前回「三浦一族の所領と日宋貿易」という記事をアップしました。全国に散らばる三浦一族の所領を調べていると、彼らの所領には常に海上交通の利便性を意識したかのような特性がみられました。三浦半島と房総半島に拠点を築いていた彼ら一族にとって、海の利を活かす術は生まれついての才覚だったのかもしれません。
ということで、今回は三浦半島における三浦一族の港と海上交通をテーマに、彼ら三浦一族が利用していたであろう海の古道に迫ってみたいと思います。
三浦半島の港
下地図画像は文献・資料・著者などで確認できた中世までに存在した三浦半島の港を印しました。三浦氏から分家した多くの庶家が三浦半島の各地に広がっているので、実際はこの地図が埋め尽くされる程にもっと港があったと思われます。ひとまず今回は確実に港の存在が確認できた場所だけを厳選してみました。
Google map 三浦半島の港 ①森戸 ②油壷 ③三崎 ④久里浜 ⑤浦賀 ⑥走水 ⑦榎戸 |
⑦榎戸は『廻国雑記』(1487年成立)に「ここは頼朝公のすませ給うとき、金沢、榎戸、浦河とて三つの湊なりけるとかや」と紹介されています。④久里浜は怒田城の存在や「栗浜の御崎」「くり浜」から船出したといった記述が『平家物語』や『源平盛衰記』にみられます。①森戸周辺と③三崎は源氏将軍らが遊覧で訪れている様子が『吾妻鏡』に何度もみられます。②油壷は三浦道寸義同が、③三崎・⑤浦賀は後北条氏が水軍を配した城郭を築いていました。
船で行く鎌倉時代の観光地 森戸と三崎
元暦元年(1184)5月19日、京から鎌倉に訪れた平頼盛を源頼朝が森戸で歓待している様子が吾妻鏡に記されています。このとき由比浦から船に乗り杜戸岸に着けたとあります。現在、葉山の森戸周辺には港としての地形的特徴はあまりみられませんが、鎌倉時代に鎌倉から森戸までの船路が既にあったこと、そして多くの船が停泊可能な入江のあったことが推測されています。
森戸には三浦氏の馬場があったので、頼朝が馬揃えを検分したり、将軍頼経が小笠懸を行うなど何かと記録が残されています。その他にも真奈瀬の辺りでは、頼朝が納涼に訪れ、現地で迎えた上総広常が下馬の礼をとらなかったというエピソードが伝えられています。
森戸海岸 |
そもそも森戸の名は「森津」から転訛したと考えられています。しかも鐙摺から森戸海岸にかけて「渡場」「三ヶ浦」「港町」といった小字名が伝えられています。また葉山の地名も、早馬を備えた「駅馬」(はゆま)があったので、その後「葉山」に転訛したという説があります。
その駅馬が実際にどこにあったのかはっきりとわかっていませんが、御用邸のある辺りが中世以前に最も栄えた場所であったと考えられています。その御用邸からも近い長者ヶ崎という地名は、その昔、長者が住んでいたことに因むと芦名為清が頼朝に語っています。
Google map 葉山森戸 ①鐙摺 ②森戸神社 ③真名瀬 ④御用邸 ⑤長者ヶ崎 |
一方で三崎は森戸と同じくこちらも頼朝をはじめ実朝や頼経ら源氏将軍が三浦氏の接待で訪れています。白拍子などの遊女らが同行し、船上では歌舞宴楽、歌詠みなどの行事、そして現地では小笠懸が行われていたようです。
『吾妻鏡』寛喜元年(1229)2月20日条の記事が興味深く、三浦義村が御台所竹御所と泰時室(安保実員の娘)らを三崎に招き、さらに22日には駿河四郎家村を森戸に先回りさせ、三崎からの帰途に森戸に立ち寄っています。三崎と森戸が三浦観光の二大拠点だったのかもしれません。
Google map 三崎 ①海南神社 ②北条湾 ③城ヶ島 |
それにしても、三崎の地形は面白いですよね。城ヶ島が天然の防波堤のように前面に横たわっています。この城ヶ島がどの程度の波風を凌いでくれるのか専門的なことまではわかりませんが、三崎港内の波はとても穏やかだったのを覚えています。
港湾内の環境を安定させられることが良港の条件の一つなので、三崎は条件に適った港だと云えるでしょう。中世末期では後北条氏の城が、近世では陣屋が築かれていたりと、その立地からも三崎は海防の地としても適していたようです。
とっても穏やかな三崎港 |
港の条件
Google map 浦賀 天然の良港の例 浦賀 |
上記した三崎をはじめ油壷・浦賀・榎戸などは天然の良港の条件でもある入り江のような内陸方向に抉られた地形が確認できます。なかでも油壷周辺はあたかも神が港として与えてくれたかのような地形を成しており、良港の条件である波風の影響を受けにくい安定した港湾環境が整っています。
それでも油壷が三崎や浦賀のように後世まで多くの人に利用され続ける良港・名港としての立ち位置を得られなかったのは、港とは地形条件が最優先される訳ではなく、単に拠点や都市部、それから交易相手から近いといった立地条件が重要なポイントになるのかもしれません。
Google map 油壷 ①小網代湾 ②新井城跡 ③油壷湾 ④諸磯湾 |
油壷湾 |
中世の船は手漕ぎなので大変な労力だったうえ安全性もあまりなかったはずです。だからなるべく短距離で上陸できることを目指したのではないでしょうか。そういった意味では、走水・浦賀・久里浜などはそれぞれの持つ歴史からも対房総半島の拠点として主に用いられていたのでしょう。
浦賀港と浦賀城 |
現存する海の古道
下地図画像は三浦半島の①久里浜港から④衣笠城(大善寺)にかけての範囲です。①久里浜港から低地が内陸部に向かって続いていますが、中世までは③佐原の辺りまで海が入り込んでいました。衣笠はある意味鎌倉と同じく馬蹄形地形を成しており、④衣笠城は鎌倉でいうところの八幡宮にあたり、③佐原まで入り込んだ海はさしずめ由比ヶ浜といったところでしょうか。
国土地理院の地理院地図 久里浜 ①久里浜港 ②怒田城 ③佐原城 ④衣笠城(大善寺) |
三浦一族の杉本義宗が長狭氏との戦いで受けた傷が原因で亡くなっていることからも、彼ら三浦一族が房総半島にて領土を広げていたことがうかがえます。③佐原から①久里浜港にかけてちょうどその房総半島に向けて地形が口を開けているので、②怒田城が平安末期における三浦氏の港を兼ねた対房総半島の軍事拠点だったのでしょう。②怒田城の東側を船蔵(舟倉)谷と云います。多くの船が停泊していたことが伝わってくる地名です。
怒田城から眺めた景色 当時は海が広がっていた |
治承四年(1180)、小坪(由比ヶ浜)合戦の報復として畠山重忠擁する平家方武蔵国勢が三浦半島に攻め入ると、三浦一族は義明を捨石にして三浦半島から脱出します。久里浜港にある栗濱大明神(住吉神社)の縁起に、義澄らがここで祈願をし房州へ渡ったと記されています。
栗濱大明神(住吉神社) |
一方で頼朝らが石橋山合戦に敗れ、真鶴から船で房総半島に渡り三浦一族と合流しています。この頼朝上陸の地が安房平北郡猟島(鋸南町)と云われているので、そこで合流した三浦一族も久里浜から安房平北郡猟島(鋸南町)に向かったことがわかります。
頼朝が出航したと云われる真鶴の港 |
鋸山から見た鋸南町の辺り |
下画像はヒートマップといって人の動きを明るさで示したものです。明るければ明るいほど、そして太ければ太いほど人の往来が多いことになります。三浦半島と房総半島を結ぶ最も太い線、つまり最も人の往来が激しいのは、(下画像)②久里浜~金谷間を結ぶフェリーしらはま丸の航路とアクアラインでした。しらはま丸は①久里浜港(怒田城)からのルートとなり、到着先の③金谷には頼朝上陸の記念碑があります。
ですからこのルートは三浦一族が武蔵国勢の攻撃を受け久里浜から脱出した航路とほぼ合致します。平北郡が三浦一族の所領だったことからも、やはりこのルートは平安時代からの、そして三浦一族が房総半島とを往来する定番の航路だったようです。現存する海の古道と表現してもいいのかもしれません。
strava global heatmap ①久里浜 ②しらはま丸航路 ③金谷 |
久里浜港に停泊するしらはま丸 |
中世末期では里見氏が金谷に城郭を築き、三浦半島への足掛かりとしていました。後北条氏の城郭があった浦賀や三崎ではなく、津久井や鎌倉などの手薄な所に上陸していたことが記録されています。鎌倉の名主として知られる甘糟さんのご先祖さまが痛い目に遭っていたようです。
しらはま丸
以前にしらはま丸に乗船したことがあります。そのときは鎌倉の歴史に関する知識もありませんでしたが、こうして三浦一族が利用していた航路だとわかった今ではとても感慨深い経験だったことに気付きました。そして何百年も前のこととはいえ、同じ場所にいる訳ですから当たり前ですが、歴史って繋がっているんだと実感することができました。また機会があれば、こうした知識を踏まえたうえで、しらはま丸を利用したいと思っています。
浦賀城から見えたしらはま丸 |
”しらはま丸”は正式には”東京湾フェリー”というカテゴリーの中の船名で、同じタイプの船に”かなや丸”というフェリーもあります。ですから本来はしらはま丸ではなく東京湾フェリーと表記すべきかもしれません。
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