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中世関東の太平洋海運 律宗熱海船と走湯山燈油料船

2019/07/10

熱海 律宗

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中世関東の太平洋海運〈律宗熱海船〉と〈走湯山燈油料船〉


金沢文庫古文書にある湛睿の稿本や伊豆山神社文書などから、鎌倉時代から南北朝期にかけて、熱海船と呼ばれる船便や、走湯山燈油料船という交易船のあったことがこれまでに知られています。さらにこれには、律宗が経営、もしくは少なくとも関与していた事実が浮かび上がってきました。

ということで、今回は、この熱海船と走湯山燈油料船を中心に、律宗の走湯山・伊豆山神社への教線の浸食と、中世における関東の太平洋海運・航路の可能性をまとめてみました。

本如房湛睿


称名寺三世の湛睿(たんえい)は、学問と経営に優れ、多くの稿本を金沢文庫に残したことで知られています。湛睿(1271~1347年)は、和泉国久米多寺や鎌倉極楽寺に住していた時期もあり、その後、下総国土橋東禅寺の長老を経て金沢称名寺に住しました。

その湛睿の稿本にある自証・信時・行忍らの書状に熱海船の存在が記されており、またそれら書状は全て自証・信時・行忍らそれぞれが湛睿に宛てた手紙で、なおかつ湛睿が稿本として残したものとなっています。

湛睿が晩年に過ごした金沢称名寺

熱海船


以下は、金沢文庫古文書にある湛睿に宛てられた自証・信時・行忍らの書状で、熱海船の存在とそれに関するやりとりが記されたものです。福島金治著『中世鎌倉律院と海上交易船』から引用。


八月廿五日 自証
返々物忩之間、紙状之躰恐存候他、あたミ船夜中著岸候、明後日不暁可立之由申候、御便船候ハヽ、明日可有入御候他、諸事情期面謁 恐々謹言、

熱海船は夜中に着岸しました。「あたミ船」の船頭は「明後日のあけきらない時分に出発します」と申しております。 そちらから、御便船があれば、明日こちらにお着きください。 詳しいことは面会のついでに申しましょう


十月廿二日 信時
御礼畏拝見仕候了、抑熱海以便船可付進候鹽酢等重候、雑足等慥以請取候了、以便宣可付給候、御送文同副給候了、委細之旨、期□□之時、恐々謹言、

お手紙、つつしんで拝見いたしました。さて、熱海から便箋にことづけて送られました塩・酢などが到着しました。 自分の部下の雑足らが確かに請け取りました。熱海からの御送状も同じくいただきました。 くわしくはお会いした時にお話します


八月晦日 行忍
所蒙仰事、則可□進候之處ニ、折節古實下部令参極楽寺候之間、明日人を給候て可被進候、是躰御用何時に候とも、可蒙仰候歟、毎時期後信候、恐々謹言、

ご指示のありました塩について、お届けしようと思っていましたところ、 ちょうど古実の下部が極楽寺に使いで参りましたので、明日、そちらから使いをよこしていただきまして送りましょう。 なんいついても御用の時は、仰せつけ下さい



これら書状から、熱海船とは、熱海から鎌倉近郊を航海する便船の一つであったこと、そして熱海船がなどの産品を運んでおり、その運輸の荷受けに信時という人物が預り人として関与していること、また極楽寺の僧・行忍が塩を管理し預かっていることがわかりました。これら書状を湛睿に宛てた人物らをまとめると以下のようになります。

自証熱海船に乗船、もしくは熱海船に深く関わっている人物
信時和賀江島・材木座で蔵を預かる人物で北条氏一門の有時(伊具)流の可能性大
行忍極楽寺の僧で信時と同じく港の管理に関わっている人物


Google map 熱海船航路想定図
①熱海 ②須賀 ③鎌倉 ④六浦 ⑤神奈川

書状は日付けがあっても年度が記されていないため、湛睿がこれら書状をどこで受け取っているのかが専門家の間で焦点の的となっています。称名寺か極楽寺の二択の可能性が最も高く、また熱海船の着岸地として、鎌倉・六浦の他、須賀(相模川河口)・神奈川(横浜)なども候補地として挙げられています。

熱海船が鎌倉に来ていたとすれば、和賀江島にて荷の積み下ろしをしていたことは明白でしょう。そうするとその荷である塩・酢を預かっていたという信時は、和賀江島に蔵を持つ人物ということになります。吾妻鏡に「高御蔵」「浜御所」などの記述がありましたがまさにその場所かもしれません。また行忍という極楽寺の僧がその荷を管理しているようなので、材木座光明寺の地にあったという、極楽寺末寺で和賀江島を管理していた万福寺の存在を物語っているようにも思えます。

和賀江島

熱海市教育委員会の調査報告書によれば、「熱海周辺で産出した輝石安山岩は、熱海勢力の海運網を通じて鎌倉周辺に運ばれ、極楽寺や称名寺などに供給されたと考えられる。」とありました。つまり今回取り上げた書状からは、熱海船の積み荷が塩・酢などの産品であったことがわかりましたが、その他にも伊豆石なども運搬していた可能性を指摘しています。

走湯山燈油料船


伊豆山神社文書文永九年(1272)12月12日付の関東下知状案には、下総国神崎関を通過する走湯山燈油料船から関手を徴収しようとした千葉為胤と、梶取との間で展開された争論に対する判決が記されています。このことから、走湯山燈油料船が熱海から千葉県香取郡神崎町にまで航行していたことがわかります。

走湯山燈油料船とは、その名のとおり伊豆山神社の船ですが、盛本昌広氏などの専門家をはじめ、熱海市教育委員会の調査報告書などの大方の見解では、この走湯山燈油料船の経営にこちらも律宗が関与していたものと考えられています。

そうなると、今度は下総国神崎までの航海ルートが気になるところですが、興味深いことに、岡田清一著『地域史研究の潮流と陥穽』には、「房総半島を経由して銚子市の犬吠埼から直接内海に航行したものと考えるべき」とあります。

Google map 走湯山燈油料船
①熱海 ②館山 ③神崎関 ④東禅寺 ⑤埴生庄 ⑥三村山極楽寺

ということで、上地図画像のような航路が鎌倉時代に存在し、なおかつ便船として定期的な航海が行われていたことが想定されます。館山の小網寺には、金沢称名寺開山の審海ゆかりの密教法具が伝えられており、同じく館山の宝貝という土地は極楽寺宝塔領でした。

また神崎関から利根川水系を進むと、称名寺の大檀那、金沢流北条氏の所領だった埴生庄、その下方には湛睿が住していた東禅寺、さらに霞ケ浦をつくば市方面に行くと、鎌倉極楽寺が建立される以前までは、律宗の関東布教の拠点となっていた三村山極楽寺があります。走湯山燈油料船が律宗の経営する船であれば、立ち寄る可能性のある候補地がいくつも挙げられます。

三村山極楽寺・宝篋山頂部

忍性の旧跡・三村山極楽寺跡・宝篋山ハイキングコース

忍性の旧跡・三村山極楽寺跡・宝篋山ハイキングコース

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律宗と走湯山燈油料船


走湯山・伊豆山神社は真言宗と天台宗が両立・共存してきました。そこに弘安五年(1282)2月18日、忍性が熱海郷地蔵堂の銅鐘を勧進によって鋳造していたことがわかっています。このことからも、忍性が、つまり律宗が熱海に拠点となる寺院を築いていたことが推測されます。

さらに伊豆山神社別当寺であった密厳院東明寺跡比定地から般若院のある古美道周辺にかけて残されている石塔は、熱海市教育委員会の調査報告書によれば、西大寺様式、つまり律宗系の石塔である可能性の高いことが指摘されており、「当地に旧在した密厳院東明寺が鎌倉末ないし南北朝期に律宗化したことを窺わせる。」とありました。

上記した伊豆山神社文書文永九年(1272)12月12日付の関東下知状案の判決は、源頼朝の下文というこの時代最強のカードを持っていた走湯山側の勝訴に終わります。ご存知のように、伊豆山神社は箱根神社と共に二所権現として源頼朝をはじめ歴代将軍や北条氏らに崇敬されてきました。こうした走湯山の持つ特権・利権を盾に、もしくは走湯山の神共船を律宗が借り上げ、教線の拡大など自らのビジネスモデルを確立していたのかもしれません。そしてそれが走湯山燈油料船の正体だったのかもしれません。

斎藤別当実盛の墓 密厳院・東明寺跡比定地

伊豆山神社古道と密厳院・東明寺跡

伊豆山神社古道と密厳院・東明寺跡

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走湯山燈油料船のネットワーク


『吾妻鏡』文治三年(1187)8月22日条には、土佐国介良荘(高知市)からの使者が貢納のため船で鎌倉に到着したという記事が見えます。介良荘は走湯山別当寺の密厳院の荘園でもあることから、この時既に高知から伊豆を経由して鎌倉を繋ぐ海運のあったことが想定されます。

また同じく吾妻鏡の弘長三年(1263)8月27日条では、鎌倉に吹き荒れた暴風雨によって、由比浦では船の沈没と、数えきれないほどの死体が波打ち際に打ち寄せられたとあり、続いて、伊豆沖では九州鎮西からの貢運送船61艘が流されたという記事がみられます。この記事からは一概には判断できませんが、鎮西からの船団が一旦伊豆に立ち寄っているようにも思えます。

Google map ①鎮西 ②介良

そもそも源頼朝の流刑地が伊豆であったように、伊豆は西国にとって地の果てとされ、つまり東国と西国とを隔てる境界線であったことがわかります。実際にも伊豆・韮山の北条氏邸跡では、京都系かわらけが一定量出土していることが発掘調査の結果からもわかっています。やはり伊豆という土地はその立地からも、東国と西国の両方からの影響を受ける土地柄であったようです。

このことからも、走湯山及び伊豆では、西国産の上質な品々を鎌倉より上流で手に入れることができるのがわかります。ですからもしかしたら、熱海船に積まれていた塩・酢とは、伊豆より西で精製された産品なのかもしれません。

伊豆韮山・北条氏邸跡

北条氏邸跡・円成寺跡

北条氏邸跡・円成寺跡

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岩手県の紫波郡紫波町には走湯神社があります。また熱海の来宮神社と関係があるのかは不明ですが、木宮神社が近接しています。そして平泉には伊豆権現堂がありました。走湯山の教線が岩手県まで広がっていた、もしくは走湯山燈油料船がここまで航海してきていたのかもしれません。

平泉・伊豆権現堂

また松島にある瑞巌寺では、13世紀~14世紀にかけた地層から出土した瓦が三村山極楽寺跡遺跡群の資料と類似しているという報告がされています。律宗が走湯山とどこまで共にして地方に進出していたのかわかりませんが、航路を利用した広大な範囲にその影響が及んだと考えられます。

現代の熱海船

律宗熱海船と走湯山燈油料船に関する地理情報

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