タイトルのテキスト
タイトルのテキスト
タイトルのテキスト
タイトルのテキスト

建長寺旧参道

2014/11/20

鎌倉市 建長寺

t f B! P L

〈建長寺〉旧参道

半僧坊参道は新道だった


『建長寺正統庵領鶴見寺尾郷図考』(以下建長寺図考)より引用。
「半僧坊への参道は、現在のように整備されるまでは、河村瑞賢の墓付近の台地を通過し、丘陵の尾根道(旧道)を通っていた。それが現在の参道(新道)が開設されたので雲外庵の旧地を通ることになった。」


つまり建長寺中心伽藍を抜け、半僧坊に向う現在の参道は新道であり、河村瑞賢の墓がある丘陵部尾根が半僧坊(勝上獄)へと向う昔の道だったようです。実際にも明治初期まであったとされる雲外庵が現在の参道位置に所在していたため、確かにあの場所を通り抜けることはできなかったはずです。今回はこの半僧房へ向かう旧参道に焦点を当ててみました。

国土地理院の地理院地図 建長寺
①中心伽藍 ②雲外庵跡 ③旧参道 ④半僧房 ⑤十王岩 ⑥回春院 ⑦巨福呂坂 ⑧第六天

建長寺伝延宝図


建長寺境内を描いた古絵図『建長寺伝延宝図』(以下延宝図)に、この道筋が描かれています。絵図にもあるように、現在の参道位置には塔頭が建ち並んでいたため、華厳塔(絵図②)や金剛院跡(絵図③)付近の尾根道を通って勝上獄(半僧坊)へと向かっていたことがわかります。

建長寺伝延宝図 右が北側
①十字路 ②華厳塔 ③金剛院跡 ④熊野社 ⑤勝上獄(半僧坊)

旧参道


右手に行くと回春院、真っ直ぐ進むと半僧坊の道導となる石碑のある十字路を左手に行くと、旧態地形が残されています。底面が舗装されていますが、切通された様子がわかります。これが建長寺図考の云う旧道で、延宝図にも描かれている当時の勝上獄へと向う道です。



河村瑞賢墓平場


階段を登り詰めると、河村瑞賢の墓がある平場が現れます。この辺りを延宝図で確認すると、華厳塔と金剛院跡が描かれています。

建長寺伝延宝図
①華厳塔 ②金剛庵 ③宝泉庵 ④雲外庵

『かまくら子ども風土記』に、昭和9年(1934)に河村瑞賢の墓を保存する会が参道や墓を修理し立派にしたとありました。底面が舗装されていますが、丘陵部寄りにはやぐららしき横穴が2基、その他に井戸が確認できます。どう見ても寺院跡でしょうか。延宝図から推測するに、河村瑞賢墓平場は、どうやら金剛院跡平場を整備したものと思われます。

河村瑞賢墓平場
丘陵部にあったやぐららしき横穴 どちらかというと座禅窟?

ちなみに河村瑞賢は、元禄12年(1699)に没した江戸時代前期の商人で、極貧の幼少期から持ち前のアイデアと知略で「並ぶ者がない富商」にまで登り詰めめた人物です。起業家なら誰もが憧れるサクセス・ストーリーを地で行く超カリスマです。

華厳小宝塔


建長寺の法堂に華厳塔の模型が展示されています。案内板に「華厳とは宇宙全体を包括するという毘盧遮那仏のもと自然界に大小さまざまな花が咲くように私たち一人ひとりが互いに輝く華となって一瞬一瞬を生き生きとこの世を美しく飾っていこうとする世界です。」とありました。また、建長寺創建当初より華厳塔があったとも記されています。オリジナルがどれくらいのサイズだったのかわかりませんが、こんな立派な建物があったんですね。

華厳小宝塔

旧態旧道


河村瑞賢墓平場から尾根道を挟んだ向こう側にも平場があります。もしこれが往時からの地形であれば、延宝図は何かを描き忘れたのかもしれません。もしかしたら、もしかするとここが華厳塔のあった場所だったりして・・。

河村瑞賢墓平場お隣の平場

河村瑞賢墓平場からさらに尾根道を登って行きます。ここからは底面も舗装されていない本当の旧態地形となります。

左が河村瑞賢墓平場
ここから本格的な旧態地形となる旧道

尾根道上には「庚申塔」や「猿田彦大神」などと刻まれた石塔類が普通に落ちています。これら石造物をそのままにしているのは、旧跡をめぐることを趣味とするごく少数のマニア向けへのサービスかと思えてくるほどの素敵な雰囲気です。

猿田彦大神 米屋さん寄進?

さらに進むと、石切り跡の影響なのかわかりませんが、掘割状にも思える地形などが確認できました。そして半僧坊権現のある勝上獄へとたどり着きます。

半僧坊と正規ルートの参道が右手に見える

ちなみにこのまま半僧坊に上らず奥へ行くと、横穴とどこか人口的な造作を感じる切岸などが確認できます。土地の崩落でもあったのか、辺りはものすごい断崖絶壁です。底面がすっぽり抜けてしまったようにも思えます。だからそれら横穴・切岸には近づけません。

中央やや右に横穴が見える
向こう側の壁面に何か意図的で人口的な造作が感じられる
すぐ下は断崖絶壁
下方をズーム 断崖絶壁の下の方にこちらも横穴と切岸が確認出来る

四方鎮守熊野社


延宝図の勝上獄の西隣に熊野社が描かれています。第六天社の案内板に、建長寺には四方鎮守として、中央五大尊と八幡(東)・熊野(北)・子神(西)・第六天(南)があったと記されています。また、現在建長寺の四方鎮守の中で、その位置と沿革が明らかなのは第六天だけともあります。

建長寺伝延宝図
①四方鎮守熊野社 ②勝上獄

もしかしたら、あの切岸や横穴があった場所は、延宝図から推測するに、位置的にもこの熊野社跡でしょうか。建長寺の四方鎮守は「その位置と沿革が明らかなのは第六天だけ」とあったように、確かに、底面がない状態ではここが熊野社跡だとしても何も調べようがありません。その位置と沿革が明らかになることは今後も期待できないのかもしれません。

熊野社跡?付近から見える「不老水」の谷

上画像の向こうに見える谷は、延宝図から推測するに「不老水」と記された辺りかと思わます。鎌倉学園のグランドとなっているため近づけませんし、すっかり土地開発されてしまっているようです。不老水は鎌倉五名水の一つです。それにしても不老水って、一体どんな由来があってそのような呼び名になったんでしょうね。

基本情報

場所  :建長寺
住所  :神奈川県鎌倉市山ノ内8
駐車場 :有り
拝観時間:8時30分~16時30分
拝観料 :大人(高校生以上)500円・小人(小中学生)200円

建長寺関連記事


建長寺中心伽藍

建長寺中心伽藍

寺号は建長寺が創建された元号を朝廷の使用許可を得て付けたもので、山号は地名の巨福呂(小袋)、もしくは巨福呂坂からとったという説と、建長寺塔頭の西来庵の裏山の名前からとったという説があります。風土記では後者の説の方だろうとありました。建長五...

建長寺回春院と地獄谷

建長寺回春院と地獄谷

建長寺回春院のある辺りは、元々地獄谷と呼ばれた処刑場でした。ですからある意味で、建長寺が創建された建長五年(1253)より古い歴史があるといえるでしょう。この記事ではその地獄谷周辺と建長寺塔頭の回春院に焦点を当ててみました。建長寺中心伽藍を抜け、...

建長寺勝上獄 半僧坊

建長寺勝上獄 半僧坊

建長寺の境内を最奥まで進むと、勝上獄・奥の院などと呼ばれるエリアとなります。ほぼ天園ハイキングコース沿いとなります。ここには明治23年(1890)に静岡県の奥山方広寺から勧請された半僧坊権現が祀られています。建長寺中心伽藍を抜けて、長い参道を進み...

建長寺伝延宝図

建長寺伝延宝図

古絵図は、建長寺境内を描いた『建長寺伝延宝図』(以下延宝図)と呼ばれるもので、延宝六年(1678)徳川光圀施入と伝えられています。実際にも元禄十六年(1703)頃に材木座から建長寺域内に移ってきたとされる円応寺(新居閻魔堂)が描かれていません。また、建...

建長寺歴代住持

建長寺歴代住持

建長寺の歴代住持を調べてみると、どこかで聞いたことのあるような名前ばかりです。「この人も建長寺にいたの?」という「オールスター感」は半端ありません。ということで、今回は建長寺歴代住持のなかでも特に有名な歴史上の人物に焦点を当ててみました。記...

建長寺招寿軒のおばあちゃんの話

建長寺招寿軒のおばあちゃんの話

建長寺の中心伽藍を抜け、半僧坊方面へ奥に入っていくと、途中に寺院にはとうてい見えない普通の民家が並んでいます。「建長寺の境内に誰か住んでいるのだろうか?」と疑問に思い、以前にこの一画にある家の前で座っていたおばあちゃんに話しかけたことがあ...

ブログ内検索

ブログ アーカイブ

お問い合わせ

名前

メール *

メッセージ *

QooQ