鎌倉永福寺のモデルは無量光院
鎌倉永福寺のモデルは無量光院 |
源頼朝が創建した永福寺(廃寺)は、平泉にあった大長寿院(二階大堂)を模範として建てられたことは有名ですが、この度、実際のモデルは同じく平泉の無量光院であることが判明しました。それでは御一読くださいませ。
永福寺と平泉
永福寺は、文治五年(1189)の奥州合戦にて、平泉の地を訪れた源頼朝が中尊寺の大長寿院(二階大堂)などを模範して建立したといわれています。伽藍は東を正面にした全長が南北130mに及ぶ伽藍で、前面には南北100m以上ある苑池が造られていました。下画像の手前から阿弥陀堂・二階堂・薬師堂となっています。往時では隆盛を極めましたが、応永十二年(1405)の火災による焼失以後、再建されなかったと考えられています。現在は跡地が史跡公園として整備されています。
永福寺(現地案内板CG再現図) |
『吾妻鏡』文治五年(1189)12月9日条より(吉川弘文館現代語訳吾妻鏡第4巻から引用。)
「今日、永福寺(造営)の事始めがあった。奥州で(藤原)泰衡が管理した寺院をご覧になり、この寺の建立を企てられたもので、その心の内は、一つには数万の怨霊をなぐさめ、一つには三有の苦しみを救うためである。そもそもかの(泰衡が管理した)緒寺が軒を並べていた中で、大長寿院と称する二階建ての大堂があり、ただこれを模されたもので、別称として二階堂と号することになった。」
永福寺跡 |
平泉には中尊寺以外にも豪勢な伽藍を擁する寺院が当時は複数存在し、またどれもほぼ平安浄土庭園式の伽藍構成となっていました。そして源頼朝をはじめとする鎌倉の御一行らはそれらを目の当たりにしたことでしょう。吾妻鏡で彼らが確実に目にしたと確認できるのは、8月22日の柳ノ御所、9月23日の無量光院、9月27日の長者ヶ原廃寺跡、9月28日の達谷窟毘沙門堂です。
無量光院(現地案内板CG復元図) |
永福寺と無量光院
上記したように、吾妻鏡では大長寿院を模して永福寺を建立するとありますが、現地案内板にあった無量光院の復元図を見たとき、永福寺の復元図とそっくりだと思いました。もちろん同じ浄土庭園式だということもありますが、しかし興味深いことに、無量光院は本堂の真上で背後の金鶏山に夕日が沈むよう設計されており、浄土と現世との一体感を表しているとありました。この無量光院に着目してみると、永福寺も西側を背にして建てられていることに気付きます。永福寺の場合、背後の崖が少し高いので無量光院のような光景は拝めないかもしれませんが、もしかしたらこの設計を意識していたのではないかと考えずにはいられません。
無量光院 |
Google map 永福寺跡(オレンジのピン)の無量光院的なイメージ |
実際にこの場所で日の入りを確認したことはないので断言はできませんが、永福寺全体を見渡せる東にある山から鎌倉初期に築かれた経塚が発掘されています。そしてここからならたぶんですが無量光院のようにお堂の上に沈む日の入りを確認することができると思います。またそのような場所であるからこそ経塚を築いたのではないでしょうか。
このように、永福寺と無量光院は、浄土庭園式であること、そしてお堂の上で日没を拝する設計であることなど、共通点も多く、また吾妻鏡には、頼朝らが無量光院にガイド付きで訪れている様子が記されていることからも、永福寺のモデルは無量光院であったと考えられます。
Google map 永福寺跡 |
永福寺と長者ヶ原廃寺跡
一方で頼朝らが9月27日に向かった長者ヶ原廃寺跡ですが、こちらでは背後にある中尊寺の鎮座する丘陵の最も高いポイントに建物の中心線を合わせていることがわかっています。無量光院にしろ、この長者ヶ原にしろ、京の都ならまだしも平泉で既にこのような精密な建築が行われていたことに関心してしまいます。
長者ヶ原廃寺跡 |
この長者ヶ原の例を永福寺に当てはめてみると、なんと、永福寺の中心にある二階堂の背後から真っ直ぐ線を引くと鶴岡八幡宮に到達し、尚且つ驚くことにその線上に頼朝法華堂が位置するのです。これは計画されたものなのかと、驚きを隠せません。ですから頼朝をはじめ鎌倉の関係者らは平泉の浄土庭園付きの伽藍構成を真似ただけでなく、こうした綿密な計算も模範としていたのではないでしょうか。
鎌倉のことだから「あっ、それ全部偶然!」とかいう答えが待っている可能性もありますが、個人的には計算の内なのではないかと考えたいと思います。
Google map 永福寺 ①永福寺 ②頼朝法華堂 ③鶴岡八幡宮 |
まとめ
今回、永福寺のモデルは無量光院というタイトルではありましたが、実際は平泉にあった寺院それぞれを吟味した結果が永福寺なのだと思われます。但し無量光院のあの「日の入りモデル」はかなりの確率で反映されているのではないかと個人的には思います。それに無量光院の無量とは「はかりしれないほど」という意味なので、永福寺の「永」とは類義語と判断しても間違いではないと思います。また無量光院の「光」も、仏教的な意味合いとして、光とはそれはつまり「福」であるととらえても差し支えないと思います。多少のこじつけ感は否めませんが。
長者ヶ原廃寺跡 |
無量光院跡 |
柳ノ御所 |
地図情報
名称:永福寺跡住所:神奈川県鎌倉市二階堂
現状:史跡公園
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