北条氏常盤亭跡
北条氏常盤亭跡 |
鎌倉市の常盤には「タチンダイ」と呼ばれる広大な平地が残されています。「コ」の字型をする鎌倉の典型的な谷戸地形を形成し、尚且つやぐらが施された切岸に囲まれています。発掘調査の結果から、武家屋敷跡の痕跡が発見され、北条氏常盤亭跡として国指定史跡に指定されました。緑一色のこの丘陵から”鎌倉”の痕跡を探しだすのがこの史跡の醍醐味でしょうか。今回はそんな常盤の歴史を北条氏常盤亭跡を中心に迫ってみたいと思います。
基本情報
名称 :北条氏常盤亭跡住所 :神奈川県鎌倉市常盤924−1
現状 :史跡地
鎌倉市常盤にある御所ノ内という字名が残された区画にある「タチンダイ」と呼ばれる谷とその西隣の谷を合わせた約1200坪の敷地を北条氏常盤亭跡と呼称します。
周辺での発掘調査の結果、礎石建物 水はけの側溝 井戸などが検出された他、金銅製水滴 骨製サイコロ 石製硯(すずり)をはじめ多くの土器・陶磁器類が出土しました。地元に伝わる伝承と文献・資料の記述からも、やはりこの地に北条氏の常盤亭が所在していたことが発掘調査の結果からも証明されました。
北条氏常盤亭跡 |
常盤亭にいた人物
常盤亭を所持していたことで知られる最も有名な人物が七代執権の北条政村です。正妻の子であるというだけでなく、烏帽子親である三浦義村の後ろ盾を得たことから、北条義時死去後に一時は三代執権候補にも躍り出た大物です。
一方で北条氏の庶流に常葉氏を名乗る一族がいます。この政村の子孫かと思いきや、重時流の時茂が常葉氏を名乗り、またこちらも同じく重時流の義政も常盤に亭があったとされています。義政は評定衆・連署などの幕府重職を歴任したのち、信濃の塩田庄に隠遁したことから塩田義政とも呼ばれています。ちなみに義政の本邸は名越にありました。
北条氏略系図 |
文献からわかったこと
『吾妻鏡』康元元年(1256)8月20日条に「新奥州(元前右馬権頭)が執権となってから初めて宗尊親王が常葉別業に訪れる」と記されていることから、この「常葉別業」とは新奥州(政村)の別業(別荘)であったことがわかりました。また『新編鎌倉志』には「政村を常盤院と号す」「昔此処に常盤院を建てる」とあり、『新編相模国風土寄稿』には「御所ノ内と字す」「政村の亭は小町にあり、別業を設け、故に政村を常葉と号す」「平義政亭跡は小名殿入にあり、政村の亭跡より二町余り隔てた所に所在し300坪を有する」とあります。
実際にも常盤には「御所ノ内」「タチンダイ」「法華堂」「殿入」などの字名が伝わっています。これらを統合して勘案すると以下のような配置図となります(『大仏切通周辺詳細分布調査報告書』参照)。但し『かまくら子ども風土記』では円久寺の奥となる下画像⑤の位置に義政亭があったと主張しています。風土寄稿にある「政村亭から二町余りの所に義政亭がある」という記述からは『かまくら子ども風土記』の説の方が辻褄が合います。
国土地理院の地理院地図 ①政村亭 ②タチンダイ(常盤院) ③義政亭 ④法華堂 ⑤義政亭(かまくら子ども風土記説) |
『鎌倉廃寺辞典』の常盤寺項では『金沢文庫古文書』の記述にある「於常葉寺一校了」「時ハ地蔵院」「常葉の□慈院」「常葉寺(湛睿)」「常葉□」といった常盤の何処かに所在していたのであろう寺院の存在が引用されていました。廃寺辞典ではこれらの解説をしてくれませんでしたが、個人的に気になるのは「常葉寺(湛睿)」の部分です。「常葉寺(湛睿)」の「湛睿」とは称名寺三世の湛睿(たんえい)です。
この「常葉寺(湛睿)」の記述だけからは一概に判断できませんが、その湛睿が常葉寺に住した、もしくは何かしら常盤寺に関与していたと受け取っていいのであれば、湛睿が住持を務めた称名寺は極楽寺(律宗)の末寺なので常盤寺も律宗だった可能性が高くなります。また常葉氏を称した時茂は極楽寺の大檀那(スポンサー)である長時・業時と兄弟です。有り得ない話ではない、というより逆に辻褄が合うような気がします。
常盤亭とは
『吾妻鏡』康元元年(1256)8月20日条では、政村の「常葉別業」(常盤亭)に将軍宗尊親王が23日に初めて訪問する予定だという記事がみられます。そしてその23日条には、宗尊親王をはじめ数十人の御家人・公家が訪れ、政村、重時、時頼、名越時晃、二階堂行儀らがあらかじめ常盤亭に控えていたとあります。
その他、邸宅入口にはかなり広い「出居」(居間兼来客接待用部屋)に、「泉屋」という泉水を設けた庭園があった事が記されています。つまり、常盤亭とは、将軍や公家・御家人などの時の権力者たちのサロンであり、なおかつ大勢の人が居座れる規模を有し、入口にはエントランスのような出居、奥には池のある庭園にそれらを鑑賞できる豪華な建物であったようです。
北条氏常盤亭跡西区画 |
また「一日千首探題」といって、参加者各人がクジを引いて題を取り、歌を詠み、懸物(賭)をして楽しむという歌会が常盤亭で開かれていました。安部範元による和歌の添削によって、トップは真観入道(続古今和歌集の編者)、北条政村は2番(総勢17人)となっています。
したがって政村は歌人としての腕前もなかなかだったようですね、と言いたいところですが、しかし、現代でも接待ゴルフといった悪習があるように、北条氏長老(政村)の機嫌をとる順位付けだったという見方もできるかもしれませんね。
常盤の字名
下図は常盤に古くから伝わる(小)字名です。丘陵の東側が「御所ノ内」、西側が「殿入」となっています。「殿入」は『かまくら子ども風土記』では政村と義政の邸への入り口だったことに因むと記されています。また「大丸」の由来を記した記述は見当たりませんでしたが、どこか城郭用語のような雰囲気もします。
国土地理院の地理院地図 |
ちなみに葉山の上山口では「殿門」という小字名が伝えられていました。三浦山口氏の邸跡からも近いのでもしやと思いましたが、よくよく調べてみると、富塚という小田原北条氏の家臣が邸を近くに構えていたことがわかりました。ですから常盤の「殿入」の「殿」も一概に北条氏を指しているとは言えないと個人的には思います。
タチンダイ・御所ノ内
政村亭跡から丘陵を登った奥地を「タチンダイ」と云います。「館の台」「立ち見台」などから転訛したと考えられています。広大な敷地の最奥にはやぐらが施されています。埋もれてしまっているものも多いため総数は不明ですが10基ぐいらでしょうか。そして上述したように『新編鎌倉志』の記述から、常盤院と号した政村の常盤院がここタチンダイに建てられていたと推測されます。
タチンダイ |
タチンダイ |
タチンダイのやぐら |
タチンダイのやぐら |
常盤の丘陵一帯に往時では何かしらの施設があったのでしょう。タチンダイから殿入に及ぶ広範囲にやぐらが分布し、また丘陵部を観察すると竪堀のような造作が各所で確認できます。
御所ノ内のやぐら |
竪堀 |
竪堀 |
殿入
政村亭の西側にある円久寺が所在する辺りでは「殿入」という小字名が伝えられています。円久寺は、寺伝によれば文明年間(1469~1487)の開創で妙本寺末寺だとあるので、当初から日蓮宗寺院ということになります。しかしその割には境内壁面にやぐらが風化したような造作がみられます。円久寺の前身のお寺が元々そこにあったと考えるべきでしょう。
その他に、それがどういう性質のものなのかは判然としませんが、殿入では虎口状入口やひな壇状地形などの造作が確認できます。
円久寺 |
殿入の虎口状入口 |
竹藪で見えないがひな壇状地形が隠れている |
常盤亭の坪数
北条氏常盤亭跡が1200坪を有するとありましたが、東京だと50坪の一戸建てに対して特別小さいとも感じない現代人の我々の感覚からすると、1200坪って広すぎてあまりピンときませんね。『よみがえる中世』によれば、鎌倉の一般的な御家人の邸地が一戸主という単位の広さだったと記されています。一戸主を坪数で表すとだいたい140坪ぐらいになります。ですから政村邸は1200坪なので大よそ八戸主、一般御家人の邸の7~8倍の広さになります。
さらに、北条氏などの政治の中心にいた最高クラスの階層になると、本邸・別荘・山荘の豪華夢の三点セットを所有していました。常盤亭はあくまでも政村の別荘です。小町にあったと云われる本邸と、どこかにあったのでだろう山荘を加えると、政村の鎌倉における邸地は八戸主どころではなくなります。ちなみに得宗の高時は、本邸だけで十八戸主の広さを有していたそうです。
藤の花が群生する春のタチンダイ |
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参考資料
貫達人他編『鎌倉廃寺事典』
石井進他編『よみがえる中世〈3〉』
鎌倉市教育委員会編『大仏切通周辺詳細分布調査報告書』
鎌倉市編『かまくら子ども風土記』
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