建長寺伝延宝図縁起
古絵図は、建長寺境内を描いた『建長寺伝延宝図』(以下延宝図)と呼ばれるもので、延宝六年(1678)徳川光圀施入と伝えられています。実際にも元禄十六年(1703)頃に材木座から建長寺域内に移ってきたとされる円応寺(新居閻魔堂)が描かれていません。また、建長寺の塔頭は49院あったと伝えられていますが、絵図をみるとこの時点で「跡」となっているものも多く、中世で隆盛を極めた建長寺のピークを過ぎた姿が描かれています。
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建長寺伝延宝図中心部 |
『鎌倉の古絵図』によれば、絵図は、大半が消滅した建長寺塔頭の旧跡を知る者すら少なくなったことを嘆いた徳川光圀が、将来、建長寺を再興するさいの準縄(標本・手本)とするため、絵師に命じて図を作成させたと伝わっています。
また、諸記録や収載図を比較してみると、それぞれ境内の配置に異なる点がみられ、にわかにには信じがたい所があると同書では指摘しています。この点は『鎌倉市史 社寺編』でも同じく「信じ難い」と述べていますが、あくまで中心伽藍における鐘楼やビャクシンなどの有無というホントに細かい点について言及しているので、大まかな大体の様相は、当時の景色をそのままに伝えているものと思われます。
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建長寺 |
建長寺中心伽藍
建長寺中心伽藍部分の直線的に並ぶ様相は今と変わらないようです。塔頭の正統庵に向う区画なども同じ雰囲気です。但し、絵図には法堂がありません。
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建長寺伝延宝図 中心伽藍部分 |
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法堂と仏殿 |
往時の建長寺敷地範囲
個人的にとても驚いたのが、絵図に描かれた往時の建長寺敷地範囲です。まず、建長寺の北側で絵図最上部右端にその位置からも十王岩付近のことを指していると思われる「ワメキ十王跡」が描かれています。この辺の事情を詳しく記す資料を見つけられませんでしたが、「ワメキ」というワードからもやはり十王岩そのものではないでしょうか。あの辺りまで建長寺の敷地だったんですね。
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建長寺伝延宝図 「ワメキ十王跡」 |
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十王岩からの景色 若宮大路の延長線上に位置する |
北鎌倉駅方面から山内道を鎌倉に向かうと、道沿いに住宅が建ち並んでいますが、この辺りも往時では建長寺塔頭が軒を連ねていたことがわかります。
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建長寺伝延宝図 南西部分 左に行くと浄智寺・東慶寺 右上に建長寺 |
山内道から住宅街奥に見える丘陵中腹に造成された平場跡は絵図から察するに、保寧寺跡でしょうか。また、建長寺の檀家専用駐車場が道沿いにあります。これも絵図を見ると、どう考えても塔頭跡のようです。そして長寿寺の並びにやぐららしき横穴が施されています。これも建長寺塔頭の痕跡なのかもしれません。
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山内道から見た保寧寺跡 |
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建長寺檀家専用駐車場 |
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長寿寺の並びにあるやぐららしき横穴 |
そして最も個人的に衝撃だったのが、巨福呂坂を挟んだ建長寺の対面で第六天のある丘陵部に施されていた平場・掘割状・やぐらなどの遺構が、建長寺の塔頭跡だとわかったことです。よくわからないなりにも、あの辺りの素敵な雰囲気に魅了され、何度か訪れたことがありますが、あれは建長寺の塔頭跡だったのかと、感慨深い気持ちでいっぱいです。
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建長寺伝延宝図 第六天エリア 塔頭跡がたくさん描かれている |
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建長寺対面の巨福呂坂沿い丘陵部にある平場 |
昔から駐車場だった?
ちょっと面白い箇所を見つけました。山内道から建長寺に入ると、惣門の手前に大型バスなども駐車できる大きめの駐車場がありますよね。あのスペースって車を停めるために近現代で作られたのかと思ったら、なんと、延宝図の惣門前に同じような形状と広さのスペースが存在します。
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建長寺伝延宝図 建長寺惣門前のスペース |
未来の建長寺において駐車場スペースとして活用すべく準備していた・・訳はないので、元々このような造りだったんですね。ちなみに現在の駐車場、料金は600円/1hです。六本木や新宿と変わりません。この値段を高いと思うかどうかはその人の価値感次第です。
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惣門前の駐車場スペース |
嵩山西来庵
建長寺にとって最も重要な存在と表現しても過言ではないでしょう。開山の大覚禅師の塔所となる西来庵です。非公開なのでどうなっているのかとても気になりますが、絵図から大よその雰囲気が伝わってきます。現在、昭堂・開山堂・食堂(本堂)・座禅堂(大徹堂)で構成されているそうです。そして裏山を登ると、大覚禅師の墓があるのが絵図からもわかります。安山岩製で和様化された無縫塔の最古品と云われています。見てみたいですね。
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建長寺伝延宝図 西来庵 |
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西来庵 |
基本情報
場所 :建長寺
住所 :神奈川県鎌倉市山ノ内8
駐車場 :有り
拝観時間:8時30分~16時30分
拝観料 :大人(高校生以上)500円・小人(小中学生)200円
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