大江広元の墓
今回は鎌倉殿源頼朝の右筆として知られる大江広元の墓と彼の屋敷跡を『十二所地誌新稿』などの資料を併せて紹介します。
大江広元の墓 |
十二所胡桃山にある大江広元の墓
十二所の胡桃山頂部に大江広元の墓と伝わる層塔が安置されています。上の画像がそれです。いかにも広元の時代から存在していたような古めかしさと威厳が備わっている石塔です。またハイキングコース上にあるため、まず見学中に誰かとバッティングすることはないでしょう。この石塔を独占して眺められることもこの史跡の魅力かもしれません。そこで『十二所地誌新稿』に面白い記述があったのでご紹介します。
『十二所地誌新稿』より引用
大倉山に広元公の墓と称するものが在するが、それが本物でないことは今日では定説となっている。大倉山のそれは規模から見ても、大名のものであることに間違いなく、一説には北条義時の墓と伝えられている。本地民の伝えている墓は胡桃山の山頂にある。
大倉山、つまり源頼朝の墓がある場所で、法華堂跡にある横穴に祀られた大江広元(と毛利季光・島津忠久)の墓に対し、十二所地誌新稿は「本物でないことは今日では定説となっている」と記しています。なぜ本物ではないと言い切れるのでしょうか。
なぜ大倉山の墓は偽物なのか
『十二所地誌新稿』より引用
江戸末期頃広元の遠孫と称する毛利が此地を買収しようとしたが価格の点で折合わないためにそのままになったという。最近まで畑であったが今は多くは住宅地になった。
十二所の明石ヶ谷は大江広元の屋敷跡だと伝えられています。そこで江戸末期に島津と毛利の関係者が鎌倉に訪れ、大江広元の子孫だとされる毛利が明石ヶ谷を買収しようとしましたが、価格が折り合わず話はご破算となりまりました。
『十二所地誌新稿』より引用
島津の家老はこのまま帰国する事も出来ないので役目の手前困り果てたと云う。八幡前の大石某と云う人、今の法華堂に不明の墓があるので役人と相談して、これを広元の墓と定め帰国した。
面倒くさいので島津・毛利に偽物を掴ませてさっさと帰ってもらったということですが、しばらく経った現在でもそれがあたかも大江広元の墓として一般的に紹介されている訳ですから面白いですよね。そういえば鎌倉市史にも、葛原岡にある日野俊基の墓は大御堂ヶ谷に落ちていた石塔を拾ってきたものだとありました。
また大倉山の大江広元の墓は「北条義時の墓と伝えられている」とありましたが、北条義時の法華堂跡にあった石塔だから北条義時の墓ではないかと推測しているのだと思われます。
ちなみに十二所にある大江広元の墓は明王院の地誌に「大江広元公の墓所は五大堂より戍亥に当たり、山頂の墓まで二丁余有ると、これを持て真と致す由」と記されているそうです。
大江広元の史跡
大江広元の屋敷が明王院の対面にある明石ヶ谷という谷戸にあったと伝えられています。またそこから六浦道沿いに朝比奈切通方面に進むと大江稲荷という大江広元の屋敷神だったとされる稲荷社が祀られています。そして明王院裏山から天園ハイキングコースにアクセスするように丘陵を進むと胡桃山頂部に大江広元の墓と伝えられる層塔が安置されています。
大江稲荷 |
大江広元が明石ヶ谷にいた真実味
以前にメールをいただいた方から、やりとりのなかで「大江広元の祖先・野見宿禰の墓は、奈良の十二柱神社にあります。鎌倉時代に建てられた石造の五重層塔で、大江広元の塔とよく似ています。」とありました。十二所には十二所神社がありますが、元は大江広元の屋敷跡からも近い光触寺境内にあったものです。何か関係がありそうな雰囲気が伝わってきます。
それから『吾妻鏡』に、五大堂(現在の明王院)を建てる際にその土地が「毛利蔵人大夫入道西阿の領地」だと記されていたので、そこが毛利季光(大江広元の子)の所有する土地であったことがわかります。大江広元の屋敷があった明石ヶ谷の対面なので、元々この辺り一帯が大江広元の土地で、一部を季光に譲ったのではないかなんて想像してしまいます。
近世に描かれた光触寺境内絵図 〇が十二所神社 |
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