい箇所があったので奥に行ってみると、昔の登頂路ではないかと思われる掘割状を確認することができました。

浅間山登頂路
怪しい掘割状地形

程なくして弘法山公園ハイキングコース入口に到着。そして相変わらずの大山の存在感。

弘法山公園入口
大山

浅間山~秦野駅


秦野市の水源を担ってきた金目川を渡って秦野駅に向かいます。

金目川

命徳寺というお寺があったので寄ってみることに。面白いことにお寺の敷地だけ高台となっています。ここだけ土を盛ったのかもしれませんが、周辺が土地・宅地開発されたと考える方が自然でしょうか。

命徳寺の土地だけ高くなっている

中世の五輪塔群です。このお寺、意外に歴史が古いのかもしれません。

命徳寺の五輪塔群

玉宝山仙龍院命徳寺は、天台宗で、開創時期は不明ではあるものの、本尊の不動明王が鎌倉時代初期のものだとありました。また茅葺きの山門は、資料によって表現が異なりますが、室町時代初期、もしくは江戸時代初期のもので、垂木部分は県内最古の様式となっているそうです。

命徳寺

命徳寺からしばらく歩いて秦野駅に到着。余裕があれば近くの史跡に行くつもりでしたが、この日は疲れがたまっていたのか、早くも体力が残っていません。帰ることに。ということで、弘法山は思ったとおりなかなか興味深い山でした。

秦野駅

まとめ 弘法山の歴史が凄い!


今回訪れた弘法山は、大山から連なる丘陵の南端にあるため、善波峠から念仏山・高取山などを伝えば大山頂部に行き着くことが出来ます。これはいわば大山道でもあり、また近世の街道となる矢倉沢往還が通る交通の要衝でもあったことが今回訪れてわかりました。さらに吾妻山の存在から、日本武尊の東征路であった可能性も考えられるでしょう。そのうえ、弘法山の縁起に弘法大師伝承があるということは、空海の一派がこの地に訪れていた証しともなります。実際にも弘法山とも関わりの深い龍法寺の境外堂・釈迦堂が弘法山頂部に所在していました。

地理院地図

そしてこれだけで話は終わらず、弘法山が城郭として活用されていたことが指摘されており、秦野市教育委員会の調査報告書では東波多野城と呼称していました。ということで、弘法山は、古代から中央集権に認知されていた山であり、それは信仰の山でもあり、また交通の要衝であったことから城郭の山でもあるという、とてつもなく重厚な歴史が詰まっていることがわかりました。魅惑の山ですね。

地理院地図 弘法山
弘法山・権現山・浅間山の三山が東波多野城

周辺の史跡地図


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