建長寺の歴代住持を調べてみると、どこかで聞いたことのあるような名前ばかりです。「この人も建長寺にいたの?」という「オールスター感」は半端ありません。ということで、今回は建長寺歴代住持のなかでも特に有名な歴史上の人物に焦点を当ててみました。記事内のデータは主に建長寺発行『建長寺』にある住持位次を参考にしています。
目次
●蘭渓道隆●兀庵普寧
●大休正念
●無学祖元
●一山一寧
●高峰顕日
●南山士雲
●竺仙梵僊
●古先印元
●方崖元圭
建長寺歴代住持
蘭渓道隆
勅諱号:大覚禅師
門派 :大覚
示寂 :弘安元年(1278)
塔頭 :西来庵
建長寺開山の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)は、宋からの渡来僧です。『鎌倉市史 社寺編』(以下市史)によれば、成都の大慈寺において得度し、諸所をめぐり、無明慧性のもとで悟りを開いたとあります。宋で泉涌寺来迎院の月翁智鏡に出会い、日本の事情を聞いて来日する決意を固めたと云われています。寛元四年(1246)に来日し、京から鎌倉に赴き、寿福寺・常楽寺と渡り、建長寺の開山として迎えられました。
蘭渓道隆 |
蘭渓道隆が鎌倉に訪れたのが北条時頼が執権になった翌年です。当時の幕府は主に天台宗・真言宗を加護していました。そこへ時頼と蘭渓道隆が、日本で初めて禅寺と称した建長寺を創建したことは、仏教の観点からすれば、歴史的にとても重要な節目だったと言えるのかもしれません。
栄西開山の寿福寺 蘭渓道隆も住していた |
蘭渓道隆は鎌倉に13年いた後、弘長元年(1261)に建仁寺(京都)に移ります。その後の行動は複雑で、文永九年(1272)にまた鎌倉に戻りますが、甲斐や奥州松島に向います。そしてその後再び鎌倉に戻ったかと思えば、また甲斐へと向かいます。最後にようやく鎌倉に戻り、弘安元年(1278)に亡くなりました。
明らかではありませんが、時代的に元のスパイと疑われたり、他宗との軋轢によって、このように忙しない移動があったようです。蘭渓道隆は、大覚禅師と云って禅師号を日本で初めて贈られた人物です。建長寺塔頭の西来庵にその大覚禅師の墓が現在も丁重に安置されています。
大覚禅師の塔所 西来庵 |
兀庵普寧
勅諱号:宗覚禅師
門派 :宗覚
示寂 :建治二年(1276)
建長寺2世の兀庵普寧(ごったんふねい)は、文応元年(1260)に宋から来日した渡来僧です。はじめ京都の東福寺にいましたが、北条時頼の招きにより、建長寺へと入山しています。その他、浄智寺の開山に名を連ねていますが、後述する大休正念が壮年であったことによる名義貸しのようなかたちだったと考えられています。文永二年(1265)に帰国しました。
浄智寺 |
大休正念
勅諱号:仏源禅師
門派 :仏源
示寂 :正応二年(1289)
建長寺3世の大休正念(だいきゅうしょうねん)は、こちらも渡来僧で、上記したように、浄智寺、そして大慶寺の開山にも名を連ねています。その他、禅興寺・建長寺・寿福寺・円覚寺の住持を歴住し、鎌倉での禅宗(臨済宗)の教化に務めました。
禅興寺塔頭明月院 |
無学祖元
勅諱号:仏光禅師
門派 :仏光
示寂 :弘安九年(1286)
建長寺5世の無学祖元(むがくそげん)は、言わずと知れた円覚寺の開山で、こちらもまた宋からの渡来僧です。北条時宗に深く帰依されたと云われています。弘安九年(1286)に建長寺で亡くなりました。蘭渓道隆と同じく西来庵にお墓があります。
円覚寺 |
一山一寧
勅諱号:一山国師
門派 :一山
示寂 :文保元年(1317)
塔頭 :玉雲庵
建長寺10世の一山一寧(いっさんいちねい)は、元からの使者として来日した渡来僧です。二度に渡る元寇の影響下で警戒を怠らなかった幕府にスパイの疑いで伊豆修善寺に幽閉されてしまいます。しかし時の執権北条貞時が建長寺10世に迎えると、その後も円覚寺・浄智寺で住持を務めました。その後、宇多法皇の招聘により京都南禅寺へと移り、文保元年(1317)に示寂されました。
伊豆修善寺にある指月殿の額は一山一寧の書と伝わる |
高峰顕日
勅諱号:仏国国師
門派 :仏光
示寂 :正和五年(1316)
塔頭 :正統庵
建長寺14世の高峰顕日(こうほうけんにち)は、後嵯峨天皇の皇子です。無学祖元に師事し、円覚寺において印可を受けて法を嗣いでいます。門下(弟子)に夢窓疎石、天岸慧広などがいます。塔所となる正統院が現在も存続しています。
正統院 |
南山士雲
門派 :聖一
示寂 :建武二年(1335)
建長寺19世の南山士雲(なんざんしうん)は、京都東福寺から鎌倉に招かれました。建長寺の他、円覚寺にも住し、弁ヶ谷にあったと伝わる崇寿寺や金沢の泥牛庵の開山にも迎えられています。崇寿寺は北条高時の開基なので、南山和尚はこの最後の得宗執権から帰依を受けていたようです。円覚寺塔頭の伝宗庵が塔所となります。
泥牛庵 |
竺仙梵僊
門派 :古皮
示寂 :貞和四年(1348)
建長寺29世の竺仙梵僊(じくせんぼんせん)は、元からの渡来僧です。浄妙寺・浄智寺を経て建長寺の住持に迎えられました。浄智寺裏山で葛原岡ハイキングコース沿いにある天柱峰という場所は、竺仙梵僊が名付けたものだと伝えられています。周辺は往時では由比ヶ浜を眺めることができた景勝地だったといわれています。
天柱峰 |
古先印元
勅諱号:正宗広智禅師
門派 :幻住
示寂 :応安七年(1374)
塔頭 :広徳庵
建長寺38世の古先印元(こせんいんげん)は、長寿寺や京都等持寺の開山に迎えられていることからも、足利氏に深く帰依されていたことがわかります。元に渡り、後の建長寺22世となる清拙正澄の来日に伴い帰国しました。その他甲斐や陸奥国などでも住持を務めるなど、帰国後もかなり精力的に各地に赴いていました。長寿寺には創建年月日の逆サバ読み疑惑があります。足利氏がどうしても古先印元を開山にしたかったことが要因と考えられています。鎌倉ではその他に浄智寺・円覚寺にも住していました。
長寿寺 |
方崖元圭
門派 :大覚
示寂 :応安三年(1383)
建長寺47世の方崖元圭(ほうがいげんけい)は、金龍禅院や上杉憲方が開基の能仁寺(廃寺)の開山にも迎えられています。かながわ考古学財団『上行事裏遺跡』に、「能仁寺は上杉氏の六浦支配の宗教的中核であった」と記されています。ですからそれ程重要なお寺の開山として迎えられた方崖和尚は、上杉氏から特に帰依を受けていたものと思われます。
金龍禅院 |
基本情報
場所 :建長寺住所 :神奈川県鎌倉市山ノ内8
駐車場 :有り
拝観時間:8時30分~16時30分
拝観料 :大人(高校生以上)500円・小人(小中学生)200円
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