2014年11月28日金曜日

建長寺歴代住持


建長寺の歴代住持を調べると、どこかで聞いたことのあるような名前ばかりです。「この人も建長寺にいたの?」という「オールスター感」は半端ありません。ということで、今回は建長寺歴代住持にスポットをあててみました。記事内のデータは主に建長寺発行『建長寺』にある住持位次を参考にしています。

住持名  蘭渓道隆
勅諱号  大覚禅師
示寂   弘安元年(1278)
塔頭   西来庵


建長寺開山の蘭渓道隆は、宋からの渡来僧です。『鎌倉市史 社寺編』(以下市史)に、成都の大慈寺において得度し、諸所をめぐり、無明慧性のもとで悟りを開いたとありました。宋で泉涌寺来迎院の月翁智鏡に出会い、日本の事情を聞いて来日する決意を固めたと云われています。寛元四年(1246)に来日し、京から鎌倉に赴き、寿福寺常楽寺と渡り、建長寺の開山として迎えられました。

蘭渓道隆

蘭渓道隆が鎌倉に訪れたのが北条時頼が執権になった翌年です。当時は浄土教がトレンドで、幕府は主に天台宗・真言宗を加護していました。そこへ時頼と蘭渓道隆が、日本で初めて禅寺と称した建長寺を創建したことは、仏教の観点からすれば、歴史的にとても重要な節目だったと言えるのかもしれません。

栄西開山の寿福寺 蘭渓道隆も住していた

蘭渓道隆は鎌倉に13年いた後、弘長元年(1261)に建仁寺(京都)に移ります。その後の行動は複雑で、文永九年(1272)にまた鎌倉に戻りますが、甲斐や奥州松島に向います。そしてその後再び鎌倉に戻ったかと思えば、また甲斐へと向かいます。最後にようやく鎌倉に戻り、弘安元年(1278)に亡くなりました。明らかではありませんが、時代的に元のスパイと疑われたり、他宗との軋轢によって、このように忙しない移動があったようです。蘭渓道隆は、大覚禅師と云って禅師号を日本で初めて贈られた人物です。建長寺塔頭の西来庵にその大覚禅師の墓が現在も丁重に安置されているそうです。

大覚禅師の塔所 西来庵

住持名  兀庵普寧
勅諱号  宗覚禅師
示寂   建治二年(1276)


建長寺2世の兀庵普寧は、文応元年(1260)に宋から来日した渡来僧です。はじめ京都の東福寺にいましたが、北条時頼の招きにより、建長寺へと入山しています。その他、浄智寺の開山に名を連ねていますが、後述する大休正念が壮年であったことによる名義貸しのようなかたちだったと考えられています。文永二年(1265)に本国に帰りました。

浄智寺

住持名  大休正念
勅諱号  仏源禅師
示寂   正応二年(1289)


建長寺3世の大休正念は、こちらも渡来僧で、上記したように、浄智寺の開山にも名を連ねています。その他、大慶寺の開山にも迎えられています。

大慶寺

住持名  無学祖元
勅諱号  仏光禅師
示寂   弘安九年(1286)


建長寺5世の無学祖元は、言わずと知れた円覚寺の開山で、こちらもまた宋からの渡来僧です。北条時宗に深く帰依されたと云われています。弘安九年(1286)に建長寺で亡くなりました。蘭渓道隆と同じく西来庵にお墓があるそうです。

円覚寺

住持名  一山一寧
勅諱号  一山国師
示寂   文保元年(1317)
塔頭   玉雲庵


建長寺10世の一山一寧は、元からの使者として来日した渡来僧です。二度に渡る元寇によって、警戒を怠らなかった幕府によって伊豆修善寺に幽閉されてしまいます。時の執権貞時がその後に建長寺・円覚寺・浄智寺などの住持に迎えました。多くの人に尊敬され、文保元年(1317)に南禅寺で亡くなっています。

伊豆修善寺にある指月殿 額は一山一寧の書と伝わる

住持名  高峰顕日
勅諱号  仏国国師
示寂   正和五年(1316)
塔頭   正統庵


建長寺14世の高峰顕日は、後嵯峨天皇の皇子です。無学祖元に師事し、弟子に夢窓疎石がいます。塔所となる正統院が現在も存続しています。

正統院

住持名  南山士雲
示寂   建武二年(1335)


建長寺19世の南山士雲は、京都東福寺から鎌倉に招かれました。建長寺の他、弁ヶ谷にあったと伝わる崇寿寺の開山にも迎えられています。崇寿寺は北条高時の開基なので、南山和尚はこの最後の得宗執権から帰依を受けていたようです。また、金沢の泥牛庵も南山和尚の開山です。現在の泥牛庵所在地は、近世において御茶山と呼ばれた藩主の見晴らし台として活用されていました。

泥牛庵

住持名  竺仙梵僊
示寂   貞和四年(1348)


建長寺29世の竺仙梵僊は、元からの渡来僧です。浄妙寺浄智寺などを経て建長寺の住持に迎えられました。浄智寺裏山で葛原岡ハイキングコース沿いにある天柱峰という場所は、竺仙梵僊が名付けたものと伝わっています。往時では由比ヶ浜を眺めることができた景勝地でした。

天柱峰

住持名  古先印元
勅諱号  正宗広智禅師
示寂   応安七年(1374)
塔頭   広徳庵


建長寺38世の古先印元は、長寿寺や京都等持寺の開山に迎えられていることからも、足利氏に深く帰依されていたことがわかります。元に渡り、後の建長寺22世となる清拙正澄の来日に伴い帰国し、甲斐や陸奥国などにも住しています。留学経験に加え、帰国後もかなり精力的に各地に赴いています。長寿寺の記事でも触れましたが、長寿寺には創建年月日の逆サバ読み疑惑があります。足利氏がどうしても古先和尚を開山にしたかったからだと思われます。

長寿寺

住持名  方崖元圭
示寂   応安三年(1383)


建長寺47世の方崖元圭は、金龍禅院や上杉憲方が開基の能仁寺(廃寺)の開山にも迎えられています。かながわ考古学財団『上行事裏遺跡』に、「能仁寺は上杉氏の六浦支配の宗教的中核であった」と記されていました。ですからそれ程重要なお寺の開山として迎えられた方崖和尚は、上杉氏から特に帰依を受けていたものと思われます。

金龍禅院



記事作成 2014年11月28日

建長寺関連記事


建長寺伝延宝図

延宝六年(1678)徳川光圀施入と伝えられる建長寺境内を描いた古絵図

巨福呂坂

鎌倉と山ノ内を結ぶ鎌倉の大動脈にある坂道

建長寺四方鎮守 第六天エリア

建長寺の四方鎮守のひとつ第六天が所在する丘陵部に残された遺構

建長寺中心伽藍

日本初の禅寺建長寺の直線上に伽藍が建ち並ぶ魅惑の中心部

建長寺雲外庵跡

半僧坊参道にあった建長寺塔頭跡に残された痕跡

建長寺旧参道

勝上獄へ向う旧道沿いに残る塔頭や華厳塔の痕跡をめぐるルート

建長寺勝上獄 半僧坊

雄大な景色を望める半僧坊権現が祀られた勝上獄エリア

ワメキ十王跡

建長寺伝延宝図に描かれた十王跡とレイライン上に位置する十王岩

建長寺回春院と地獄谷

建長寺の歴史を遡る地獄谷に残された伝承の痕跡をめぐる

建長寺歴代住持関連記事


寿福寺

鎌倉五山第三位の古刹

浄智寺

多くの名僧・高僧が住持した鎌倉後期の禅宗寺院

長寿寺

足利尊氏邸跡に建つ禅寺の粋を極めた期間限定のお寺

常楽寺

聖人君子北条泰時の菩提寺

大慶寺

往時は関東十刹に列した大寺院で寺分の中心的存在

浄妙寺

鎌倉五山第五位の名刹で足利氏の邸地跡というブランド感満載のお寺

弁ヶ谷 北条時政邸跡

材木座にある弁ヶ谷の往時の姿を検証。

泥牛庵

近世において藩主の見晴らし台として活用されたお寺

能仁寺跡

関東管領上杉氏の六浦支配の拠点となった禅宗寺院の跡

金龍禅院

近世では多くの観光客が訪れた名勝の地

修善寺

将軍頼家が幽閉された山岳に囲まれた伊豆秘境の地

指月殿

北条政子が創建した将軍頼家の墓所

北鎌倉エリア


長寿寺

足利尊氏邸跡に建つ禅寺の粋を極めた期間限定のお寺

明月院

関東管領上杉憲方の菩提寺で禅寺の極み

明月院 明月谷

明月谷の地に重なるいくつもの遺構と歴史に迫る

浄智寺

多くの名僧・高僧が住持した鎌倉後期の禅宗寺院

天秀尼と東慶寺

近世に縁切寺法を確立させた東慶寺の中興祖

東慶寺 ~縁切寺

明治時代までは女性救済のための尼寺だった古刹

葛原岡神社

源氏山ハイキングコース上にある日野俊基を祀る神社

瓜ヶ谷やぐら群

地蔵坐像や五輪塔の浮彫などが施された瓜ヶ谷のやぐら群