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由比ヶ浜中世集団墓地遺跡

2020/07/27

遺跡 鎌倉市

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由比ヶ浜中世集団墓地遺跡


今回は、由比ヶ浜から出土した大量の人骨と、動物の頭蓋骨を規則的に並べるという、奇妙な遺構を併せて紹介します。

「由比ヶ浜中世集団墓地遺跡」

目次 ●中世集団墓地遺跡と由比ヶ浜南遺跡
●由比ヶ浜南遺跡の正体不明の遺構
●殺牛祭祀と骨卜
●まとめ
●あとがき

中世集団墓地遺跡と由比ヶ浜南遺跡


鎌倉の由比ヶ浜周辺からは、多くの人骨が出土しており、(下画像①)鎌倉簡易裁判所の辺りから500体以上の遺骨が発掘され、中世集団墓地遺跡と呼称されています。また(下画像②)鎌倉海浜公園の辺りから出土した遺跡は由比ヶ浜南遺跡と呼称され、こちらでは14世紀後半から15世紀前半にかけた層に4000体以上の遺骨が埋葬されていました。

今回の記事ではこれらを同時に扱うので、中世集団墓地遺跡を由比ヶ浜の北、由比ヶ浜南遺跡を南と呼称します。

Google map 鎌倉
①中世集団墓地遺跡 ②由比ヶ浜南遺跡

由比ヶ浜周辺から出土した人骨は、北側と南側で様相が異なり、それら北と南の出土遺跡を比較すると、判明した人骨の状態・性別・年齢などから、北側はある集中した時期に埋葬されていたことに対し、南側は長期間埋葬地として使われていたことがわかりました。したがって北側は有事の際における不慮の死を遂げた遺体、南側は平時における遺体であることを示唆しています。

北側の中世集団墓地遺跡では、人骨に刀傷があるものなどが多数報告されており、時代的にも新田義貞の鎌倉攻めの時期に当たるものと考えられています。またこれと同時期と考えられる大量の人骨が稲村ヶ崎でも発掘され、こちらでも人骨に損傷のあるものが確認されています。

実際にも新田義貞は西側から鎌倉を攻めているので、稲村ヶ崎の遺体は極楽寺口での攻防の犠牲者、由比ヶ浜での人骨は鎌倉内を突破された最後の砦における攻防の結果なのかもしれません。

これらのことから、中世鎌倉において、由比ヶ浜は死体を遺棄もしくは埋葬する場所として活用されていたことがわかりました。

由比ヶ浜 滑川付近

その他、由比ヶ浜南遺跡からは、7世紀後半から9世紀後半にかけた層から大量の卜骨が出土しています。他にも卜甲ではないものの、それらしき亀甲片が出土しているため、鎌倉の地でも骨卜・亀卜が行われていたことがわかりました。

由比ヶ浜南遺跡の正体不明の遺構


そして今回注目するのは、その由比ヶ浜南遺跡の14世紀後半から15世紀前半とされる層から発見された正体不明の「祭祀的な意味合いを持つのではないか」とされる奇妙な遺構です。

遺構は、牛(11点)・馬(25点)・イルカ(4点)などの大量の頭蓋骨がL字状(元はコの字型)をした東西8m・南北2mの区画に壇状の上に並べられたもので、さらに全ての頭蓋骨が海を向いていたとあり、これがどういう遺構であるのかは断定できていないものの、祭祀的な意味合いを持つ遺構であると考えられています。

祭祀的な意味合いを持つのではないかとされる遺構

前述した4000体の遺体は、単に由比ヶ浜が中世に死体を遺棄・埋葬する場だったので、この祭祀的意味合いを持つ遺構とは直接関係ないものと思われます。ともかく注目すべき点は、この不気味な遺構が、牛をはじめ動物の頭蓋骨を意図的に、そして規則的に並べているという点ではないでしょうか。

祭祀的であり且つ動物の頭蓋骨が使用されるという点からは、横須賀市で発掘された鉈切遺跡に何かヒントがあるかもしれません。

殺牛祭祀と骨卜


鉈切遺跡は、牛頭骨を犠牲として捧げる雨乞いの儀式の遺構です。由比ヶ浜のものは、使われた動物の頭蓋骨の数が異常に多いこと、またその頭蓋骨の周辺に祭祀としての杯類などが配置されていない点が鉈切遺跡と異なりますが、儀式として動物の頭蓋骨を使用するという特徴は、日本が律令国家として確立しはじめた頃から主に用いられた殺牛祭祀である可能性が考えられます。

一方で、卜骨が出土していたとありましたが、卜部氏が行っていた動物の骨を灼いてそのひび割れ方で神意を問う卜術は、頭蓋骨ではありませんが、鹿・猪をはじめ、牛・馬・イルカなどの骨を使用していたことがわかっています。

また由比ヶ浜が常態化した死体の遺棄・埋葬地であったことは上記したとおりですが、特に三浦半島にて卜甲卜骨が出土した場所の多くが海蝕洞穴であり、その大よそが墓場として利用されていたことが発掘調査の結果からわかっています。

卜骨が出土した毘沙門海蝕洞穴
なんなら海蝕洞穴によっては現代の卒塔婆まである始末
骨卜・亀卜

骨卜・亀卜

鹿・猪など獣類の肩胛骨の骨を灼き、そのひび割れ方で神意を問う術を骨卜(こつぼく)といい、太占(ふとまに)とも呼ばれています。一方で亀の甲羅を使用する場合は亀卜(きぼく)と呼ばれます。また骨卜(こつぼく)で使用された骨は卜骨(ぼっこつ)、亀卜(きぼく)で使用...


古代中国大陸では、死者が葬られた場所を死者の神霊が宿るところとみなし、そこで祭祀を行うのは最も古くかつ質素な方法であったとされています。鎌倉幕府が七瀬の祓いという雨乞いの儀式を由比ヶ浜などで行っていたことが吾妻鏡に記されていますが、もしかしたら、それは死者の神霊が宿る霊地としての選定にそのような基準があったからなのかもしれません。

どちらにしろ、専門家が「祭祀的な意味合いを持つのではないか」と断定できないように、今のところ正体不明の奇妙な遺構としか言わざるをえないようです。

鉈切遺跡
鉈切遺跡・殺牛祭祀

鉈切遺跡・殺牛祭祀

鉈切遺跡は、京急線追浜駅から夏島方面に向かった現在の横須賀スタジアムの辺りから出土しました。遺構からは、古墳時代の集落跡・祭祀用の高杯・土器・土製玉塁・滑石製模造品など多数の遺物が見つかり、なかでも牛頭骨を神に捧げる雨乞いの儀式、河伯の儀...


Google map 七瀬の祓い
①江嶋龍穴 ②固瀬 ③金洗沢 ④由比浜 ⑤狎河 ⑥六連 ⑦杜戸
鎌倉の雨乞い

鎌倉の雨乞い

高谷重夫著『雨乞習俗の研究』によれば、雨乞いの記述が『扶桑略記』の推古天皇三十三年(625)の記事、『日本書紀』の皇極天皇元年(642)の記事にそれぞれみられるとあることから、古文献で確認できる日本の雨乞いに関する最古の資料は七世紀に遡ることにな...


まとめ


●由比ヶ浜周辺は中世を中心に常態化した死体を遺棄・埋葬する場所であった。

●由比ヶ浜では7世紀から13世紀にかけて骨卜や祓いの儀式などの祭祀が行われていたことが発掘調査の結果や文献などからわかった。

●由比ヶ浜から出土した「祭祀的な意味合いを持つのではないか」とされる遺構は、牛・馬・イルカなどの動物の頭蓋骨が規則的に並べられていることから、殺牛などの動物神饌祭祀の類である可能性が考えられるが、杯などの祭祀における付属品が周囲で見つかっていないこと、また時代的にそぐわない点からも、その判断は非常に難しい。

あとがき


10代の頃、夏は由比ヶ浜か江ノ島で海水浴を楽しんでいました。しかし今回の記事によって、由比ヶ浜がとてつもない数の遺体が埋葬された場所であったことがわかりました。知らぬが仏という言葉がこれほど当てはまる例もないでしょう。

但し、古代・中世、もしかしたら近世でさえ、どの地域でも、海浜部の砂浜は死体を遺棄・埋葬する場所だったのかもしれません。なかでも鎌倉が中世にて都市部だったためにその数が尋常でないほど多かったということになるのだと思います。

でも逆にポジティブに考えると、人を呪い殺したいとか考えている人は、由比ヶ浜の強力な霊的パワーを利用すれば、成功率が高まるかもしれません。夏ならついでに海水浴もできるし。

春の由比ヶ浜
夏の由比ヶ浜

お世話になった参考著書・資料

□鎌倉市教育委員会編『鎌倉の埋蔵文化財』
□名古屋大学年代測定総合研究センター編『鎌倉由比ケ浜埋葬人骨および獣骨の地球化学的研究』

地図情報

以下は由比ヶ浜を含む南関東にて卜骨・卜亀が出土した場所をマッピングしたものです。

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