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北条氏邸跡・円成寺跡

2014/06/04

伊豆の国市 廃寺 北条氏

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北条氏邸跡・円成寺跡


伊豆の国市にある守山と呼ばれる丘陵一画における発掘調査の結果、鎌倉期から南北朝期にかけた何重もの遺構・遺物が発掘されました。文献・資料・伝承などでしかその存在を知られていなかった北条氏邸と円成寺がこの地にあったことが改めて証明されました。

基本情報

名称 :北条氏邸・円成寺跡
住所 :静岡県伊豆の国市寺家13
現状 :史跡地



伊豆韮山の西側で守山と呼ばれる丘陵部の一画に北条氏邸がありました。そしてのちの南北朝期には円成寺というお寺が建てられています。したがってこの記事では、北条氏邸のあった鎌倉期と、円成寺のあった南北朝・室町期の二期にわけてお伝えします。

国土地理院の地理院地図
①成福寺 ②公方御所跡 ③光照寺 ④北条氏邸・円成寺跡 ⑤守山八幡宮 ⑥願成就院 ⑦信光寺 ⑧真珠院

鎌倉期北条氏邸跡


発掘調査の結果、鎌倉期の地層からは鎌倉時代初頭の建物跡群や井戸が発見され、また、大量のからわけや青磁・白磁・青白磁などが出土しています。守山の丘陵部一帯のどこかに北条氏邸があったとこれまで推測されていましたが、発掘調査によって、規則的に並ぶ建物群とそれらを区画する施設が発見され、この地が北条氏邸跡だと判明しました。

北条氏邸跡・円成寺跡

建物跡は全て総柱の掘立柱建物跡で現在まで15棟が確認されています。堀と思われる柱穴列、溝、井戸、水路、排水のための施設、土杭などが出土しており、12世紀末~13世紀前半の建物跡が多かったため、このとき最盛期を迎えていたと推測されています。

また、京都系かわらけが一定量出土することから、やはり伊豆という立地からも鎌倉と関西の両方の影響がみられるようです。

そして13世紀後半から14世紀初頭に墓がつくられていたことから、この頃には邸地ではなくなったと考えられ、北条氏の歴史と符合する結果がみられます。墓は地面を掘り込んだだけの簡素なもので土杭墓と呼ばれるものでした。かわらけなどの副葬品が添えられている当時としてはごく一般的な墓だったようです。

北条政子産湯の井戸

北条氏邸も願成就院と同じく、北条義時・泰時以降は整備された様子を伝える資料もなく、また発掘調査の結果からも13世紀後半から邸地というより墓地として活用されていた部分もあることから、北条氏一族の大よそが鎌倉に定着していったことがうかがえます。

北条氏邸・円成寺跡
北条氏邸跡・円成寺跡

覚海円成尼


安達泰宗の娘で執権北条貞時の妻、そして執権高時の母となる女は北条貞時没後に出家して覚海円成と名乗ります。

元弘三年(1333)新田義貞の鎌倉攻めにより鎌倉幕府が滅亡した際、北条氏一門の多くがこのとき亡くなります。円成尼は残された子女などを連れ、北条氏の故郷伊豆韮山に移住してきました。

連れてきた子女や合戦で夫を亡くした未亡人らを扶持するため、また北条一族の菩提を弔うため、彼女は円成寺を建立します。

覚海円成尼

覚海円成尼

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南北朝期円成寺跡


北条氏邸跡地における南北朝期の地層からは、区画溝、土塁状の高まり、築地堀のような施設、掘立柱建物跡、堀跡、柵列、石積み、礎石建物などが確認されました。なおかつ発掘された遺物は北条氏の時代ではない、仏教的要素の強いものであったことから、文献・資料にあった円成寺がこの地に建てられていたことがわかりました。また、南北16m・東西17.5mの楕円形で岩盤を掘り込んだ池が丘陵部側で確認されています。

この山裾の岩盤が露出する池といえば、鎌倉でいうところの瑞泉寺を想起させますが、実際にも円成尼は瑞泉寺開山の夢窓疎石に帰依していました。

北条氏邸跡・円成寺跡の溝
北条氏邸跡・円成寺跡の地形の起伏
北条氏邸跡・円成寺跡の石

同じく守山の丘陵部に所在する真珠院には、建武二年(1335)の銘がある宝篋印塔などの石塔が残されており、円成寺から移されたという伝承が残されています。銘にあった年代から察するに、北条一族の冥福を祈る供養塔の可能性が高く、円成尼が関わっていたと推測されています。

真珠院にある五輪塔

その後の円成寺


円成尼は貞和元年(1345)に亡くなります。発掘調査の結果からも、その後遺構・遺物ともに少なくなるので、円成尼死後、お寺は衰退していたものと考えられます。

しかし、14世紀末から伊豆国守護の山内上杉氏の庇護を受け再び勢いを盛り返します。山内家は伊豆韮山の東側にある奈古谷に国清寺を建てそこを伊豆の拠点としていました。円成寺は国清寺の末寺となり山内家の娘が三代に渡って住持していたことがわかっています。将軍足利義政に御器や海苔を送っていたという残された資料からも、足利将軍家との良好な関係が推測されます。

そして15世紀後半以降、山内家の勢力が衰えたと同時に、国清寺や円成寺もしだいに衰退したようで、15世紀後半から遺構・遺物ともに確認できなくなりました。この頃に円成寺が廃絶したと考えられています。

参考資料


五味文彦他編『現代語訳吾妻鏡〈4〉』
池谷初恵著『鎌倉幕府草創の地』
伊豆の国市教育委員会編『願成就院跡』
韮山町教育委員会編『史跡北条氏邸跡発掘調査報告Ⅰ』

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