城願寺
吾妻鏡の序盤に登場する鎌倉の御家人で土肥郷(湯河原町)を領していた土肥実平の菩提寺・城願寺をご紹介します。また系図にも少し触れてみました。土肥実平の土肥は本来は「どい」ではなく「どひ」と発音するそうです。ですから皆さんもちゃんと土肥(どひ)と発音しながら文章を読み進んでください。
湯河原駅前にある土肥実平夫妻の銅像 |
城願寺
山号寺号 :萬年山城願寺開基 :土肥次郎実平
中興 :雲林清深
重興 :大州梵守
宗旨 :曹洞宗
住所 :神奈川県足柄下郡湯河原町城堀252
拝観料 :なし
駐車場 :有り
公共交通機関:JR「湯河原駅」から徒歩8分
城願寺の縁起と境内
城願寺は寺伝によれば、平安時代より密教寺院であったものを、土肥次郎実平の館の持仏堂から万年の世までも家運が栄えるようにと、万年山と号し菩提寺として成願寺を建立しました。その後に臨済宗、そして15世紀には曹洞宗に改宗し、そのとき寺号も城願寺と改められ現在に至ります。
山門をくぐり階段を登ろうとすると、何やらもの凄い気配を感じます。樹齢800年の見事なビャクシンが迎えてくれます。境内には本堂の他、七騎堂などがあります。
城願寺のビャクシン |
城願寺のビャクシンと七騎堂 |
城願寺本堂 |
七騎堂は郷土史実研究団体の土肥会が現代にて創設したもので、源頼朝が石橋山での敗戦から安房に渡海するまでに付き従った七人を七騎落といいます。
土肥一族の墓所
境内にある土肥一族の墓所には、66基の墓石があり、嘉元二年(1304)7月の銘のある五層の鎌倉様式の重層塔や、永和元年(1375)6月の銘のある宝筺印塔をはじめ、塔身が球形をした五輪塔などが安置されています。
土肥一族の墓所 |
下画像の奥の段の両脇に層塔があって、その層塔に挟まれるように四基の五輪塔があるのがわかるかと思います。左から実平の妻・実平・実平の子の遠平・遠平の妻の墓塔だといわれています。
土肥一族の墓 |
墓所からの眺め 向こうに見えるのは真鶴半島 |
城山
城願寺背後の山は城山と呼ばれています。30~35万年前に活動した箱根火山外輪山を構成する湯河原火山の噴出物で、その溶岩を採掘した文献に残る箱根火山最古の丁場がこの付近にありました。境内にある土肥一族墓所の墓石は、この外輪山溶岩のほか、中央火口丘溶岩も使われていることがわかっています。
城山ハイキングコースからの景色 |
城山には現地案内板にあった丁場となる石切り跡や、石橋山の合戦で敗れた源頼朝の一行が隠れたとされるしとどの窟などがあります。また城山自体が城郭だという説もありますが、そうだとしても小田原北条氏時代のものかと思われます。
しとどの窟 |
土肥実平とその一族
土肥実平は石橋山の合戦にて源頼朝と常に行動を共にしていたこともあり源頼朝の七騎落に数えられています。実平は中村荘司宗平の子で、平高望の後裔とされています。相模国足下郡土肥郷に拠し土肥次郎と称しました。基本的に中村党に分類されるようです。
湯山学著『相模武士⑤』の記述を参照して作成 ①実平 ②遠平 ③惟平 ④景平 ⑤仲平 ⑥維時 |
和田合戦(1213年)にて、①実平の孫にあたる③惟平と⑤仲平父子が和田方に与して討ち死にしてしまいます。しかし③惟平の一方の子である⑥維時は御家人として存続したようです。維時の「時」という偏諱が表しているように北条氏に被官したのかもしれません。
また③惟平の兄弟にあたる④景平は②遠平の実子ではなく平賀義信からの養子となります。和田合戦には参加せず生きながらえたようで、戦国大名の小早川家の祖となりました。小田原市にある早川がその名の由来です。
早川 |
参考資料
湯山学著『相模武士⑤』箱根ジオパーク推進協議会現地案内板
土肥会現地案内板
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