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願成就院(伊豆の国市)と旧境内

2021/10/09

伊豆の国市 寺院

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願成就院


伊豆の国市に所在する願成就院は、北条時政が文治五年(1189)に奥州合戦の戦勝祈願のために建立した寺院です。またその北条時政が運慶に依頼して造立した仏像が願成就院には遺されています。運慶の仏像は東日本では横須賀浄楽寺とここ願成就院にしかありません。

願成就院

山号寺号:天守君山願成就院
建立  :文治五年(1189)
開基  :北条時政
本尊  :国宝阿彌陀如来坐像
宗旨  :高野山真言宗

拝観時間:10時~16時
拝観料 :大人700円・中高生400円・小学生 200円
休館日 :火曜日・水曜日
住所  :静岡県伊豆の国市寺家83-1



韮山の西側で、狩野川と下田街道の間に守山と呼ばれる丘陵があります。願成就院はこの丘陵を背に所在しています。現在の境内は往時のほんの一区画に過ぎず、願成就院から北側にある光照寺の辺りまでが境内だったと考えられています。

国土地理院の地理院地図
①成福寺 ②堀越公方御所跡 ③光照寺 ④北条氏邸・円成寺跡 ⑤守山八幡宮 ⑥願成就院 ⑦信光寺 ⑧真珠院

天守君山願成就院縁起


寺伝によれば、天平元年(729)に行基が聖武天皇の勅を奉じて建立したと伝えられています。しかし一般的には、文治五年(1189)に奥州征伐の戦勝祈願のために建立されたと考えるのが妥当なようです。

但し、文治二年(1186)には運慶を招き仏像造立に取り掛かっているので、少なくともその年には寺院として既に整備されていたと考えられています。北条時政死去後も北条義時や泰時が伽藍の整備に関わっていたようですが、それ以降はあまり文献・資料には登場しません。山号の「天守君山」の「君」とは源頼朝のことを指すとあります。

願成就院

発掘調査の結果


上記したように、願成就院境内は往時の一区画に過ぎず、現在住宅地となっている願成就院旧境内の東北部では池跡が確認されており、南北150m・東西88mの楕円形で中の島があったと想定されています。願成就院は臨池伽藍を有する浄土庭園様式の寺院であったと推測されています。

国土地理院の地理院地図
①②⑧礎石建物跡 ③段状遺構 ④⑤基壇跡 ⑥池跡 ⑦中島跡 ⑨北条政子産湯の井戸 ⑩北条氏邸跡

境内奥では石列・基壇跡・井戸・溝などが発掘調査の結果確認されています。『吾妻鏡』の健保三年(1215)の記事にある、北条義時が時政の菩提を弔うために建立したとされる「南新御堂」や、『吾妻鏡』の承元元年(1207)にある時政が建立した「南塔」跡ではないかと考えられています。

境内奥の石列・石敷・段状遺構が発見された辺り
基壇跡が見つかった辺り 南塔もしくは南新御堂跡か

発掘調査の結果、詳細な伽藍構成までは分からなかったものの、旧大御堂・南塔・南新御堂などが現在の境内にあったとされ、また建物は守山を背に下田街道に向かって建てられていたと考えられています。

境内奥の段状遺構 地形の起伏や段差を確認できる

その後、北条義時・泰時以降に願成就院が文献・資料でもあまり確認できないように、北条氏一族がほぼ鎌倉に定着したためか、伽藍の整備は行われず願成就院は衰退していったと考えられています。

境内奥は未だ旧態地形をとどめている

大御堂・宝物殿


上記したように、願成就院には運慶が造立した仏像が残されています。大御堂にある五体の像のうち、本尊を除く四体は胎内にあった銘札から、北条時政の依頼により運慶が造ったということがわかっています。銘札のなかった本尊もその作風から運慶のものだと考えられています。また宝物殿では、境内で発掘された遺物の他、北条政子七回忌追福菩提のために北条泰時が奉納したと云われる地蔵菩薩像などがあります。

願成就院のお話


『吾妻鏡』文治五年(1189)12月9日条に願成就院の記事があります。それによると、「伊豆国の願成就院の北畔に二品(源頼朝)の御宿館を建てるために土地を造成すると、たちまちに古い額が掘り出された。その文字は願成就院とあったという。」とありました。

さらに話は続き「誠にこれは希代の霊験、濁世の模範というべきであり、これ以上のものはない。初めをもって後を察し、昔を山荘して今を考えるならば、仏閣の不朽、武家の繁栄は、この額の字に異ならないであろう。」と壮大に締めくくっていました。

北条時政墓

参考資料


五味文彦他編『現代語訳吾妻鏡〈4〉』
池谷初恵著『鎌倉幕府草創の地』
伊豆の国市教育委員会編『願成就院跡』
韮山町教育委員会編『史跡北条氏邸跡発掘調査報告Ⅰ』

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