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大慈寺(跡)の所在地の謎と鎌倉の方位方角

2021/09/01

鎌倉市 廃寺

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大慈寺の所在地の謎と鎌倉の方位方角


今回は、鎌倉時代の陰陽師の報告にある最明寺と大慈寺、または最明寺と永福寺の方角の関係から、大慈寺の所在地を改めて検証してみたところ、鎌倉の方位方角に関する勉強ができたというお話です。

目次 ●大慈寺の所在地の謎
●大慈寺と最明寺の方角
●若宮大路を子午線とする方角
●丈六(じょうろく)と常楽(じょうらく)
●月輪寺と月輪寺殿の補足
●あとがき

大慈寺の所在地の謎


十二所二ツ橋の明王院のある場所を中心に鎌倉幕府四代将軍の藤原頼経が創建した五大堂がかつては所在していました。寛永年間(1624~1644)の火災で不動堂のみが残り現在に至ります。『新編鎌倉志』の記述から、江戸時代に水戸光圀がこの谷戸に訪れたときには、この明王院と大慈寺に関する丈六堂らしきお堂が残っているだけだったようです。


二ツ橋

源実朝が栄西を開山に迎え創建した大慈寺が明王院のある谷戸の東側に所在していたと伝えられています。また『吾妻鏡』寛喜二年(1230)6月18日条には、北条時氏を「大慈寺の傍の山麓に葬る」とあります。時氏は泰時の子で経時・時頼の父にあたります。執権職を継ぐ立場にありましたが若くして病死してしまいました。

大慈寺跡からは「大慈寺」と銘のある瓦が発見されているので、大慈寺がここにあったことはほぼ間違いないと思われますが、『鎌倉廃寺辞典』では、明王院所蔵『鎌倉五大堂事蹟備考』巻之四にある以下の一文を紹介していました。


此ノ大慈寺トハ、五大堂ノ艮ニ当リ、三町程ニシテ桐ガ沢ノ谷ニ旧跡在リ



五大堂の艮(丑寅=鬼門)の方角にあたる桐ガ沢に大慈寺の旧跡があるということですが、桐ガ沢とは新編鎌倉志が伝える月輪寺(廃寺)のあった霧ヶ沢で、つまり月輪寺があったとされる霧ヶ沢(御坊ヶ谷)に大慈寺が所在していたと記されています。そして面白いことに、吾妻鏡が大慈寺の山麓に葬られたと記す北条時氏の法号を月輪寺禅阿と言います。

この月輪寺殿北条時氏が葬られた大慈寺が月輪寺のあった谷戸に所在していたとしたら、どことなく辻褄が合ってしまいますね、はてさて、ということで今さらながら伝えられている大慈寺の旧在地が覆る可能性があるのでしょうか。これはちょっと面白そうなので調べてみることにしました。

Google map 十二所
①大慈寺(廃寺) ②明王院 ③明石ヶ谷 ④光触寺 ⑤月輪寺(廃寺)

大慈寺と最明寺の方角


『吾妻鏡』正嘉元年(1257)8月18日条に、陰陽師が西御門の山に登って方角を調べた記事があります。そこではその陰陽師が、「最明寺から大慈寺は辰戌の方角、最明寺と永福寺は卯酉の方角にあたる」と報告しています。

この方角の記述から大慈寺のある程度の所在地を割り出せるのではないでしょうか。ちなみに最明寺(廃寺)とは晩年の北条時頼亭にあったお寺で、現在の明月院がある辺りに所在していたとされています。したがって明月院の所在地を最明寺と仮定し、明月院と大慈寺跡・永福寺跡の位置関係に迫ってみたいと思います。

十二支の方位
Google map
①最明寺跡(明月院) ②永福寺跡 ③月輪寺跡 ④大慈寺跡

グーグルマップに各史跡をプロットして線を引いてみました。③月輪寺も④大慈寺も①最明寺からは微妙に辰戌の関係にあるので「大慈寺が月輪寺位置にあったのではないか」という説を検証することは難しいように思えます。しかしそれよりも①最明寺と②永福寺が卯酉の関係にないのは一目瞭然です。一体これはどうしたのでしょう、何かを間違えたのでしょうか。

若宮大路を子午線とする方角


実は『鎌倉市史:社寺編』にこの件に触れている箇所があります、以下。

「これは仮説ではあるが、この陰陽師達の方角は若宮大路の線を子午線(南北)としたものでなかろうか。こう考えてみても誤差はあるのであるが、まず現在の明月院と永福寺を結ぶ線が若宮大路の延長戦に対して直角に交わるのである。大慈寺との関係も、大慈寺の位置が伝えられる通りであるとすれば、これと最明寺とを結ぶ線は、若宮大路の子午線に対して、多少の誤差はあるがまず辰戌とするのが一番近いのである。」



ということで若宮大路を子午線とすることで問題が解決するようです。そこで若宮大路を子午線としてグーグルマップを傾けてみました。

Google map
①最明寺 ②永福寺 ③月輪寺 ④大慈寺

凄い!最明寺と永福寺が卯酉の関係になりました。ついでに月輪寺も卯酉にあたります。がしかし、今度は大慈寺の位置が微妙になってしまいました。辰戌というか、その、辰酉みたいな位置関係になっています。

まあこの辺りは市史が「多少の誤差はあるがまず辰戌とするのが一番近いのである」と言っているので、鎌倉時代であれば、これくらいでも最明寺と大慈寺を辰戌の関係とするのかもしれません。

このことから、月輪寺の所在地は最明寺と卯酉の関係にあたるため、少なくとも明王院所蔵の文献が伝えるような大慈寺が月輪寺の場所にあったという説には今のところ同意できません。但しもう少し大慈寺周辺に関することを調べてみました。

丈六(じょうろく)と常楽(じょうらく)


大慈寺の南側六浦道沿いにある石塔残欠が集められている場所は、北条泰時が北条政子供養のために建てた大慈寺丈六堂の跡地といわれています。これは『新編鎌倉志』に載せられている説ですが、『鎌倉廃寺辞典』では、「正嘉元年(1257)の(吾妻鏡の)記事から考えてどうしても明王院の東にあたると思われる」「いくら昔のことでも話があわない」と述べています。

丈六堂跡

『十二所地誌新稿』によれば「大慈寺は常楽(今は栄光学園用地)と下常楽(〇〇さんという個人の邸宅)との間にあったと云う」とあります。栄光学園用地とは現在修道院がある場所を指します。そして大慈寺の裏山を阿弥陀山と言います。

ここで気付きましたが、この常楽(じょうらく)という字名は、丈六堂の丈六(じょうろく)から転訛したのではないでしょうか。十二所が常楽と呼ぶこの地は、ちょうど大慈寺の東にあたるので、吾妻鏡の正嘉元年(1257)にある大慈寺の東に丈六堂を建てたという記事と辻褄が合います。

この「丈六→常楽」の転訛説が正しければ、やはり大慈寺は現在定説となっている明王院の東隣にあったという証拠にも成り得ると思います。したがって明王院所蔵の文献にあった「大慈寺は明王院の鬼門の方角となる桐ガ沢に所在していた」という説は著者の何かの勘違いだったのではないかと考えざるをえません。

Google map
①大慈寺 ②阿弥陀山(常楽) ③丈六堂

上地図画像は若宮大路を子午線として傾けたものです。大慈寺の正確な伽藍位置がわからないので何とも言えない部分もありますが、丈六堂があったとされる②阿弥陀山と、新編鎌倉志がいう③丈六堂跡の位置が大慈寺からすると微妙に鬼門と裏鬼門にあたるような気もします。鎌倉廃寺辞典が③丈六堂の位置に疑問を投げかけていましたが、この観点からは大慈寺と何か関係がありそうな雰囲気です。

ということで、北条時氏の月輪寺という寺号の謎は解けていませんが、吾妻鏡の正嘉元年(1257)にある記事から大慈寺の位置を割り出したところ、やはりこれまでの定説どおりの場所に大慈寺があったと判断せざるを得ない結果となりました。それから鎌倉市史が提言するように、鎌倉時代の鎌倉では若宮大路を子午線として方角を定めていたようです。

大慈寺旧跡の碑

月輪寺と月輪寺殿に関する補足


〇『鎌倉廃寺辞典』によれば、明王院所蔵の『鎌倉五大堂事蹟備考』を著したのは、楳沢の実応という僧侶で、天保十年(1839)に明王院に来て、寺蔵の文書を参考にして書いたとありました。また月輪院は五大堂の坊舎でもあったということなので、この実応という僧侶が何かしら話を混同してしまった可能性も考えられます。ちなみに院と寺の違いは気にしないでいいと廃寺辞典が言っています。

〇同じく『鎌倉廃寺辞典』によれば、「『社務職次第』に「十六代顕弁、号月輪院」とみえる」とあるので、そもそも月輪院とは、鶴岡別当の顕弁の菩提寺として創建された可能性も考えられます。したがって北条時氏とは何も関係ないととらえることもできます。

〇今回、『吾妻鏡』『鎌倉廃寺辞典』『鎌倉市史:社寺編』『十二所地誌新稿』『新編鎌倉志』など、一級品の著書・資料を参照しましたが、北条時氏の法号「月輪寺禅阿」の部分だけはソースがウィキペディアなので、そもそも情報自体の信憑性に欠けるかもしれません。

〇最後に、「『若狭国志』北条経時の伝に「法名安楽 号月輪寺」とみえる」とあるそうです。もうなにがなんだか・・。

あとがき


天園ハイキングコース上にある十王岩からの景色を眺めていると、海からの気運というか、自然が創りだす神々しい何かが若宮大路を伝って自分の中に入ってくるような気がします。この景色を思い出すと、若宮大路のあまりの存在感に、若宮大路が指す方向こそ子午線ではないかと自分自身もそう思ってしまいます。

十王岩からの景色 中央に若宮大路が見える

地図情報

名称:大慈寺跡
住所:神奈川県鎌倉市十二所66
現状:石碑有り


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