伊豆山神社古道と密厳院・東明寺跡
伊豆山神社領域には、地蔵尊を配した四至・四寺が東西南北にあったと云われています。前回はその四至・四寺の一画を担う光南寺・土沢地蔵堂の旧跡を訪れてきました。そして今回も同じくその四至・四寺の一つとなる西光寺なる地蔵堂の痕跡を探しに伊豆山神社からも近い般若院のある谷にやってきましたが、先に言ってしまうと、この西光寺を見つけることはできませんでした。
しかし、アタジイ(地元のご老公で熱海のジイなのでアタジイ)から伊豆山神社の別当寺であった密厳院・東明寺の旧跡と、それに関連する古道ルートの存在を教えてもらうことができたので、ちょっと行ってきました。
古道と密厳院東明寺旧跡を行く行程
伊豆山神社の四至・四寺の一つ、西光寺の痕跡を探しにこの地にやって来たのは、以下の熱海市史の記述によります。
「おそらく西光寺は岸谷の別所獅子洞に寺跡のある寺で、もとは泉越えから東、獅子の丁場や丘の丁場という行場付近にあったのであろう。」
「別所獅子洞に寺跡のある寺」「獅子の丁場や丘の丁場」などの記述がほぼ不明で、わかるのが岸谷と泉という地名ぐらいです。とにかく岸谷という土地に行けば何かあるかもしれないと思ったのが今回の行程のきっかけです。しかも未だ訪れていなかった般若院が近いのでちょうどよかったこともありました。
Google map 伊豆山 ①般若院 ②斎藤別当 ③寺山 ④赤井谷 ⑤伊豆山神社 ⑥子恋の森 ⑦行場跡 ⑧ハートピア熱海 ⑨岸谷 ⑩MOA美術館 |
そしてこちらもどこがどこなのかさっぱりわかりませんでしたが、とても興味深い箇所を熱海市史により抜粋します。以下熱海市史より引用。
「寺山から古美道にかけての地域はおそらく密厳院やその子院があったところで、寺山の北東にある閼伽井(赤井)谷は、毎日の閼伽水を汲む渓谷であろう。」
「古美道」「寺山」「赤井谷」と、ネットで調べても全く出てこない地名に困惑していたところ、上述したアタジイからそれらがどこなのか、そして伊豆山神社に向かうことのできる古道が今も残っていることなどを教えてもらうことができたので、その般若院から伊豆山神社までの道を歩いてみようと思います。
Google map 伊豆山 黒線=市道 赤線=古道 ①般若院 ②斎藤別当墓 ③伊豆山神社 |
般若院
まずは熱海駅からバスに乗って伊豆山神社の別当寺だった般若院にやってきました。既にまあまあ高台に位置しています。また、なかなかの山容をした山が目の前にあると思ったら、これは伊豆山神社の後山でした。
般若院前からの景色 |
なかなかの山容をした伊豆山神社の山 |
般若院境内には、熱海のお寺らしく、足湯が用意されていた他、五輪塔・宝篋印塔・石碑など多くの石造物が置かれていました。よく見るとちぐはぐな寄せ集めの石塔も目に付きます。
般若院 |
般若院 |
熱海市史に「いつの頃か、かつては天台宗の坊舎のあった東谷の社殿の右手(熱海厚生年金老人ホーム裏)に建てられた」とあります。熱海厚生年金老人ホームで検索してみると、ハートピアという老人ホームが出てくるので、般若院は元々伊豆山神社の東谷にあったようです。その後、明治の神仏分離によって成就坊(院)のあった現在地に移ってきました。ちなみに般若院は徳川家康の関東入府後の伊豆山神社別当寺で、中世では後述する密厳院・東明寺が別当寺を勤めていました。
※追記・訂正
文中にある「東谷の社殿の右手」にある「ハートピアという老人ホーム」はまた別の場所で、正しくはハートピア熱海というホテルが所在しています。
般若院 |
般若院 |
逢初橋
般若院の近くに逢初橋があります。「源頼朝と北条政子が劇的な対面をした」場所なんだそうです(棒読み)。ちなみに海岸寄りの国道沿いにも逢初橋がありますが、現地案内板によれば、本当の逢初橋はこちらだとありました。
逢初橋 |
岸谷町と古美道
般若院のある辺りを岸谷町と云います。西光寺の他、熱海市史に「曹源寺や浄土寺の跡」などの記述がみられます。しかし寺院跡らしき景色は見当たりません。唯一史跡らしいものとして、岸谷町の祠という小さな社殿がありましたが、縁起など何も記されていませんでした。
※追記
こちらの祠は御嶽社です。おみたけさんと呼ばれています。長野県王滝村から勧請され、室町期には存在していたと云われています。
岸谷町の祠 |
岸谷町の祠周辺に広大なスペースが残されています。熱海が人気の観光地だった時代にあった何かしらの大型商業施設跡地の可能性もありますが、場所が場所だけに、寺院・坊舎跡なのではないかと考えたくもなります。
岸谷町の広大な空き地 |
熱海市史にあった「古美道」とは般若院に隣接するこの辺り一帯を指します。五輪塔などの石塔の他、瀬戸焼や常滑焼の骨壺も出土しているとありました。伊豆山神社の僧侶や修験者たちの葬送地区だったのでしょう。般若院にあった大量の石塔のなかにはここ古美道にあったものも混在しているはずです。境内のものと境内前に置くものと、あからさまに扱いが異なりますから。
斎藤別当実盛の墓
それでは、アタジイに教えてもらったとおり、般若院から寺山方面に坂を登り、赤井谷を経て伊豆山神社に行ってみようと思います。ちなみに般若院からこの坂道を行かずそのまま進んで行くと、MOA美術館方面に向かうことが出来ます。アタジイによれば、そのまま石仏の道がある土沢に行くことができ、しかもその道筋は昔からあったものだとおっしゃってました。
寺山に向かう坂道 |
坂道が落ち着いた頃、遠景を望むことができました。初島が正面に見えます。
海の向こうに初島 |
そしてありました、斎藤別当実盛の墓です。ものすごい数の五輪塔です。斎藤実盛は越前国の出身で武蔵国幡羅郡長井庄(埼玉県熊谷市)を本拠としていました。その彼の墓がなぜここにあるのかわかりません。また熱海市史に「斎藤実盛の二子の墓」という謎の記述がありました。
斎藤別当実盛の墓 |
そして熱海市史にあったように、中世における伊豆山神社の別当寺、密厳院・東明寺がこの辺りにあったようです。周辺はそれなりの標高でありながらホテルなどが建てられていて、土地開発が進んでいます。
またこの地を寺山と云い、「豊臣秀吉の小田原征伐の際、伊豆山神社の僧兵らが本陣としたところ」だと、アタジイに教えてもらいました。何故なら寺山は背後にある岩戸山や伊豆山など標高の高い山に囲まれた地形となっているため、後ろから敵に攻められることのない要害の地を成しているからなんだそうです。また別当寺の密厳院がここにあったことも要因の一つかもしれません、詰めの城的な。
斎藤別当実盛の墓周辺 |
古道と赤井谷
それでは、ここ斎藤別当実盛の墓から伊豆山神社に行ける古道があるということなので行ってみます。ここに別当寺の密厳院が本当にあったのであれば、当時今宮と呼ばれていた伊豆山神社本殿位置に向かう道が必要ですから、古道としての真実味が増してきます。ということは、頼朝の旗上げに際し、北条政子を匿った覚淵は、のちに別当職に就き、密厳院・東明寺に住していたはずなので、この道を通っていたのかもしれません。
密厳院~伊豆山神社古道 |
道はコンクリート舗装されています。そしてホントに何の変哲もない道です。でもそこが逆に本当に古道だったのではないかという雰囲気もしてきます。
密厳院~伊豆山神社古道 |
しばらくすると、渓谷が現れました。つまり地形が谷となっている場所です。熱海市史にあった赤井谷です。仏教の閼伽に因む名だとありました。個人的には、日金山の金、赤井谷の赤など、採鉄・製鉄の土地によくある地名に、ここも鉄や鉱石が絡んでいるのではないかと思いました。
赤井谷の渓谷 |
誰とも会わない静かな道で急にもの凄い音がしてきました。蒸気を出しながら轟音をとどろかせるこの設備、温泉に関するものだと思います。いかにも熱海らしい風景と雑音です。
轟音をとどろかせる箇所 |
伊豆山神社に近づいてきたようです。これまで歩いてきた岸谷・古美道の辺りを一望できました。
古道からの景色 |
そして何の変哲もない道のまま伊豆山神社に到着。本殿の裏鳥居から伊豆山神社に入ります。この日は茅の輪が飾られていました。ご存知だと思いますが、茅の輪をくぐると厄払いの効果があります。最近仕事でアクシデント・レベルに嫌なことがあったので、一人でしたが勇気を振り絞ってくぐってきました(笑)。
この日の伊豆山神社 |
伊豆山神社境内からの景色 |
伊豆山神社 |
ということで、岸谷・古美道周辺の旧跡と、密厳院・東明寺の僧侶らが今宮・伊豆山神社との往還の道として歩いていたかもしれない古道に訪れてきました。自分の耳で聞いた情報と、昭和42年に刊行された熱海市史というある意味昭和時代の古文献の情報を照らし合わせた結果が今回の記事です。熱海をよく知らない方からすれば地味な内容だったかもしれませんが、個人的にはとても面白かったです。そして何よりもまた伊豆山神社の歴史を少しだけ掘り下げることができました。それと最後に、色々と教えてくださったアタジイ、ありがとうございました。
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