2014年6月4日水曜日

北条氏邸跡 御所ノ内エリア


韮山の西側で、狩野川と下田街道の間に守山と呼ばれる丘陵があります。下地図画像の⑥の辺りが北条氏邸だったと考えられています。また、鎌倉幕府滅亡後は北条高時の母が生き残った一族を連れこの地に円成寺を建立しています。

Google Map 伊豆韮山
①願成就院 ②守山八幡宮 ③光照寺 ④成福寺 ⑤堀越公方邸跡 ⑥北条氏邸跡・円成寺跡 ⑦真珠院跡 ⑧真珠院 ⑨子神社 ⑩満願寺跡 ⑪信光寺

北条氏邸跡・円成寺跡

発掘調査の結果


発掘調査の結果、鎌倉時代初頭の建物跡群や井戸が発見され、また、大量のからわけや青磁・白磁・青白磁など貿易陶器が出土しています。守山の丘陵部一帯のどこかに北条氏邸があったとこれまで推測されていましたが、発掘調査によって、規則的に並ぶ建物群とそれらを区画する施設が発見され、この地が北条氏邸跡と判明しました。


建物跡は全て総柱の掘立柱建物跡で現在まで15棟が確認されています。堀と思われる柱穴列、溝、井戸、水路、排水のための施設、土杭などが確認されており、12世紀末~13世紀前半の建物跡が多かったため、このとき最盛期を迎えていたと推測されています。13世紀後半から14世紀初頭に墓がつくられていたことから、この頃には邸地ではなくなったと考えられ、北条氏の歴史と符合する結果がみられます。墓は地面を掘り込んだだけの簡素なもので土杭墓と呼ばれています。かわらけなどの副葬品が添えられていて当時としてはごく一般的な墓なんだそうです。このことからも伊豆地方ではやはりやぐらは造営されていないようです。

御所ノ内エリアに残された井戸 北条政子産湯の井戸と呼ばれている

北条氏邸からの威信財遺物(権威・権力・富を象徴する持ち物)の出土量は伊豆地方では卓越しており、北条氏の権力・財力が発掘調査からも証明されています。また、京都系かわらけが一定量出土することから、やはり伊豆という立地からも鎌倉と関西の両方の影響がみられるようです。

御所ノ内エリア


北条時政が建立した①願成就院、『吾妻鏡』にあった「頼朝亭」跡とも云われる②光照寺、時政の父の平時家の持仏堂跡、もしくは北条正宗邸跡とも伝わる③成福寺、鎌倉幕府滅亡後に執権高時の母によって建立された⑥円成寺の存在から、守山の北側全体が北条氏邸、もしくは北条氏に関連する施設があったと考えられています。実際にも旧下田街道沿いで、多くの貿易陶器やかわらけが出土しています。街道沿いいっぱいまで北条氏に関連する建物が建ち並んでいたことが推測できます。

Google map 御所ノ内エリア
①願成就院 ②守山八幡 ③光照寺 ④成福寺 ⑤公方邸跡 ⑥北条氏邸跡・円成寺跡

堀越公方御所跡


そして中世末期では、鎌倉に入れずこの地に留まった堀越公方(足利政知)邸があったとされています。発掘調査の結果、建物跡だけでなく、東日本ではあまり例のない京風の池跡が発見されているので、公方様のイメージ通り豪華な御所であった可能性が高いようです。

御所跡の辺り

守山丘陵部


北条氏邸跡・円成寺跡の辺りから南側はハイキングコースや広場が作られていて、地元の方らしき方々の憩いの場となっていました。

ハイキングコース
広場

この辺りを守山砦と云うそうです。確かにひな壇状地形となっていましたが、これは現代で公園として整備されたからではないかとも思えます。また、その他では石切り跡が随所で確認出来るぐらいでした。堀越公方の御所が近接しているので城郭が施されていてもおかしくはありませんが、ここが砦だったのかどうかは微妙な感じです。

段々になっている

ハイキングコースを頂部にまで登り詰めると見晴台があって、多分、伊豆韮山で最も美しい富士山景観ポイントを望めます。

守山頂部見晴台

謎の伊豆国北条の地の歴史


願成就院に隣接する山腹に守山八幡宮があります。北条氏邸エリアにある八幡様なので、頼朝が建立したのかと思っていましたが、なんと、守山八幡宮は大化三年(647)の開創で、さらに延喜七年(907)に豊前国宇佐宮より八幡神を勧請合祀し伊豆国総社八幡と称したとありました。また、どうやら延喜式内社のようです。(古代律令体制の下に大よそ7世紀末から10世紀にかけて延喜式神名帳に記載された神社)そういえば、願成就院も寺伝によれば、天平元年(729)行基が聖武天皇の勅を奉じて建立したとも伝えられています。これら史跡の縁起が事実であれば、北条氏より古い歴史がこの地に刻まれていたことになります。

守山八幡宮
丘陵頂部では掘割状・石切り跡・平場などが確認できる

「伊豆国の願成就院の北畔に二品(源頼朝)の御宿館を建てるために土地を造成すると、たちまちに古い額が掘り出された。その文字は願成就院とあったという。」
『現代語訳吾妻鏡』より引用

『吾妻鏡』文治五年(1189)十二月九日条の記事です。「それはない」とツッコミたくなる逸話ですが、願成就院を建立していたら願成就院と書かれた額が掘り出されたというそのファンタジーな部分は置いといて、この記事からは、御所ノ内エリアに北条氏でさえその縁起を知らない古い寺院があったととらえられます。


北条時政


北条氏の北条とは古代条理制から由来するものと考えられています。韮山には中条・南條の地名も残されています。残された地名から推測できる範囲では、北条という土地はそれほど広くないそうです。このことからも時政は、少なくとも三浦氏や千葉氏などととまともに張り合うことのできる規模の一族ではなかったと推測されます。しかも時政本人は北条氏の中でも嫡流ではなかったと考えられています。

守山頂部から見た韮山

頼朝の旗上げ以前に北条時政が用意出来た軍勢を、奥富敬之先生の著書では50騎程度、細川重男先生の著書ではさらに低く見積もって30騎程度と推測しています。研究されればされるほど、時政はただの一介の地方在地領主だったことが判明してしまいます。それでも時政が凄いのは、この地方在地領主の立場から、一時的にも関東を牛耳るトップにまで昇り詰めたことでしょうか。さらに面白い事に、息子の義時に失脚させられ、またこの地に戻り晩年を過ごすというカリスマ起業家ばりの波乱万丈な人生。ちょっと男のロマンを感じます。

時政が晩年に庭いじりをしていたかもしれない願成就院

鎌倉の歴史においてこれだけの重要人物でありながら、あまり詳細が伝わらない時政ですが、名越山荘とも云われる時政の鎌倉の邸地も未だに具体的な場所がわかっていません。一説では材木座の弁ヶ谷辺りとも云われています。



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探索期間 2014年5月
記事作成 2014年6月4日

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