青岳尼と尼五山一位太平寺
この記事では鎌倉の尼五山第一位に列した太平寺(廃寺)の最後の住持を務めた青岳尼(しょうがくに)の人生に迫ってみました。
青岳尼と尼五山一位太平寺 |
青岳尼
実名 :不詳生年 :不詳
没年 :不詳
法名 :智光院殿洪嶽梵長大姉
父 :小弓公方足利義明
兄弟 :足利頼純(喜連川家)・旭山尼(東慶寺殿)他
夫 :里見義弘
尼五山第一位の太平寺住持を務めた青岳尼は、実名・生年ともに不詳となっています。但し弟の足利頼純の在命期間が1535~1601年とわかっているので、青岳尼の生年は少なくとも1535年以前の生まれだと推定されます。没年は興禅寺にある供養塔から天正四年(1576)だという説があるものの、何故か定説とされていません。
太平寺が廃されることになった事件
弘治二年(1556)、房総安房の里見義弘が軍勢を率いて三浦半島に上陸し、そのまま鎌倉に乱入します。義弘は太平寺住持の青岳尼と太平寺本尊の聖観世音菩薩を奪い、安房に戻り青岳尼を還俗させ妻としました。これが北条氏康の怒りを買い、太平寺は廃寺に追い込まれることになります。
一方で青岳尼は子には恵まれなかったようですが、そのまま安房で生涯を過ごしたといわれています。そしてこのとき奪われた太平寺本尊の聖観世音菩薩はのちに東慶寺に渡りました。
太平寺跡の碑 |
青岳尼が太平寺住持となった経緯
鎌倉公方成氏が古賀に拠点を移し古賀公方と称されてから三代目の高基の弟が青岳尼の父である足利義明です。義明は鶴岡八幡宮若宮別当を務めていましたが、房総の真里谷武田氏や安房里見氏が小田原北条氏や古賀公方と対抗するための大将として擁立され還俗します。義明は下総の小弓に拠を構えたので小弓公方とも呼ばれました。
その後、義明は小田原北条氏らの軍勢に対し、真里谷武田氏・里見氏らを率いて国府台で衝突し、天文七年(1538)に討ち死にしてしまいます。義明の遺児・頼純は安房の里見義堯のもとへ保護され、青岳尼・旭山尼姉妹はそれぞれ太平寺と東慶寺に入山することになりました。
石堂寺(南房総市) 足利頼純が引き取られ養育された寺院 |
太平寺跡
青岳尼が住していた太平寺は西御門に所在していました。現在はテニスコートになっていますが、住宅になっていないだけまだましで跡地の名残りを少しだけ見ることができます。
跡地はテニスコートとして底面が削平されているものの、鎌倉寺社らしい三段のひな壇状地形が残されており、また丘陵部沿いには切岸とやぐららしき横穴も確認することができます。廃された太平寺の仏殿は円覚寺舎利殿として移築されました。
太平寺跡 |
太平寺の開創は定かではありませんが、鎌倉公方足利基氏の妻で氏満の母となる清渓尼が太平寺を中興し住したと伝えられています。これにより太平寺は代々足利家の息女が住持を務めることになり、鎌倉尼五山筆頭の地位を確立することになります。
青岳尼の足あと
房総半島には青岳尼が開いた寺院が二つあります。富浦町の興禅寺と館山市にある泉慶院(廃寺)です。興禅寺は里見氏八代の義頼の居城・岡本城下にあり、泉慶院は里見氏九代の義康の居城・館山城下にありました。青岳尼を鎌倉から連れ去ったという義弘の居城は佐貫城ですが、その近くには青岳尼の開いたとされる寺院の存在は確認されていません。
興禅寺(南房総市富浦町) |
泉慶院跡(館山市) |
青岳尼は連れ去られていない
ここで興味深いのが、木村敢著『青岳尼幻想』にある「青岳尼は連れ去れていない」、東慶寺にある太平寺の本尊と伝わる「聖観世音菩薩は持ち去られていない」という説です。
青岳尼が里見義弘に連れ去られ房総に渡ると、北条氏康は青岳尼の妹である東慶寺の旭山尼に手紙を送りました。そのときの内容の一部を同書から引用します。
木村敢著『青岳尼幻想』より引用
「太平寺殿(青岳尼)が向こうの地(安房)に移ることは、本当に不思議な(理解し難い)企て(行動)であり、論評の限りではない」
連れ去られた青岳尼に対して氏康はなぜ「理解し難い行動」だと評価するのでしょうか。つまりこの表現からは、青岳尼が意志に反して拉致されたのではなく、また里見義弘に連れ去られた訳でもなく、自分の意志と自分の力で安房に渡海していったと考えるのが妥当だと同書では述べています。
また東慶寺にある太平寺の本尊と伝わる聖観世音菩薩像は、木造で1m34.5cmあることから簡単に持ち運べるものではなく、しかもこの像の調査に参加した学芸員の証言から、像は修復の跡もなければ縄などでこすれた跡も全くなかった、つまり菩薩像が海を渡って運ばれたとは到底思えない状態であることがわかっています。
そして里見氏八代の義頼が青岳尼の供養のため、高野山にある里見氏菩提所へ何度も足を運んでいることが過去帳からわかっています。つまりこのことから青岳尼は義頼にとって特別な女性であった、それはつまり青岳尼は義頼の母であったと考えるのが妥当なようです。
岡本城(南房総市富浦町)からの眺め |
青岳尼の建てた寺院が義頼の居城・岡本城下にあることからも、青岳尼は比較的早い時期に義弘と離別し義頼と共に岡本で拠を構えていたのかもしれません。
色々とわかない部分も多い青岳尼ですが、少なくとも彼女は、本来は尼寺という閉塞された空間で一生を終えるはずだった人生が、こうして房総に渡ることで、身分こそあるものの、人として、そして女性として当たり前の権利を手に入れたことは確かなのでしょう。
まとめ
青岳尼(木村敢説)
実名 :不詳生年 :天文四年(1535)以前
没年 :天正四年(1576)3月21日
法名 :祥光院殿高嶽長大姉
父 :小弓公方足利義明
兄弟 :足利頼純(喜連川家)・旭山尼(東慶寺殿)他
夫 :里見義弘
子 :里見義頼
これまでの定説と比べると、木村敢著『青岳尼幻想』の説では、青岳尼の不詳だった生没年が明確になり、法名も異なります。また青岳尼は若くして亡くなり子に恵まれなかったとされてきましたが、里見氏八代の義頼が青岳尼の子である可能性が高いようです。
古くは里見義頼は義弘の弟だという系図や説が流布していましたが、この木村先生の説が正しければ、その系図論争の最終的な終止符が打たれるかと思われます。
基本情報
名称:太平寺跡住所:神奈川県鎌倉市西御門1-10-10
現状:テニスコート
木村敢著『青岳尼幻想』
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