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上山口は、近世まで下山口とともに山口郷と呼ばれていました。往時にこの地を治めていたのが、三浦義澄の次男有綱です。確証はないものの居城は栗坪の大昌寺だと『葉山町の歴史とくらし』(以下歴史とくらし)にありました。
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Google map 葉山
①長柄 ②堀内 ③一色 ④下山口 ⑤上山口 ⑥木古庭
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山口有綱
三浦一族にあってあまり『吾妻鏡』などで見かけた記憶のない山口有綱ですが、建仁二年(1202)10月29日条にその名を見つけました。以下要約。
御所の北側に松の木を植えるため、北条時房・和田義盛・三浦義村・山口有綱らがそれぞれ松の木を用意してきました。そこに紀内所行景が山口有綱の分が形が良くないとして嫌ったところ、有綱は「何故自分が用意した松の木ばかり嫌うのか」と怒ります。紀内所行景は、黙ってその有綱の松の木を並べました。
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葉山で松と言えば森戸神社の千貫松 ここから持っていったのかもw |
紀内所行景は、京からやってきた将軍頼家の蹴鞠の先生です。先生は有綱の怒りに萎縮したのか、それとも有綱の態度にあきれて松の木を並べたのか、そこまで細かいニュアンスが伝わりませんが、とにかく居心地の悪い空気感が伝わってきます。また、登場人物が全て大物です。このことからも、有綱も鎌倉でそこそこの御家人として列していたのかもしれません。
古東海道
上山口を横切る県道27号横須賀葉山線の道筋は、古くは古東海道であったと考えられています。近世では浦賀道として絵図などに描かれており、古くから三浦半島を横断する重要な道筋であったことは間違いないようです。
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県道27号横須賀葉山線 滝の坂 |
上山口には、鎌倉でもおなじみの134号を南下し、県道27号にぶつかったところで横須賀・走水方面へと向うか(下絵図①)、もしくは海岸線県道207号沿いにある葉山御用邸の辺りから横須賀・走水方面へと向かいます(下絵図②)。または立石公園などがある秋谷から子安の里や湘南国際村を経由するという壮大な山越えの道もありますが、こちらは往時ではかなり険しい道であったと思われるので、やはり海岸線から上山口を経由する道筋が最も妥当に思われます(下絵図②)。通説ではこのルートが古東海道だと云われています。確かに、三浦半島を横切るにはこのルートしかないかもしれません。
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Google map 葉山 |
上山口
県道27号で上山口に入ると、吾妻神社、そして名越の弁ヶ谷から移転してきたと伝わる新善光寺が所在しています。このルートが古東海道の道筋だ前述しましたが、実際にも吾妻神社には日本武尊が立ち寄ったという伝承が残されています。
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県道27号横須賀葉山線 新善光寺前 |
新善光寺から坂を下りるとビル一つない広大な平地と山の景色が広がります。実際に訪れてみると、県道27号は完全な新道のか、旧道は下山川に沿った山際にありました。旧道沿い各地に庚申塔が置かれています。
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上山口 |
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上山口の旧道 |
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旧道沿いには庚申塔や石像などが点在している |
山口有綱邸跡
さて、メインイベントとなる山口有綱邸跡に向かいます。まずはその邸跡とも伝わる大昌寺に訪れました。昔の参道をそのままコンクリートで固めたかのような、真っ直ぐではない登り道が素敵です。境内には民家、そして一段高くなった平場に本堂となっています。一応段状地形です。旧道を見下ろせる高台にあることからも、確かに、この地を治めた者の居住地と云われればそんな気もしてきます。
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山道のように曲がりくねった参道 |
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大昌寺本堂 |
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本堂より一段下の平場 |
有綱邸跡の痕跡か?
「この辺りに有綱さんが邸を構えていたのかぁ~」と、ここで話は終わらず、『歴史とくらし』の地名マップに面白い記述がみられました。有綱邸跡大昌寺の少し西側に「殿ノ門」という地名がみられます。常盤にも「殿入り」といういかにも殿がここから邸に入っていたと思われる門跡のような地名がありましたが、こちらはそのまま「殿ノ門」です。「これは・・有綱邸の痕跡か!」と興奮したのも束の間、そのすぐ近くに「冨塚屋敷」と地名マップに記されています。位置関係からもこれは富塚屋敷の殿ノ門でしょうか。ガッカリきましたが、しかし、地図上でこの辺りの地形を確認したところ、面白い地形が浮かび上がってきました。
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Google map 上山口 ①大昌寺 ②殿ノ門 ③富塚屋敷 水色の線は川 |
有綱邸跡大昌寺の位置が端に寄りすぎの感もありますが、なんと、完全に川で囲まれているじゃぁ~ないですか。これが当時からの地形であれば、三方を川に一方を山に囲まれた要害の地となります。ただですね、『三浦半島の史跡みち』(以下史跡みち)には、川を挟んだ大昌寺の隣の谷を有綱邸跡と手書きの地図に印してありました。ちなみに「富塚屋敷」とは、大昌寺の縁起にお寺の創建者として後北条氏の家臣冨塚善四郎が登場します。ですから「富塚屋敷」は、たぶん彼の屋敷跡だということかと思われます。
伝猪俣小平六、伝岡部六弥太の墓
有綱邸跡大昌寺から旧道を進むとあるのが、猪俣小平六と岡部六弥太の墓と伝わる二基の五輪塔です。とても風化していますが、画像ではたぶん伝わっていない迫力と風格が備わっています。材木座来迎寺にある三浦大介義明の五輪塔と似ているような気もするので、これが平安末期から鎌倉草創期にかけた五輪塔のスタイルなのかもしれません。
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伝猪俣小平六、伝岡部六弥太の墓 |
猪俣小平六範綱は、武蔵国那珂郡猪俣(現在の埼玉県児玉郡美里町猪俣)に拠を構えた猪俣党の党首です。『吾妻鏡』建久六年(1195)3月10日条などに、猪俣小平六と岡部六弥太の名が頼朝の随兵として記されています。猪俣小平六が一ノ谷戦において、卑怯な手で敵方の平盛俊を討ち取ったことから、それを後悔し、三浦義澄に相談しに行く途中、ここで自害したと伝わっています。しかしその自害した三年後に『吾妻鏡』に二人の名が載せられているという矛盾がみられます。『史跡みち』や『歴史とくらし』では、山口有綱邸が近いことからも、これら五輪塔を山口有綱一族のものだろうと結論付けています。また『歴史とくらし』の地名マップには、五輪塔の近くに「拝堂」という地名がみられます。この五輪塔と関係があるのかわかりませんが、何かがあったのであろう痕跡が汲み取れます。
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上山口の旧道 |
旧道をそのまま横須賀方面へと向うと、畠山重忠が衣笠合戦の際に陣を構えたと云われる木古庭へと続きます。
カテゴリー 探索記事(エリア別 葉山)
記事作成 2015年6月11日